今週半ばで、今年も2か月が過ぎる。

◆今年も2か月が過ぎる。
 人は仕事をすることで、さまざまな経験をし、与えてもらい、成長している。さらにその経験をもって、他人をも成長させていくもの。企業の中でそのような経験が活発に行われ、多くの人が成長し、同時に企業も成長していく。 自分自身の考えをしっかりもち、周りと意見し合っていくことや、自分なりの考えで問題を発見し、解決する能力を身につけていくことは非常に大切なこと。まして、業務を遂行していく過程では、必ず困難な課題や人が嫌がるような仕事に遭遇するもの。そのとき、明確な人生目標をもち、自分の良心と信念に基づいていれば、人の嫌がることでもいい意義を見つけられるはず。それに挑戦して何度も失敗をしても、最後にやり遂げることが大きな成長につながる。ともなくやり遂げることが成功の道であろう。今週水曜日からいよいよ3月を迎える。考えてみれば、今年も2か月が過ぎるということである。「誰よりも三倍、四倍、五倍勉強する者、それが天才だ。」(野口英世)であるが、凡人である私は、何倍も勉強しなければなるまい。

◆保科 正之(再掲)
 保科 正之は、江戸時代初期の大名。会津松平家初代。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。徳川家康の孫にあたる。江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。
 慶長16年(1611年)5月7日、第2代将軍徳川秀忠の四男(庶子)として生まれる。幼名は幸松。母は秀忠の乳母大姥局の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉)の娘(『以貴小伝』『会津家世実記』)、もしくは武蔵国板橋郷竹村の大工の娘(『柳営婦女伝系』)である静(志津、後の浄光院)。秀忠は慶長15年(1610年)2月から3月、慶長17年(1612年)3月から4月には駿府へ赴いているほか江戸近郊で鷹狩を行っており、静の妊娠はこの間のことであると考えられている。「会津松平家譜」では江戸神田白銀の竹村次俊宅にて出生したとの記述がある。
 近世武家社会においては、正室の体面・大奥の秩序維持のため侍妾は正室の許可が必要で、下級女中の場合にはしかるべき家の養女として出自を整える手続きが必要であったと考えられている。また、庶子の出産は同様の事情で江戸城内で行なわれないことが通例であり、幸松の出産は武田信玄の次女である見性院に預け、そこで生まれた幸松は見性院に養育された。その後、見性院は家康・秀忠に庇護されて武蔵国足立郡大間木村に500石を拝領し、江戸城田安門内の比丘尼邸に居住していた。見性院は信玄の娘・信松尼とともに武蔵国八王子で幸松丸の養育にあたる。正之の出生は秀忠側近の老中土井利勝井上正就他、数名のみしか知らぬことであったという。また、「会津松平家譜」では武田氏に預けられたのは慶長18年(1613年頃)としている。また、正之が生まれた場所は静の姉婿に当たる神田白銀町の竹村助兵衛方であったともいわれる。
 元和3年(1617年)、見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主保科正光が預かり、正光の子として養育される。ただしこの時、正之は正光の養子にすでに左源太という男子がいることをお供の女性が茶飲み話していたのを聞いて、母にむかって「肥州(正光)には左源太という子がいるからいかぬ」と駄々をこねて母を困らせ、母の説得でようやく高遠入りしたという。正之は高遠城三の丸に新居を建設されて母とともに生活し、正光の家臣が守役となり、正光も在城の際には日に5、6度はご機嫌伺いをしたという。正光は自らの後継者として正之を指名し、養子の左源太にも生活に不自由しないよう加増や金子を与えること、自らの存命中に秀忠と正之を父子対面させたいことを約した遺言を遺している。
 なお、長兄の家光が正之という弟の存在を知ったのは、家光が身分を隠して目黒に5人ほどの供を連れて成就院という寺で休憩していた時、そこの僧侶から「肥後守殿は今の将軍家の弟君である」と聞かされて知ったとされ、後で成就院は家光より寺領を寄進された。後に新井白石は正之を重用した家光の行為を「善政の一齣」であると記している。
 秀忠の死後、第3代将軍家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がった。寛永13年(1636年)には出羽山形藩20万石を拝領した。村山郡白岩領主酒井忠重に対して領民が江戸で出訴し忠重は改易となる。白岩領は山形藩に預けられたが年貢米が庄内藩に送られていることを知った領民が正之に出訴した(白岩一揆)。正之は関係者を捕縛し処刑する。寛永20年(1643年)、陸奥会津藩23万石と大身の大名に引き立てられる。以後、正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。慶安4年(1651年)、家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦った。正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通した。第3代・正容になってようやく松平姓と葵の紋が使用され、親藩に列した。
・・・考えてみると、徳川宗家が安定できた貢献者が保科正之である。将軍家を守ることを家訓としてきた会津松平家がその家訓から松平容保京都守護職になり、結果として、朝敵にされ、会津戦争で敗れる結果となるのは、歴史のいたずらかもしれない。歴史にもしがないが、孝明天皇の信頼が厚かった容保が、孝明天皇に死により、大きく変わっていったといわざる得ない。

<今日の江戸学トピック>
◆慶応3年(1867)2月27日、日本が初めてパリで開催されている万国博覧会に出品。幕府はフランス勧めで、刀・磁器・漆器・錦絵などを出品、日本風の茶屋を建てて話題を集めたそう。また薩摩藩佐賀藩もそれぞれ出品し、開場式には薩摩藩代表が琉球諸島王として独自に作った勲章をさげて参列していたため、幕府は抗議。結局薩摩藩は薩摩大守政府という名称で出品しました。