徳川慶勝②青松葉事件

◆青松葉事件(あおまつばじけん)は、慶応4年(1868年)1月20日から25日にかけて尾張藩で発生した佐幕派の弾圧事件。それまで京都で大政奉還後の政治的処理を行っていた14代藩主徳川慶勝が「姦徒誅鋤」の勅命を受けて同月20日に帰国した直後に弾圧命令が出された。対象者は重臣から一般藩士にまで及び、斬首14名、処罰20名にのぼった。
 御三家である尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家には、御附家老というものが存在した。御附家老とは、単純に言えば将軍家から派遣された藩主のお目付け役であり、尾張では成瀬隼人正(なるせはやとのかみ)家と竹腰兵部少輔(たけのこしひょうぶしょうゆう)家が知行高も大きく著名であった。藩主も遠慮しなければならない家柄からその権力は強大であり、藩内は自然、成瀬派と竹腰派に分かれた。このうち、より幕府に近い立場を取り続けたのが竹腰派であり、古くは幕府に反抗的だった7代藩主徳川宗春を隠居謹慎に追い込んだこともあった。幕末のこの時期、藩内は尊皇攘夷を唱える「金鉄組」と、佐幕的な立場を執る「ふいご党」とに分かれ、成瀬家は金鉄組、竹腰家はふいご党に近かった。そもそも尾張徳川家は、藩祖である徳川義直の時代から代々勤皇の家風であり、14代藩主に就任した徳川慶勝尊皇攘夷の立場をとり、特にペリー来航以来藩政の刷新を進める中で竹腰家を初めとするふいご党と対立することが多かった。大老井伊直弼の弾圧により慶勝が隠居すると、金鉄組は没落し、竹腰兵部少輔が新藩主茂徳のもとで藩政を取り仕切ったが、桜田門外の変以降竹腰兵部少輔は失脚、慶勝が隠居の身ながら藩政の前面に出、金鉄組とともに頻繁に上洛して政局にあたった。その間、茂徳が隠居して慶勝の子義宜が藩主となり、ふいご党は日の目を見なかった。
 大政奉還後、1868(慶応4)年1月3日から5日にかけての鳥羽・伏見の戦い幕府軍が敗北した。その一報が名古屋に届くと、京都に派兵するかどうかで、派兵を主張する金鉄組と派兵に慎重なふいご党との対立が深まった。鳥羽・伏見の戦いで勝利した官軍は、同月4日に仁和寺宮嘉彰(小松宮彰仁)親王征夷大将軍に任じ、同月7日に慶喜追討令を発出していたが、名古屋以東には幕府譜代の大名が多く、江戸に戻っていた慶喜の反撃も考えられたため、征討軍の通過に不安を感じていた。同月15日、朝廷は慶勝を呼び出し、交通の要衝にあたる尾張藩内の佐幕派勢力を粛清し、近隣の大名を朝廷側につくよう説得するため、帰国し、慶勝は早くから勤皇派だったが、徳川御三家筆頭として幕府に配慮する立場にあり、また藩内に佐幕派がいるのは当然のことだった。しかし勅命に反抗するわけにはいかず、苦悩の末佐幕派の弾圧を決意し、松平春嶽に対して「天朝とは君臣の義あり。幕府とは父子の親あり。国家艱難の際にあたりては、父子の親をすてても君臣の義をば立つべきなり。(…)」と語ったとされる。尾張藩の内紛として事件を収拾し、藩士に口止めをした。また「勤皇の者誘引」のため、家康以来の江戸の守りである譜代大名等である東海道中山道遠江駿河・美濃・信濃甲府・下野などの諸藩に朝廷側につくように働きかけ、承諾をとりつけたため、政府軍は江戸に争うことなく到着している。

<今日の読書>
・ 徳川15代
・ 図解幕末維新
・ 江戸開幕
・ 博覧強記(博覧強記を中心に精読しながら、あわせて何冊も同時進行的に読んでいる。)

<今日の江戸学トピック>
◆文化2年3月7日、幕府は長崎に滞在中のロシア使節レザノフに対し、ロシアとの通商の拒絶を通告。前の年の9月にロシア軍艦ナデジュダ号で長崎に入港したレザノフ。幕府との通商交渉を実現するために長崎の宿舎に滞在。幕府は結局鎖国を守り、通称拒絶の結論に達しました。