「千本桜まつり」。巨人が逆転で開幕3連勝。

◆午前中図書館へ。午後から家内と川土手にある「千本桜まつり」に散歩。地元の方々の舞踊などが行われていた。桜はソメイヨシノが中心であるが、4.5分咲という感じであった。来週には満開になり、土手沿いがまさにさくら並木になるでしょう。東京では「上野公園」を始め各地で桜が満開となり、多くの人が花見を楽しんだようだ。また、宮崎や静岡でも桜が開花したそうだ。夕方から明日からの事務所へ行く準備。座布団やカレンダーなどの雑品である。ただ、先週までと異なり、通勤が大変であり、おそらく座れない覚悟。今までのように本を読んでいる余裕はないかな。

◆2年連続の開幕3連勝!役者揃った!マギー決勝タイムリー、代打・亀井も2点打。巨人が逆転で開幕3連勝を飾った。

<今日の江戸学トピック>
寛永18年(1641)4月2日、3代将軍徳川家光江戸城へオランダ日本商館長ルメールを呼び、商館を肥前平戸から長崎の出島(出島(でじま)は、1634年江戸幕府鎖国政策の一環として長崎に築造された人工島である。出島は3969坪の扇型の小島で長崎市内とは 一本の木橋でつながれていた。1636年から1639年まで対ポルトガル貿易、1641年から1859年まで対オランダ貿易が行われた。)に移転させるよう命じた。<参考:出島https://www.nagasaki-tabinet.com/detail/index_63.html>。これにより幕府の鎖国政策が完成。
 当初長崎に来航するポルトガル人を日本人から隔離するために住まわせていたが、島原の乱鎮定以後、幕府は取り締まりを強化。寛永16年にはポルトガル船の日本渡航を禁止され、空き家状態になっていた。1641年に平戸(ひらど、現在の平戸市)のオランダ東インド会社の商館に、年額銀55貫目の約束をして、オランダ商館(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典から参照)は平戸から出島に移され、武装と宗教活動を規制されたオランダ東インド会社社員とオランダ国王のカピタン等が居住することになった。以後、約200年間、オランダ人との交渉や監視を行った。
 通常、長崎には毎年2隻のオランダ船が季節風の関係から7 - 8月ごろ来航し、バタヴィア(現在のジャカルタ)を出港し、バンカ海峡、台湾海峡などを経て、女島諸島、さらに野母崎をめざしてやってきた。その年の11 - 12月に帰路につくまでの約4ヶ月の滞在であった。船がいる間は多くのオランダ人を中心にした欧州人、マレー人が滞在していたが、それ以外の期間は商館長(カピタン)、次席商館長(ヘトル)、倉庫長、書記役(1 - 3人)、 商館医、商館長の補助員数人、調理師、大工、召使(マレー人)など15人前後の人が住んでいた。 翌年夏にオランダ船が入港するまでの間には、貿易に関する仕事や江戸参府などを行っていた。
 オランダ商館長(カピタン)は、歴代、通商免許に対する礼として江戸に下り、将軍に謁見して貿易の御礼を言上して贈り物を献上している。これを「オランダ商館長の江戸参府」といい、毎年、定例として行うようになったのは1633年(寛永10年)からであり、商館が平戸から長崎に移されて以後も継続された。1790年(寛政2年)以降は4年に1度と改められたが、特派使節の東上は1850年嘉永3年)まで166回を数えた。江戸の長崎屋、京の海老屋は「阿蘭陀宿」として使節の宿泊にあてられた。出島は長崎奉行の管理下にあり、その下にさまざまな人が出島で働いていた。「出島乙名(おとな)」は出島の責任者で、貿易についての監督や、出島内で働いている日本人の監督、指専や、出島に出入するための門鑑(通行許可書)の発行などを行った。「オランダ通詞」はオランダ語の通訳をする役人で、大通詞、小通詞、稽古通詞などの階級に別れていた。大通詞は大体4名で交代で年番通詞を勤め、オランダ人の江戸参府に同行したり、風説書や積み荷の送り書きの翻訳をした。
天明4年(1784)4月2日、田沼意次の息子で若年寄田沼意知が亡くなりました。36歳。前月の24日に、新番の佐野善左衛門に殿中で斬りつけられたため。父とともに、幕閣の中枢を握っていた意知。一説によれば出世のため善左衛門が金品を渡したのに対し、意知が何の沙汰もしなかったためだそう。田沼親子をねたんでいる人も多く、加害者の善左衛門は「世直し大明神」とはやしたてられたそう。これをきっかけに田沼政治は没落しました。

<今日の読書>
 ・ 鎖国
 ・ 徳川慶喜
 ・ 江戸文化の見方
 ・ 博覧強記