今日は遺品の整理。

◆今日は遺品の整理。

 カウント40 本日までの通算 80時間/500時間

◆幕末の四賢侯(ばくまつの しけんこう)は、福井藩第14代藩主松平慶永(春嶽)、土佐藩第15代藩主山内豊信(容堂)、薩摩藩第11代藩主島津斉彬宇和島藩第8代藩主伊達宗城である。
 四賢侯は藩政の改革に着手したばかりでなく、積極的に幕府の政治に参画した。阿部正弘が老中首座のときには、有力な親藩・外様の諸大名も幕政に参与させるよう改革を求めた。阿部もそれに応える形を採ったが、安政4年(1857年)に急死してしまった。その後井伊直弼大老に就いて幕閣を率いるようになると様相が一変、病弱で嗣子のない13代将軍・徳川家定の次の将軍に誰を擁立するかで四賢侯と井伊らが対立した。四賢侯水戸藩主・徳川斉昭の子で、御三卿一橋徳川家徳川慶喜を推し、井伊は御三家紀伊藩藩主の徳川慶福を推した。結局井伊が強権を発動して政敵を排除し、この安政の大獄により紀伊慶福が将軍家世子となることが決定した。斉彬は大獄の始まる直前に急死した。他の3人は同年7月以降、隠居、更には謹慎を命じられ、藩邸に押し込められた。安政7年(1860年)、井伊直弼桜田門外の変で暗殺されて以後、文久3年(1863年)にかけて、謹慎が逐次解かれた。自由の身となった彼らは、隠居の身ながら幕政・藩政に影響を与えた。中でも春嶽は文久2年7月(1862年8月)、幕府の新たな要職となった政事総裁職に就任した。文久3年末には春嶽・宗城・容堂・久光が参預に任命され、徳川慶喜松平容保らとともに国政を議する参預会議が開催されたが、久光を嫌った慶喜の非協力的態度により、短期間で崩壊した。さらに慶喜が15代将軍となった後の慶応3年5月(1867年6月)には、再び4人が集まって四侯会議が催される。幕府の権威を削減し、雄藩連合による合議をもってこれに代えようとした薩摩藩の画策であったが、慶喜の巧みな懐柔により無力化した。その後、容堂は慶喜に対し大政奉還を建白し、春嶽もまたこれに賛同している。彼らは大名であり、幕政に関与し続けようとしたため、倒幕という考え方は持っていなかった。彼らの主張はあくまでも幕府と藩主による連合政治であり、ひいては公武合体であった。

◆高須四兄弟・・・徳川慶勝尾張藩14代藩主、尾張徳川家第14代・第17代当主)、徳川茂徳尾張家15代藩主)、松平容保会津藩主)、松平定敬桑名藩主)を高須四兄弟と併称される。維新後、慶勝、茂徳は、朝敵となった弟である容保、定敬の助命に奔走した。


●「白線流し」作詞 こいけはつみ・藤公之介 作曲 佐野研三郎 編曲 戸塚修 歌 木村美保

 https://www.youtube.com/watch?v=Tlx3EfY5KU0

 https://www.youtube.com/watch?v=DgGYxocXIyA

 飛騨の山並み 春浅く
 だいはちが川 雪解け水
 見送りましょう 三年の
 月日の流れ 白線流し


 はりょうが丘の おぼろ雲
 あつい思い出 ふり仰ぐ
 結ばれますか 初恋は
 願い結んで 白線流し


 北山沿いに たどる道
 幾年ぶりに たずね来て
 あいさき橋に たたずめば
 遠い思い出 白線流し


 なつかしい声 振り向けば
 母になつたと 笑う友
 どうしていますか あの人は
 行方はいずこ 白線流し

技巧の無い素朴な歌唱から清純で純粋な悲しみが伝わって来て心打たれます。いつまでも残って欲しい昭和の、青春の歌です。

◆「みんなの心をつかむ突破力〜経済の達人・由利公正」(平成29年2月14日Eテレより)
 坂本龍馬がほれた経済の達人、福井藩由利公正(ゆりきみまさ)。その魅力は、何か思いついたらただちに一人で走り始め、危機があってもどんどんぶち破っていく突破力!ところがやがて、庶民と心を一つにした時の爆発力の方がはるかに強いと気づく。激動と謀略と戦乱の明治維新、由利はどうやって人々の心をつかみ、新政府の経済的な難問を解決していったのか、人の心をつかんで味方を得る。その極意とは。
 明治維新の立役者として西郷隆盛木戸孝允などが挙げられるが、明治維新を支えた人物の中で由利公正(三岡八郎)もその功労者の一人ではないだろうか。幕末の福井藩士であった由利公正は、「五箇条の御誓文」の草案の起草者として有名。御誓文は、明治維新の指導精神として、近代国家建設のさまざまな施策に受け継がれた。また、日本で最初の全国通用紙幣である太政官札を発行し、新政府の運営費を賄った。福井藩と国の両方で活躍した『由利公正』。数々の業績やエピソードもあり、ここ福井にもゆかりの地が残されている。由利公正とはどういう人物だったのか? その人柄や功績と合わせて、福井で生きた由利公正の軌跡を辿ってみると、
 <略歴>
 文政12年(1829)、福井城下毛矢に生まれる。福井に来遊した横井小楠の学問に影響を受け、藩財政を研究。殖産興業策を進め、藩財政を黒字化した。慶応3年(1867)、坂本龍馬が新政府への参画を求め来訪。その後、明治新政府に徴士参与として登用。財政を担当する。明治元年(1868)、「五箇条の御誓文」の草案を起草。同年、太政官札を発行。従四位下に叙せられる。明治4年(1871)には、廃藩置県後の初代東京府知事となり、翌年、岩倉欧米視察団に随行。その後、元老院議官、貴族院議員を務める。明治42年(1909)、81歳で没。
 ・坂本龍馬とは気の合う同志。
 一昨年発見され、全国的なニュースとなった坂本龍馬から後藤象二郎に宛てた手紙には新政府の財政担当者に由利を推す旨の記載がある。由利と坂本龍馬とは大変気が合う仲で、龍馬二度目の福井来訪時、足羽川近くの山町の莨屋(たばこや)旅館にて、早朝から深夜まで延々日本の将来を語り合った。当時、謹慎中の公正には立会人として藩士が付き添ったにもかかわらず、龍馬は遠慮せずに「三岡、話すことが山ほどあるぜよ」と叫んだと伝えられる。五箇条の御誓文の原文となった「議事之体大意」は龍馬の「船中八策」と思想的な基本が共通している。龍馬が福井を離れてから10日後、家老の家に招かれた由利は、帰り道、懐中に忍ばせていた龍馬の写真が無くなっていることに気付く。胸騒ぎがしたその2日後、龍馬の死を知ることとなる。
 ・横井小楠との運命的な出会い
 由利は横井小楠の教えに従って、福井藩でも産業奨励を行うことになり、その責任者に選ばれる。「あいつは銭勘定ばかり堪能で、武士にあるまじき振る舞いをしている」と周囲から馬鹿にされてきたが、小楠の出現により、これまでの由利に対する批判が一変する。小楠が福井へ赴いた年、弟死亡の知らせで一時帰国することとなった際、由利も熊本に同行し、毎夜、小楠と酒を酌み交わし議論を行った。この3年後、由利は再度熊本に小楠を訪ねている。 
 ・由利は長崎に四度出張している。安政5年、物産を興し通商貿易を行って収入を図るよう中根雪江橋本左内に働きかけ、貿易資本の確保と貿易状況の視察を建議し採用される。その後長崎に出張し、唐物商、小曽根乾堂の協力を得て、同所浪ノ平に越前蔵屋敷を設けた。そののち長崎江戸町に福井屋が開設され、そこを拠点に生糸などの輸出が行われる。同じように横浜にも出店が設けられ、販路開拓が図られた。
 ・紙幣発行のため、京都、大坂で資金集め 明治新政府徳川慶喜追討のため、御用金(会計基立金)を集める必要に迫られ、由利がその責任者となる。明治元年、由利は京都の大商人に5万両、大坂の大商人に同じく5万両の調達を命じ、計10万両の御親征費が調達される。紙幣の発行により産業振興を図ろうとした由利は、まず大坂でその準備に入る。同年5月には紙幣発行の日が決まったものの、反対論は根強かったため、由利は、「私は覚悟した。(発行されなければ)二条城に保管してある金札に火を付け、自刃する。」と訴え、予定通りの発行にこぎつけた。
 ・知事公舎も燃えた大火で一念発起
 明治5年2月26日、和田倉門内兵部省から出火し銀座、京橋さらに三十間堀から築地まで燃え広がり、5千戸、28万余坪を焼き尽くす大火となった。由利の公舎も類焼した。この火事をきっかけに由利は東京不燃化計画を作成し、実現を図った。由利は、当時のニューヨークやロンドンなど、国際都市の目抜き通り並みに銀座大通りを45.5メートルにすべきだと主張したが、大蔵省側の反対にあい、27.3メートルの拡幅となった。