今日は一日勉強です。

◆今日は一日は自宅で勉強です。図書館は休館です。
 カウント39 本日までの通算 90時間/500時間。

◆江戸時代の二大史書・・・『大日本史(だいにほんし)』と『本朝通艦(ほんちょうつがん)』
・『本朝通艦(ほんちょうつがん)』
 3代将軍徳川家光は、正保元年(1644)、儒者林羅山国史の編纂を命じ、羅山は、六国史の記述をもとに、神武天皇から宇多天皇に至る歴史を記し、『本朝編年録』と題して進呈した。しかし『本朝編年録』は、明暦3年(1657)の大火で焼失。寛文2年(1662)、4代将軍家綱は、羅山の子の鵞峰に国史編纂の再開を命じ、永井尚庸を総裁として新たに編纂事業が始まった。史料の収集、調査、執筆等は、上野忍岡に設けられた国史館で鵞峰を中心に進められ、寛文10年(1670)、神代から後陽成天皇の慶長16年(1611)までを漢文体で記した全310巻の編年史が完成(前編3巻・本朝通鑑40巻・続本朝通鑑230巻・本朝通鑑撮要30巻・附録5巻・首2巻)、『本朝通鑑』と総称された。清書本と中書本(最終的な清書本を作成する前の中間的な清書本)それぞれ310冊が幕府に進呈され、清書本は紅葉山文庫に収められた。中書本は将軍家綱の座右に置かれた。『本朝通鑑』の書名や形式は、司馬光の『資治通鑑』や朱熹の『資治通鑑綱目』に倣っている。
・『大日本史
 明暦3年(1657)2月27日、御三家のひとつである水戸徳川家当主である徳川頼房の次男光圀が江戸神田の別邸に史局を設置し、光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成した。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年(元中9年/明徳3年)までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。紀伝体史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)。携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた。『大日本史』は光圀死後の1715年(正徳5年)、藩主徳川綱條による命名で、同時代には『本朝史記』や『国史』『倭史』と呼ばれている。

桜田門外の変
 万延元年(1860)3月3日(1860年3月24日)、雪が降りしきる中、大老井伊直弼江戸城桜田門外で水戸浪士関鉄之助ら17人と薩摩浪士有村次左衛門の手によって暗殺された。井伊は駕籠で藩邸を出発、総勢60人余りの彦根藩士が隊列を組んで護衛していたにもかかわらず、井伊の首は有村らの手によって討ち取られた。安政の大獄水戸藩に下された勅諚「戊午の密勅」を朝廷に返納させたことに対する復讐であった。井伊が前日に詠んだ歌は「咲きかけしたけき心のひと房は散りての後ぞ世に匂ひける。」であり、なんとなく死を意識していたのでしょうか。
 当時、大名が無官の者に殺害された場合は領地没収という決まりがあったが、もしそうなると彦根藩水戸藩と一戦を交える勢いであったので、幕府は苦慮し、幕府の段取りは「井伊掃部頭は暴漢に襲われて負傷したため屋敷で病気療養中」と発表してお茶を濁し、三月十日に側室の子直憲(なおのり)を跡取りと定め、そして四月一日に死亡を発表させた。この事件で彦根藩は35万石から25万石に減封され、京都守護職も剥奪された。彦根藩は幕府を守るという譜代大名から距離をおき八年後に始まった戊辰戦争では初めから勤皇方に身をおいた。井伊家の先祖である井伊直政徳川四天王だったことからみると、不思議であり、この桜田門外の変の件から幕府から見放されたことが要因の一つかもしれない。
 <参考>
井伊直政は1561年に、遠江国(今の静岡県西部)の井伊谷という場所で生まれた。井伊家の24代目当主として徳川家康の家臣として活躍し、後に徳川四天王の一人に数えられている。直政が生まれた頃の井伊家は、主君である今川家によって父、井伊直親が殺されてしまうなど、滅亡寸前の状態にあんた。この状態を救ったのが大河ドラマ「おんな城主直虎」のヒロインである井伊直虎で、直政は直虎の養子となる形で1582年に井伊家を継ぐことになあた。その後の直政は、徳川家の中でも最も強いと言われた「井伊の赤備え」という部隊を率い、家康の天下取りに貢献していった。その勇猛果敢ぶりは敵軍には恐れられており、また部下にも厳しかったことから「井伊の赤鬼」と呼ばれ、恐れられた。井伊直政と言えば、特に、家康の家臣の中で外交手腕に長け、関ヶ原の戦いの前は全国の大名に調略を行い、多くの武将を東軍に参加させる事に成功した。