12月10日は世界人権デーであり、三億円事件の日。

◆12月10日は
 ①世界人権デー(Human Rights Day)。1950(昭和25)年の国連総会で制定。国際デーの一つ。1948(昭和23)年のこの日、パリで行われた第3回国連総会で「世界人権宣言」が採択された。「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」で始る全30条と前文からなっている。
 ②三億円事件の日。1968(昭和43)年のこの日、東京・府中市東芝工場で支給されるボーナスを積んだ乗用車が、白バイ警官に扮した犯人に強奪される「三億円事件」が起きた。多くの物証がありながら捜査は迷宮入りし、1975(昭和50)年に時効を迎えた。この事件以降、多くの会社が給料の支給を口座振込に切替えるようになった。
 ③安政2年(1855)12月10日、剣術家の千葉周作が亡くなりました。62歳。父から北辰一刀流を学び、その後江戸に出て一刀流を学びましたが、伝書を返上して武者修行に出ました。29歳で江戸に戻り、日本橋品川町に玄武館道場を構えました(のちに神田お玉が池に移転)。玄武館は江戸三大道場の一つ。門弟は3600人余りいました。

<今日12月10日生まれの江戸時代人>
小田野 直武(おだの なおたけ、寛延2年12月10日 - 安永9年5月17日(1780年6月19日))は、江戸時代中期の画家。秋田藩士。通称を武助。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。小田野直武の名と絵画は、秋田の角館で聞き、観たことがある。どうして秋田の地で蘭画が栄えたのか、不思議に思ったことを思い出す。小田野直武は秋田藩の角館で生まれ狩野派の絵画を学んでいたが、1773年に銅山開発(長崎のオランダ貿易では銅が用いられていた。半分は秋田藩)のために招聘された平賀源内と出会い、西洋画の理論と手法(遠近法、陰影法)を教えられる。線よりも色彩や明暗によって自然の形態を正しく表現すべきであるという考え方である。
 それが縁で25歳で江戸に派遣され、8ヶ月後には杉田玄白らが刊行した「解体新書」の挿絵を任されるまでになる。直武は毛筆によって挿絵を丹念に模写していった。玄白42歳、直武26歳であった。1770年には徳川吉宗が洋書の解禁を断行した蘭学の風が、医学、物産、そして絵画の世界にも吹いていた。直武は西洋と東洋の美術の融合した蘭画を生み出した。その画風は、秋田藩主の佐竹燭山(1748年生)や角館城代の佐竹義躬(1749年生)らへ波及し、秋田蘭画と呼ばれる画風となった。当世の絵画は写実性にかけていた。調度品としての観賞性と博物学的な西洋式写実性(遠近法)を融合させたのである。この秋田蘭画は後に銅版画や油彩画を描いた司馬江漢に引き継がれた。秋田蘭画は近代の夜明けのひとときの光芒を放ったのである。歴史の中で忘れられていたが、日本画家・平福百穂の「日本洋画の曙光」(岩波新書)で評価された。近代美術の始まり、日本の洋風画のさきがけという位置づけになった。1779年には藩主から遠慮(謹慎)を命じられ、また病を得て帰郷し、翌年に32歳で亡くなっている。君公に直諫したための沙汰であった。内容は藩の財政、あるいは君公の御行跡に関することであったといわれている。直武の没した翌日に沙汰が解け出府せよとのご沙汰があり、解けたことを知った父は残念のあまり発作的に精神の異常をきたしたという。前野良沢杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳作業は、図版を印刷するため、『ターヘル・アナトミア』などの書から大量に図を写し取る必要があった。旧知の源内の紹介によって、直武がその作業を行うこととなる。