国絵図と城郭絵図(再掲)

<今日の江戸学トピック>
◆正保元年(1644)12月25日、幕府は各大名に対し諸国の正保元年(1644)12月25日、幕府は各大名に対し諸国の国絵図と城郭絵図を作成して提出するように命じました。豊臣氏の滅亡、鎖国の完成を経て、権力基盤を固めてきた徳川氏。各大名にとって城郭や領地の絵図を提出するかどうかは、自分の上位者として徳川氏を認めるか否かということでした。を作成して提出するように命じました。豊臣氏の滅亡、鎖国の完成を経て、権力基盤を固めてきた徳川氏。各大名にとって城郭や領地の絵図を提出するかどうかは、自分の上位者として徳川氏を認めるか否かということでした。
 正保元年(1644年)12月、徳川家光は全国の大名に対して、国絵図・郷帳とともに城絵図の作製を命じた。提出期限を示さなかったため実際の提出年紀はまちまちだが、4〜5年のうちに提出されたと考えられている。「城郭を中心とした軍事施設」を主題とした主題図であり、記される文言は原則として、軍事上重要な事柄に限られる。提出された絵図は、江戸城内の紅葉山文庫に収められた。文化年間に幕府書物奉行であった近藤正斎の記録には157点の正保城絵図があったことが記され、これが提出の総数であった可能性が指摘されている。幕府は正保城絵図以降、改めて大名に城絵図を一斉に提出させることはなかったが、藩側の判断で元禄国絵図作製の一環として城内絵図・城下絵図を作製した例もある。正保城絵図の提出は、城の軍事性を完全に幕府が把握するということを通じて、徳川幕府の絶対的な権威を諸大名にはっきり認識させる意味を持っていた。
◆慶応2年(1866)12月25日、孝明天皇が急逝。36歳。17歳で即位。外国船の来航が激増した時代。攘夷の維持のためには公武合体による国内一致が急務であると判断、妹和宮を14代将軍徳川家茂へと降嫁。佐幕的な天皇が亡くなったことで、倒幕派は有利になりました。

<今日の京都新聞
豊臣秀次由来の角形「丁字麩」 滋賀・近江八幡の特産(近江八幡市
 重い電熱器のふたが開くと、ふかふかのパンが焼けるような、いい香りが工場内に漂う。きつね色に焼けた麩(ふ)をかじると、外側はサクサク、内側はしっとり。懐かしいような、素朴な味がする。滋賀県近江八幡市の特産品として知られる「丁字麩(ちょうじふ)」。小麦粉からできるタンパク質の一種、グルテンを練り、細長く切って伸ばした上で水にさらし、電熱器でこんがりと焼く。「麩の吉井」として知られる吉井製麩所(同市為心町上)の工場では、女性4人が手作業で製造にあたる。3代目の吉井清子さん(73)は「温度や湿度も日々変わるので繊細な工程。手先が器用でないとね」と作業を見つめる。吉井さんは父が麩作りを始め、子どものころから家業の手伝いをしていた。「昔は木くずを燃料に焼いていたんです。小学校に入ったころから母に『上手やなあ』とほめられて焼くのを手伝い、自転車で問屋さんまで配達もしていました」 麩は一般的には丸い形が多いが、丁字麩は角もちのような長方形。戦国時代の八幡城主・豊臣秀次が、兵糧用に束ねて持ち運びできるよう、角形にしろと家来に命じたことがはじまりだと同市では伝わる。(http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20171224000053