左京の方

≪今日の江戸検・江戸時代の女性たち≫
浅野内匠頭奥方に奉公し、事件後、甲府に奉公したという人は?
<解答>左京の方

●左京の方とは
 赤穂藩浅野家の江戸屋敷で、藩主の妻・阿久里の侍女として仕える15歳のきよは、浅野家の家臣で藩主・長矩の児小姓として若くして出世した磯貝十郎左衛門と恋仲にあった。武芸を奨励し、気難しい性格の長矩公がただの女中であるきよと、小姓として気に入っている十郎左衛門が一緒になることを容易に認めてくれるとは思えず、まずは外堀を埋めていこうと画策し、きよは十郎左衛門の老齢の母・貞柳尼の世話をして信頼を得ようとするが、貞柳尼は2人の思惑を簡単に見破り、主君の不興を買うような真似をしないよう釘を刺す。長矩が勅使饗応役に任命され、藩内が慌しくなる中、阿久里の代参で五百羅漢寺に詣でたきよの目の前で、長矩と阿久里が寄進した仏像の首が抜け、何かの凶兆かと怯える。長矩が無事に役目を終えられるよう祈りながら、いつものように仕事をこなすきよたちの元に、長矩が殿中で刃傷沙汰を起こしたと知らせがもたらされる。なかなか情報が入ってこず、やきもきする家中に、長矩切腹の報が入り、事態はめまぐるしく変化する。十郎左衛門は仇討のための下準備を始め、きよは阿久里の命で浪士たちの近況を知らせる役目を負う。十郎左衛門は夫婦にはなれないときよに伝えるが、それでも構わないからと契りを交わし、束の間の幸せを噛みしめる。十郎左衛門のためだけでなく、主家のために忠義を果たさんとの強い思いで、きよは伝手を辿って吉良邸に女中として入り、吉良上野介の妻・富子に仕える。四十八人目の忠臣として、何か討ち入りのためになりたいと思っていたきよだったが、仲睦まじい老夫婦の姿を見るうちに、自分のすることを考え気がくじけていく。そうして時は過ぎ、吉良邸への討ち入りが決行され、赤穂浪士たちは本懐を遂げる。泉岳寺へ向かう隊列を褒めたたえる群衆の中に、一人涙するきよの姿があった。助命嘆願は届かず、浪士は切腹、遺児たちには遠島処分が下された。1年と1月後、きよは新たに甲府藩主・徳川綱豊の屋敷へ奉公に上がり、間もなくして綱豊公の手がつき側室となる。宝永元年(1704年)、将軍世嗣と決まり将軍・綱吉の養子となった網豊公は江戸城へ入り、名を家宣と改める。きよも側室として同行し、家宣が将軍に就任した年に男児を出産する。家宣の寵愛を得たきよは、男児を産んだ褒美として赤穂浅野家の再興と島流しとなっていた遺児たちの恩赦を願うのだった。

<今日の江戸学トピック>
安政7年(1860)1月13日、幕府の軍艦咸臨丸が品川からアメリカ・ワシントンに向けて出航。2年前に調印した日米修好通商条約の批准書を交換するため、使節をワシントンに派遣することに。使節団はアメリカのポーハタン号に乗船。その船とは別に日本人による航海訓練をしようと、咸臨丸を随行船として先発させた。咸臨丸には艦長の勝海舟以下およそ90名が乗り込み、その中にジョン万次郎、福沢諭吉もいた。

≪今日の京都通≫
松尾大社の境内に湧く霊泉はどれか。
 ア、亀の井  イ、桃の井  ウ、染の井  エ、県井
<解答>  ア、亀の井
<解説>  古くから酒の神様として信仰を集めた松尾大社の境内には、霊泉の 「 亀の井 」 がある。また社務所の裏を流れる渓流を御手洗川と呼び、涸れることのない霊亀の滝もかかっている。亀の井の水は醸造の時に混ぜると酒が腐らないと伝えられており、酒造家はこの水を酒の元水として造り水に混ぜて使った。また延命長寿、よみがえりの水としても知られている。「 桃の井 」 はキンシ政宗堀野記念館の中に湧く名水であり、「 染の井 」 は京都三名水の一つで、梨木神社の境内に湧き、同じく京都三名水の 「 県井 」 ( あがたい ) は御所西側、かつての一条家の邸宅跡に現存するが、現在は枯渇している。(3級)