第11代将軍徳川家斉亡くなる。

<今日の江戸学トピック>
天保12年(1841)閏1月30日、第11代将軍徳川家斉が亡くなった。69歳。御三卿の一橋治済(はるさだ)の長男。10代将軍家治の死去に伴い、15歳で将軍職に就きました。将軍在職51年。松平定信を老中首座とし寛政の改革を断行。隠退後も実権をにぎり大御所時代といわれました。文化・文政時代には町人文化が成熟しました。なんと側室は40人、子女は55人いた。まさにオットセイ将軍。
●第11代将軍徳川家斉 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20160805#p2 
 第11代将軍家斉は、安永2年(1773)10月、御三卿一橋家の第2代徳川治斉の長男に生まれる。吉宗の曾孫にあたり、母は側室のお富の方(慈徳院)である。10代将軍家重の長男家基の急死で天明元年(1781)5月に家治の養子となり江戸城西ノ丸に入り家斉と称した。天明6年(1786)家治(50歳)の死去にともない、翌年、家斉15歳で第11代将軍を継承した。将軍に就任すると、田沼意次を失脚させて、御三家の推挙による白河藩主の松平定信を老中首座に任命した。これは家斉とともに11代将軍と目されていた定信を御三家が立てて、若き家斉が成長するまでの代繋ぎとした。定信によって賄賂政治とも呼ばれた田沼時代を粛清した「寛政の改革」で元の重農主義に戻したが、あまりに清廉な政治を目指しすぎ庶民の不評が高まった。「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」と狂歌に詠われた。
 寛政元年(1789)2月、家斉は第8代薩摩藩主の島津重豪の娘近衛寔子(広大院)を正室に迎えた。両家の正室が姉妹であり、両名は3歳のときに婚約し一橋邸で養育された。慣例にならい島津茂姫は近衛家の養女となり寔子(ただこ)と改名し、義理のいとこ同士で婚約から13年後の婚儀となった。寛政8年(1796)家斉の5男が生まれる。御台所が男子を産むのは2代秀忠正室お江与以来であったが夭折する。しかし、その3年前に側室お楽の方(香琳院)が生んだ二男の家慶が将軍家世継とすでに定められていた。幕政は側近に任せた家斉は、17歳の時に側室に長女が生まれると、以後、特定できるだけで17人の側室に毎年一人のペースで子供ができ続け、男子26人・女子27人計55人の子女をもうけた。しかし、成年まで無事に成長したのは28人である。子女を多く儲けたのは徳川家の天下を一橋家の系統で押さえるため、家斉の子を正室や養子として迎えた大名家に対しては特別な待遇が与えられた。
 文政10年(1827)加賀藩主12代前田斎泰に輿入れする11代将軍家斎の21女・溶姫を迎えるために御守殿門を設けた。中央の薬医門は切妻造り、左右に唐破風造りの番所を置いた。門の型式は大名の格式で定められ、将軍家からの輿入れ門は朱塗りが慣例であった。この門は焼失すると再建が許されないため、前田家では自前の大名火消「加賀鳶」を置いて保存に務めた。(関東大震災東京大学の図書館は倒壊炎上して、多くの貴重な図書を焼失したが、米国ロックフェラー財団の多額の寄付により再建した。東京大空襲GHQ連合国軍総司令部)はこの図書館の保存を含む東京大学構内を総司令部として利用する目的で空襲を控えていた。占領後、GHQが接収に大学を訪れると教育を継続しなければ戦後復興に支障が生じると明け渡しを強硬に拒んだ。御守礼門は空襲を免れ、東京大学のシンボル「赤門」とし健在である。)やがて家斉との意見の違いから失脚した定信に代わって水野忠成、林多忠英らが実権を握り、田沼時代を彷彿させる賄賂時代が再び横行し始めた。「水の出て、元の田沼となりにけり」と狂歌に詠まれる。天保の大飢饉が起こり農民の暴動が起きる。さらに天保8年(1837)学者で元与力の大塩平八郎が武力討幕を策した騒乱で幕政への批判が高まった。天保8年4月、家斉は二男の家慶に12代将軍職を譲っても、大御所となって幕政の実権は握り続けた。晩年には老中の間部詮勝堀田正睦、田沼意正を重用した。天保12年(1841)1月、家斉69歳が死去した。墓所・上野寛永寺。家斉の50年に及ぶ将軍職在籍中に江戸幕府負の遺産が築かれ、幕末に大きく影響してゆく。また、一橋家は徳川徳丸で家斉の血筋は絶え、水戸家から慶喜が養子に入ることになる。

《今日の京都通》
天龍寺の曹源池庭園はどのような指定をうけているか。
 ア、名勝  イ、特別名勝  ウ、史跡及び特別名勝  エ、特別史跡及び特別名勝
<解答>  ウ、史跡及び特別名勝
<解説>  天龍寺の曹源池庭園は開山である夢窓疎石によって作庭された名庭で、日本で初めて史跡及び特別名勝に指定された。嵐山を借景にした雄大さと、曹源池の対岸には枯山水の石組を配して龍門瀑を構成し、対照的に手前の護岸は優美な曲線を用いて相対した。池泉庭園から枯山水庭園への過渡期を表しており、貴重な作例として現在に伝わっている。特別史跡及び特別名勝に指定されているのは全国で十か所しかなく、京都では金閣寺銀閣寺、醍醐寺三宝院の庭園が指定を受けている。(3級)