浅草案内②

浅草寺(せんそうじ)・・・雷門左に「坂東三十三箇所音霊場」石碑あり
東京都台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺である。山号は金龍山。本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。元は天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所音霊場(ばんどうさんじゅうさんかしょ)・神奈川県・埼玉県・東京都・群馬県・栃木県・茨城県・千葉県にかけてある33か所の観音霊場のこと。源頼朝によって発願され、源実朝が西国の霊場を模範として札所を制定したと伝えられている。第一番札所の杉本寺(神奈川県鎌倉市)から第三十三番札所である那古寺までを巡拝すると、その道程は約1300キロメートルにもなる。巡礼者は全ての札所を巡拝(結願)すると、善光寺および北向観音に「お礼参り」をすることが慣わしとされている。お礼参りの始まりは江戸時代とされる。)の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場江戸三十三箇所(えどさんじゅうさんかしょ)・東京都内にある33箇所の観音札所のことである。寛永18年(1641)から、元禄11年(1703)の間に開創された江戸三十三所霊場を基に、昭和51年制定された。)の札所(1番)でもある。
●雷門
 浅草寺の総門である雷門は、浅草を代表する顔。雷門(かみなりもん)は、浅草寺の山門。東京都台東区浅草一丁目2番 - 3番地に位置する。正式の名称は、風神雷神門(ふうじんらいじんもん)。 提灯には風雷神門(ふうらいじんもん)と略されてある。
 門に向かって、右側に風神、左側に雷神が配される、朱塗りの山門である。門の中央には、重さ約700Kgの提灯が吊りさげられており、浅草のランドマークとなっている。北斎941年、安房国の太守であった平公雅が、武蔵国への配置転換を祈願。翌年、配置転換の願いが叶ったことから、新天地での天下泰平と五穀豊穣を祈願し伽藍などの寄進を行った。初代の雷門に相当する門は、その際に造られたとされる。雷門の呼称は、江戸時代の川柳に初めて登場するが、それ以前のいつの段階から呼ばれるようになったかは不明である。知名度に関しては、雷門の名が書かれた提灯が1795年に初めて奉納されており、浮世絵の題材に用いられたことから、以降、日本各地へ浸透したものと考えられる。山門はしばしば火災により消失しており、江戸時代だけでも2度も建て替えられている。最後の火災は1866年(慶応元年12月14日)であり、以後、100年近く恒久的な建築物としての山門は姿を消す。
 明治年間から太平洋戦争後にかけては、さまざまな形態の仮設の雷門が登場したと伝えられる。いずれも博覧会の開催や戦勝記念など、その時々のイベント的な要素が強く、素材は鉄骨やコンクリートなどの構造もあったほか、大きさもさまざまであった。1904年の日露戦争終結時には、凱旋門として雷門が建てられている。
 1960(昭和35)年、松下電器産業(現パナソニック)の創設者、松下幸之助が病気だったころに浅草寺に拝んだ。そして、治ったためそのお礼として門及び大提灯を寄進し、現在の雷門が成立した。風神・雷神像は、江戸時代の頭部(火災により焼け残ったもの)に、明治時代に造られた胴体をつなげた物を引き続き使っている。また、昭和53年の開帳1350年を記念して、門の裏側には芸術院会員、台東区名誉区民の平櫛田中天竜、金竜二神の像が安置されている。平櫛田中は、谷中岡倉天心記念公園内の六角堂、天心坐像の作者でもある。
 門の間口は六間半(11.8m)奥行き三間(5.4m)。ちゅうおう吊り下がる大提灯は、高さ4m、直径3.4m、重さ670g。平成4年12月に改修され、新しくなった。
 (*五穀とは、日本においては、「いつつのたなつもの」あるいは「いつくさのたなつもの」とも読む。古代からその内容は一定していない。現代においては、米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)を指すことが多い。いずれも代表的な人間の主食である。これら五種をブレンドした米を五穀米(ごこくまい)と呼び、また、五穀米とは日本初の五穀米商品として石川商店から発売されている商品に使われている名称(登録商標)でもある。
・「雷門三定」
 江戸時代、三河(今の愛知県)出身の定吉人形町の自宅前で店を開き、江戸近郊の新鮮な小魚をごま油で揚げたのが三定の始まりです。三河定吉、すなわち「三定」。以来160年余年、浅草は観音様のお膝下で代々の味を継承しております。三定の天麩羅は香ばしく、あと口も軽いのが好評。
仲見世
 ・江戸の仲見世
仲見世は日本で最も古い商店街の一つです。徳川家康江戸幕府を開いてから。祈願寺として信仰され、また江戸の繁栄とともに人口が増え、浅草寺への参拝客も一層賑わいました。浅草寺境内の掃除の課役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられました。これが仲見世の始まりで、元禄、享保(1688年〜1735年)の頃と言われています。
 江戸時代には伝法院から仁王門よりの店を「やくだな」と呼び、20件の水茶屋が並び、雷門よりは、「ひらみせ」と呼ばれ、玩具、菓子、土産品などを売っており、次第に店も増え日本でも一番形の整った門前町へと発展していきました。
 明治維新の政変により、寺社の所領が没収され、浅草寺境内は東京府の管轄となり、政府は新しく東京に5公園(浅草(金竜山浅草寺)、上野(東叡山寛永寺)、芝(三縁山増上寺)、深川(富岡八幡社)、飛鳥山の5箇所を上申し、東京に5公園が生まれた。)を作り、公園法を制定して以前からの一切の特権が仲見世から取り上げ、明治18年(1885年)5月、東京府仲見世全店の取払いを命じ、退店した後、煉瓦造りの洋風の豊かな新店舗が同年13月に完成、近代仲見世が誕生した。
・大正以後の仲見世
文明開化、明治の匂いを留めた赤レンガの仲見世大正14年関東大震災で壊滅し、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリートによる桃山風朱塗りの堂々たる現在の仲見世に生まれ変わった。因みに新仲見世商店街の歴史も、関東大震災からの復興に伴う区画整理の後、昭和5年(1930年)に浅草松屋が開店し、そこから六区を繋ぐ道が整備されたことに端を発している。その新生仲見世も昭和20年(1945年)の戦災で建物内部をすべて焼失してしまったが、戦後間もなく復興、昭和60年(1985年)には近代仲見世百周年を記念して電飾看板の改修、参道敷石の取替工事を行うなど多彩な行事でお祝いした。平成元年4月には東京芸術大学平山郁夫教授指導で「浅草絵巻」と題し、全店のシャッターに浅草の祭事を描いた。
 現在の仲見世は統一された電飾看板に飾られながら雷門から浅草寺までの約250メートルを繋ぐ。東側54店、西側34店合計88店の店舗が軒を連ねている。観光客で賑わう町だから当然のことながら土産物を取り扱う店が多い。外国人観光客はやはり日本情緒を感じさせる品物がお好みのようだが、日本人の身であっても色鮮やかな扇子や花かんざしなどを扱うお店では自然に足が止まってしまう。昔ながらの玩具を扱うお店も楽しい。訪れたのは秋だったが、江戸風鈴の涼やかな音色にも心惹かれる。歩いていると、なかなか誘惑が多い。当然のことながら人形焼や雷おこしを売るお店も多い。土産物用の箱詰のものの他に、焼きたての人形焼を店頭で販売している店もある。それを買い求め、どこかで一休みしながら頬張るのもいい。温かい人形焼きはたいへんに美味しい。
・「河竹黙阿弥住居跡」
河竹黙阿弥は、幕末から明治にかけて活躍した狂言作者で、明治の文豪坪内逍遥は、河竹黙阿弥を「日本のシェークスピア」と讃えています。河竹黙阿弥は、分化13年(1816)に日本橋の越前屋勘兵衛の長男として生まれました。若いときから遊蕩にふけり、14歳で勘当されて、貸本屋の手代となったこともあったようです。天保6年(1835)、20歳のときに5代目鶴屋南北の門に入り、狂言作者見習となりました。天保14年には2代目河竹新七を名乗って江戸河原崎座の立作者となりました。
 嘉永7年(1854)、4代目市川小団次のために書いた「都鳥廓白浪」が当たりをとり市川小団次に認められ、以後、慶応2年(1866)に小団次が亡くなるまで,彼のために多くの傑作を書きました。
 天保14年(1843)天保の改革水野忠邦により江戸三座が浅草猿若町に移転させられると、河竹黙阿弥も間もなく芝から浅草の浅草寺の子院である正智院の地内に住まいを移しました。
現在、雷門と宝蔵門の間は、仲見世となっていますが、江戸時代には、雷門と仁王門(現在の宝蔵門にあたる)の間には、浅草寺の子院が建ち並んでいました。正智院も、そうした子院の一つでした。正智院の地内(じない)に住んでいるので「地内の師匠」と呼ばれるようになりました。
  そして、明治20年に本所に引っ越しするまで、浅草で暮らしました。仲見世の中ほどの横丁を東に入ると仲見世会館があります。その正面横に「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」が建っています。また、浅草神社の境内には、「河竹黙阿弥翁顕彰碑」が建てられています。左写真の右側の碑が顕彰碑です。
・「梅園」
安政元年(一八五四年)浅草寺の別院・梅園院の一隅に茶屋をひらいたのが始まりで、屋号梅園もそのゆかりである。初代は元祖「あわぜんざい」で好評を博し、東京名物となり、以来一六〇余年甘味処として伝統を継承してきた。
・「中清(天ぷら)」
幕末の頃、初代中川鐡蔵が、広小路通りに屋台を出したのが始まりで、明治3年浅草公会堂前に店を構え現在に至っている。当店の名物の「雷神揚げ」は、仏文学者辰野隆博士が雷門に立つ雷神様の持つ雷太鼓に似ているところから名付けられたもの。古くは、文豪永井荷風の作品の中にも、しばしば当店を訪れる場面があり、三代目と幼馴染みの作家、久保田万太郎にも愛された。