山田方谷とは

◆山田 方谷(やまだ ほうこく、1805年3月21日(文化2年2月21日) - 1877年(明治10年)6月26日)は、幕末期の儒家陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は号。山田家は元は清和源氏の流れを汲む武家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。方谷はお家再興を願う父、五朗吉(菜種油の製造・販売を家業とする農商)の子として備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)で生まれる。5歳になると、新見藩の儒学者である丸川松隠に学ぶ。20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命された。その後、藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した。幕末の混乱期には苦渋の決断により、藩を滅亡から回避させることに成功した。しかし、明治維新後は多くの招聘の声をすべて断り、一民間教育者として亡くなった。
 方谷は29歳のとき、京都遊学で陽明学と出会う。このとき、王陽明伝習録から朱子学陽明学のそれぞれの利点と欠点を理解し、正しい学び方を修得した。朱子学の利点は、初心者でも学問の順を追って学べば深く学ぶことができる。しかし、我が心の内を忘れて我が心が得心しているかは問わないという欠点があった。一方、陽明学の利点は、我が心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業においては成果を出すことができる。しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多いという欠点があった。よって、先人達の教訓や古典から真摯に学び、努力することが求められる。この後、方谷は弟子達から陽明学の教えを請われても安易に教えることはせず、朱子学を深く学ぶことを諭した。これは、己の心のままに行為に走ってしまいやすい陽明学の欠点を熟知していたことによる。
備中松山藩の藩政改革
 方谷が説く「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた。理財論は方谷の経済論。漢の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考え方で、改革を進めた。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、事の外に立って義と利の分別をつけていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説いた。
 擬対策は方谷の政治論。天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢なことが、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることを説いた。
 この方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行った。
1.藩財政を内外に公開して、藩の実収入が年間1万9千石にしかならないことを明らかにし、債務の50年返済延期を行った(ただし、改革の成功によって数年後には完済している)。
2.大坂の蔵屋敷を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米会所の動向に左右されずに平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し、災害や飢饉の際には領民への援助米にあてた。
3.家中に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じ、また領民から賄賂や接待を受ける事を禁じて発覚した場合には没収させた。方谷自身の家計も率先して公開して賄賂を受けていないことを明らかにした。
4.多額の発行によって信用を失った藩札を回収(711貫300匁(金換算で11,855両)相当分)し、公衆の面前で焼き捨てた。代わりに新しい藩札を発行して藩に兌換を義務付けた。これによって藩札の流通数が大幅に減少するとともに、信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった。
5.領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコや茶・和紙・柚餅子などの特産品を開発して「撫育局」を設置して一種の専売制を導入した。他藩の専売制とは逆に、生産に関しては生産者の利益が重視されて、藩は後述の流通上の工夫によって利益が上げるようにした。
6.これら特産品を、商人の力が強くなりすぎて中間手数料がかかる大坂を避け、藩所有の艦船(蒸気船「快風丸」)で直接江戸へ運び、藩邸内の施設内で江戸や関東近辺(鍬は農村の需要が高かった)の商人に直接販売した。これによって、中間利益を排して高い収益性を確保する一方で、藩士たちに航海術を学ばせた(ちなみに板倉家の同族である安中藩の家臣であった若き日の新島襄も、この航海演習に参加したことがあるという)。
7.藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民や商人出身でも藩士へ取立てた。
8.桑や竹などの役に立つ植物を庭に植えさせた。更に道路や河川・港湾などの公共工事を興し、貧しい領民を従事させて現金収入を与えた。また、これによって交通の安全や農業用水の灌漑も充実された。
9.目安箱を設置して、領民の提案を広く訊いた。
10.犯罪取締を強化する一方、寄場を設置して罪人の早期社会復帰を助けた。
11.下級武士に対して一種の屯田制を導入し、農地開発と並行して国境等の警備に当たらせた。
12.「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を導入し、若手藩士と農民からの志願者によるイギリス式軍隊を整えた(方谷自身も他藩を訪れて西洋の兵学を学んだという)。この軍制は長州藩(後の奇兵隊)や長岡藩でも模範にされた。
 方谷は朱子学(とこれを奉ずる幕藩体制)の弱点を、己の欲望を絶とうとする余り、義に適った利までも卑しんでしまい、結果的には正当な勤労による利益までも否定的に捉えてしまう点にあることに気付いていた。従って、当時の幕藩体制ではありえなかった、藩(武士)が商業を手がけることに対して非難の声を受けることもあったが、あくまで藩主・家臣が儲けるための政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを最大限に還元するための手段であるとして、この批判を一顧だにしなかった(事実、方谷は松山藩の執政の期間には加増を辞退して、むしろ自分の財産を減らしている)。これによって、松山藩の収入は20万石に匹敵するといわれるようになり、農村においても生活に困窮する者はいなくなったという。
 方谷の思想は後に、弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることになった。また、至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。
◆幕末から維新にかけて
 藩主板倉勝静白河藩松平定信の実の孫であり、元をたどれば徳川吉宗の玄孫にあたる。そのため、幕府に対する忠誠心が高く、勝静自身も奏者番寺社奉行・老中と幕府の要職を務めた。しかし、幕府の重職を担うことは藩財政の逼迫を招くため、方谷は勝静の幕政参加に反対していた。また、勝静は方谷の能力を高く買い、藩の外交官として自身の補佐役に任命したが、方谷は内政に比して藩の外交や幕政に対しては能力も意欲も乏しかった。そのため、幕政の補佐役は早々に辞任し、藩の内政には全面的に責務を負うことを条件として、松山に帰国している。そしてもっぱら、藩の復興や弟子の育成に力を注いだ。しかし、大政奉還とそれに続く鳥羽・伏見の戦いにおいて、老中として大坂城の将軍徳川慶喜の元にいた勝静は、幕府側に就いて官軍と戦うこととなった(戊辰戦争)。これに対して朝廷は、岡山藩などの周辺の大名に、松山藩を朝敵として討伐するよう命じた。突然の出来事に対して、松山の人々は動揺した。方谷は、主君勝静に従って官軍と戦うよりも松山の領民を救うことを決断し、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることと、松山城の開城を、朝廷に伝えた。松山城を占領した岡山藩内では、旧幕府軍に加わっている勝静の代わりに方谷を切腹させるべきだという意見もあったが、彼を慕う松山藩領民の抵抗を危惧した藩中央の意向でうやむやとされた。また、岡山藩で名君と慕われていた藩主池田光政陽明学を振興していたことも、岡山藩が方谷に好意的だった理由とも考えられる。
 その後方谷は、岡山の人々の依頼で、1670年(寛文10年)に池田光政が設立し、1870年(明治3年)まで続いた閑谷学校(日本最古の庶民学校)を、陽明学を教える閑谷精舎として1874年(明治7年)に再興した。明治新政府も方谷の財政改革を高く評価して、三島中洲らを通じて出仕を求めた。しかし、領民達を救うためとはいえ、心ならずも主君を隠居に追い込んで勝手に降伏した方谷に、再仕官をする考えはなかった。そして、1877年(明治10年)に死去するまで、弟子の育成に生涯を捧げることになったのである。