江戸検の成績結果。英一蝶。「このしろ寿し」

◆昨年11月4日に実施された江戸検1級の結果が発表された。受験者数398名、合格者数36名、合格率9.0%であった。一昨年に比べ、481名、64名、14.1%に比べ、難しいようだが、11回と比較したら502名、22名、4.4%程ではない。毎年連続して合格している人もいるようだが、すごいと言わざる得ない。3度目の受験であるが、運がよかったのかもしれない。特に、今回はお題問題がほぼ19点で満点に近かったことも大きいかもしれない。ただ、残念なのが、受験者数が年々減少していることである。これは2級・3級が減少しており、そのすそ野が減少しているのであろうか。

享保9年(1724)1月13日、画家の英一蝶が亡くなりました。72歳。英流の始祖。京都で出生、江戸に出て狩野安信に絵を学び、のち菱川師宣俳諧松尾芭蕉に学んだ。多賀朝湖という名で風俗画を発表、そのうちの作品が幕閣の逆鱗に触れ、(具体的な犯罪は不明のようだ。)三宅島に遠島。11年後、1709年、将軍の綱吉が死に、将軍が代がわりになったことを記念した大赦を受けて、一蝶は江戸に還ってくることになった。このとき、一蝶はすでに58歳になっていた。帰還する船のなかで、かれは一匹の蝶を見つけ、それまでの朝湖の名を捨てて一蝶と名のるようになったそうである。英は母の姓の花房からとられた。江戸に戻った後は英一蝶の名で作品を発表しました。代表作に三宅島時代の『四季日待図巻』などがある。

<今日の京都新聞
◆家康が礼状、わずか2軒が伝える「このしろ寿し」特異な製法
 ぷっくりと膨れた銀色の魚の背からは、酢飯の代わりに詰められたおからがのぞく。さっぱりとした甘酸っぱいコノシロとおからの素朴な味わいが調和を織りなす。「ここ独自の味。久美浜湾で捕れる魚だからこそできる味なんです」。このしろ寿(ず)しを作る河清商店の店主河村隆司さん町=がほほ笑む。全国的にも珍しいおからを詰めた魚の姿ずし。幼魚のシンコやコハダは江戸前のすしねたの定番で、久美浜では豊漁のコノシロを生かすために保存食として古くから親しまれてきた。ハレの日にも食され、「昔は『この城を守る』という意味も込めて結婚式にも出たんですよ」と妻の美重子さん。大正時代編さんの「京都府熊野郡誌」には、細く切ったコノシロの身をおからにまぶした「みぞれ寿司」が時代とともに今の姿に変化したと記す。近くの如意寺に残る文書によると、丹後国を治めていた細川家が謀叛(むほん)の疑いをかけられた際、久美浜城主だった松井康之の進言で2樽が節句の祝いに徳川家康に贈られた。家康は「たいそう美味であった」とする礼状を下し、細川家は難を逃れたという。コノシロは11月から冬の冷え込みとともに旬を迎える。河清商店では、背を割り酢で締め、いったおからにユズの皮や麻の実、調味料を加えて腹に詰める。コノシロの体長は約20センチで、久美浜湾のものは他よりも小さく、脂がのっていてもさっぱりしているという。冬は雪に閉ざされ湾内で豊富に取れるコノシロを用いた郷土の味だったが、近年は他の魚も流通するようになり食されることも減ってきた。かつて町内に10を超えた業者も今では2軒となり、漁師も2人に。厳冬の湾内での漁。兼業漁師の宮本隆さんは「コノシロ漁は経験がいる。すしに合うコノシロはここでしか取れん。あと10年は頑張るつもり」と胸を張る。変わらぬ郷土の味は地元を離れても人を引きつける。河清商店では京阪神に発送する正月用のこのしろ寿しを昨年末も夫婦手作業で毎日作り続けた。2人は言う。「コノシロを取る漁師がいなくなったら幻の名産となる日も来るかもしれない。それでも求める人がいる限り作り続けたい。」
◆ブランド京野菜「花菜」の収穫がピーク
 厳しい冷え込みが続く中、京都府長岡京市の特産品「花菜」の収穫が、同市今里の畑で最盛期を迎えた。栽培農家は凍った夜露が溶けるのを待ち、摘み取りに追われている。花菜は、府のブランド「京野菜」の一つ。各種ビタミンと鉄分やカルシウムなどを多く含み、ほろ苦さが特徴。料亭などで好んで利用される。府内では同市が代表的な産地で、JA京都中央の「長岡京花菜部会」の農家29戸が約15ヘクタールで栽培している。同部会長の能勢昌哲さんによると、今冬は気温が高く予想以上に生育が早い。収穫は1週間ほど早い昨年11月下旬から始まり、最盛期も1カ月ほど早まった。出来栄えは例年並みで、収穫量が増えていることから、例年より多い約50トンを見込んでいるという。