今日も仕事。そして吉田松陰の誕生日。

◆今日は木曜日。あと一日で今週も終わり。また週末介護ですね。

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<9月20日生まれの偉人>
◆吉田 松陰(よしだ しょういん、文政13年8月4日(1830年9月20日)〜安政6年10月27日(1859年11月21日))は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。
◆中山 伊知郎(なかやま いちろう、1898年9月20日 - 1980年4月9日)は経済学者。一橋大学名誉教授。日本における近代経済学の導入に貢献した。1939年経済学博士(東京商科大学)「発展を含む経済均衡の性質に関する一研究」 。戦時期には近代経済学のなかでも理論研究を重視する「純粋経済学」の担い手とされた。
酒井田柿右衛門〔13代目〕。赤絵磁器を代表する「柿右衛門」の窯元13代酒井田柿右衛門は、1982年7月3日午後6時50分、胃ガンのため、自宅より佐賀県藤津郡嬉野町の国立嬉野病院に向かう車中で死去した。享年75。1906(明治39)年9月20日、佐賀県西松浦郡に12代酒井田柿右衛門(正次)の長男として生まれ、本名渋雄。24年有田工業学校製陶科を卒業する。「柿右衛門」は古伊万里・色鍋島と共に有田焼を代表し、初代柿右衛門が創始した日本初の色絵技術の伝統を継ぎ、輸出によりデルフト窯、マイセン窯等ヨーロッパ窯業界にも大きな影響を与えた。失透釉の乳白色の素地は、米のとぎ汁に似るところから「濁手」と呼ばれ、江戸中期の4代目以降衰退していたが、53年父と共にその復元に成功、文化財保護委員会より無形文化財の記録選択を受ける。63年父の死去に伴い13代酒井田柿右衛門を襲名、同年以後日本伝統工芸展に出品し、一水会にも出品、審査員をつとめる。64年日本工芸会正会員となり、67年佐賀県重要無形文化財認定、同年佐賀県文化功労者として表彰される。70年には佐賀県陶芸協会会長、71年柿右衛門製陶技術保存会を設立し会長就任、また同年「柿右衛門」(濁手)は重要無形文化財に総合指定され、その保持者として認定されたが、76年文化財保護法の改正により、保持者は柿右衛門製陶技術保存会に認定換となった。主に伝統的な模様を用いた保守的傾向の強い12代に対し、写生に基づく模様の創作を試み、現代性を加味した新しい柿右衛門様式を確立した。72年紫綬褒章、75年西日本文化賞、78年勲四等旭日小綬章、79年佐賀新聞社文化賞を受賞、没後正五位に叙せられ、有田町名誉町民の称号を受けた。
◆藤堂 明保(とうどう あきやす、1915年9月20日 - 1985年2月26日)は、日本の中国語学者、中国文学者。三重県伊賀市(旧上野市)生まれ。藤堂氏津藩伊賀上野城代の家系。父の赴任により大連で育つ。1938年東京帝国大学支那哲学科卒業後、外務省研修員として北京へ留学。そのまま応召し、1941年現地で除隊、さらに通訳として軍務に従事する。敗戦を南京で迎え、その翌日には軍命でハノイへ飛び、1947年中国経由で復員。第一高等学校教授を経て、1950年東京大学文学部専任講師、1954年同助教授、1963年同教授。東大紛争で全共闘支持を表明し、1970年、強行排除に抗議して辞職、その直後から11PMに出演して「女へんの漢字」を解説したり、1971年からはNHKテレビの中国語講座講師を担当するなど、マスコミでも活躍した。1972年より早稲田大学政治経済学部客員教授、1976年から日中学院長。