いつも通り実家へ。 「山田方谷」について調べる。

 週末を迎える。今日は歯科医院に通院後、いつも通り実家へ。

 親が就寝後、山田方谷に関する著作を読む。「財政の巨人」という表題であり、なかなか難しいものがある。



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◆「山田方谷と理財論」概略
<生い立ち>
 岡山の山田方谷は、幕末の頃の備中松山藩の人で、十万両の借金にあえぐ藩財政を、わずか八年で逆に十万両の蓄財にかえてしまったという江戸時代の逸材である。後に英雄となる河井継之助は、若いころ、はるばる備中まで山田方谷を訪ね、土下座してまで、山田方谷を師と仰いでいた。それだけすごい人だからこそ、明治維新後は、岩倉具視大久保利通らが、山田方谷に、新政府への入閣を要請。方谷は「二君にまみえず。二度と仕官つもりはない」と、これを頑として断り、弟子の育成に生涯を捧げた。
 実は、高杉晋作奇兵隊ですら、山田方谷の真似であったといわれる。それだけの先見の明を持ち、戊辰戦争では、岡山県の山の中の小藩ながら、家康公以来の板倉家が率いる最強の旧幕府軍として、殿様を先頭に函館五稜郭の戦いの最後の最後まで戦っている。ちなみに薩長ですら、殿様は最前線では戦っていない。それを最後までやったのは、備中松山藩の板倉勝清と、ほかにほんのわずかしかいない。そして板倉勝清の傍には、常に山田方谷がいた。
 山田方谷が仕官した備中松山藩というのは、いまの岡山県高梁市にある。山陽自動車道は、岡山から岡山自動車道にわかれますが、その岡山道の、山陽道中国道の真ん中くらいのところに、高梁市がある。そこが、もとの備中松山藩である。藩主の板倉家は、徳川家康の代からの古い名門直参である。小藩ながら、京都所司代や、幕府の老中職さえも勤める家柄である。その板倉家が、備中松山藩を知行地としたのは、将軍吉宗の時代の延享元(1744)年のことである。表向き石高は5万石なのであるが、実際には、山ばかりで平野部がほとんどない。
実収入はわずか2万石である。備中高梁城は現存するが、日本で一番標高の高い場所にある城で有名である。けれども板倉家は名門なだけに、殿は必然的に要職に就くし、出費はいやおうなしに出ていく。おかげで藩の財政は、万年赤字垂れ流しで、もはや返すあてなどまったくない借金を、ただ毎年重ねるだけで、どうにも首が回らない状態になっていた。このころの記録がある。備中松山藩の、当時の年間収入が7万5千両である。負債が10万両である。1両というのは、だいたいいまの6万円に相当する。板倉家の年収は45億円、有利子負債が60億円というのが、板倉家の財政だった。そんな備中松山藩山田方谷が生まれたのは、文化2(1805)年2月21日のことである。場所は、西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)である。文化2年といえば、まさに江戸文化が花開いた、江戸時代の中の江戸時代だった時代です。
 方谷が生まれるころは、農業と、菜種油の製造販売を家業とする農商家として生計をたてていた。山田家は、武家であるけれど、浪人中で、農家の小作(水飲み百姓と商人を兼務して、生計を立てていた。この方谷、幼いころから、とにかく出来がいい。寺子屋でも超がつく優等生だった。おかげで山田方谷は、20歳のときに藩主板倉氏によって、なんと武士にとりたてられたのみならず、藩校の筆頭教授に任命された。藩校の教授をしていた山田方谷は、29歳のとき、江戸に遊学して、佐藤一斎の塾に入る。佐藤一斎は、のちに江戸の昌平坂学問所(いまの東京大学)の総長に任命される人で、当代随一の大教授である。弟子にはあの天才の佐久間象山や、絵画で有名な渡辺崋山、幕末に大活躍する横井小楠などがいた。その中で山田方谷は、毎日のように佐久間象山と激論を交わし、ことごとく象山を論破してした。
 嘉永2(1849)年、方谷が44歳のときです。藩主が交代し、新藩主の板倉勝清から、山田方谷は藩の元締役(もとじめやく)への就任を要請。藩の元締めというのは、藩政の一切を仕切る者である。立場的には、実質藩主に相当する強権を持つ。その強権をもって、破綻寸前の備中松山藩を救ってくれ、と依頼された。
<理財論>
 元締めに就任した方谷は、そこで「理財論」を著した。そして「義を明らかにして利を計らず」という漢の董仲舒の言葉をひき、藩政の具体的改革方向を具体的に示した。彼が最初に取り組んだのが、負債の整理である。彼は就任後すぐ、大阪の御用商人のもとに赴おた。そして、利子の全額免除と、元本についての50年間の借金返済の棚上げを要請。これには、大名相手の貸金をしている両替商たちも、びっくりした。けれど、方谷は、ただ債務を免除しろというのではありません。具体的な藩の財政の再建計画を提示した。財政再建というと、いまの政府や、多くのいまどきの企業がそうなのだけれど、まず語られるのは、経費の削減です。人を切り、出費を抑え、人々のモラールも、ロイヤリティも委縮させ、それで一時的な経費削減によって、多少の利益が出たといって喜ぶ。ところがその翌年には、今度は景気が悪化し、売上が下がり、経費を抑えて利益が出るはずが、売上の低迷で、さらにもっと経費を抑えなければならなくなる。その結果、縮小縮小へと向かい、企業なら潰れるし、国家や行政なら、財政が破たんする。ところが方谷は、莫大な藩の借金を返すのに、ただ経費削減とかを語るのではなかった。
・『政(まつりごと)で大切なことは、民を慈しみ、育てることです。それこそが大きな力である。厳しい節約や倹約だけでは、民は萎縮してしまう。』彼は、タバコや茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙といった備中の特産品に、どれも「備中」の名を冠して、江戸で大々的にこれを販売すると計画である。その計画の内容も、実に緻密。要するに「備中」をブランド化するわけである。いまでいう「宮崎産品」みたいなもの。西国の藩は、藩の製品は、大阪で卸すのが常道だった。方谷は、これを船で江戸に持っていき、日本最大の消費地、江戸で、大々的にこれを行うもの。しかも、売るのは、藩の江戸屋敷を中心とする。問屋や流通を経由しないから、中間マージンがありません。その分、安く、良いものを消費者に提供できる。商品はめずらしいもの。しかも、おいしい。その場で、食べることもできる。備中そーめんなんか、江戸で大ヒット商品になった。しかも直販です。藩はまる儲けです。さらに方谷は、これをさらに効率的に推進するため、藩内の体制組織を、従来の身分制にとらわれない、能力主義による会社的機構にした。商いに厳しい目を持つ大阪商人たちは、方谷の財政再建計画書みて、完全に彼に賭けようという気になった。結果、大阪商人たちの、備中松山藩に対する、支払い50年棚上げ、利払いの免除が実現。
 そして浮いたお金で、方谷は、上述の流通に手を染めるだけでなく、さらに備中にある砂鉄を使って、当時の日本人口の8割を占める農家を相手に、特殊なクワを開発し、販売した。
これが「備中鍬」である。備中鍬というのは、3本の大きなつめを持ったフォークのような鍬である。備中鍬は、全国的な大ヒット商品となった。おかげで、50年棚上げしてもらったはず借金は、ほんの数年で、なんと元利金とも、全額返済できてしまった。さらにわずか8年で、無借金状態の上に、さらに10万両の貯蓄までできてしまう。そして経済的には備中松山藩は、実質20万石の力を持つとまで言われるようになった。すごいものある。これが実現できた背景には、方谷の、「義」があって、そのうえで「利」をはかるという考え方が根底にある。儲けようとしたのではない。「義」のために人々を豊かにしようと最大限の努力を払った。その結果、「利」が生まれた。「利」を得ようと鼻の下を伸ばしたら、かえって「利」などは生まれない。そういうものだと、説いている。

・もうすこし具体的に言うと、日本をバカにし、命をかけて戦った先人たちを誹謗中傷するようなバカ者たちが、目先の「利」だけで政治をすれば、あっという間に「利」はなくなって、日本は超のつく貧乏国家になってしまう。あれほど世界に誇る高い技術力をもち、世界第二位の経済大国だった日本が、この20年、世界のGDPが2倍に成長する中で、完全に横ばいです。世界が二倍に成長して、日本が横ばいということは、日本経済の世界での地位は、この20年で、二分の一に縮小したということである。まずは人々が安心して働け、それこそ終身雇用が実現できるような社会体制を築き上げる。仕事も労働も、すべては「はたを楽にする」みんながよくなることが大原点である。会社利益のために、社員をリストラし、雇用を短期化したら、庶民の生活は不安定になり、個人消費は停滞し、企業はモノが売れなくなり、利益が上がらなくなり、金融機関は貸しはがしするから、会社はつぶれ、国民の生活はぐちゃぐちゃに崩れてしまう。要するに「利」が先で、「義」を忘れているからこういうことになる。これが今の日本の姿。

・方谷は、まったく逆に「義」優先したから、巨額の「利」が生まれた。簡単な話、「この国を守る」と、国が明確に決断しただけで、この国のあらゆる産業が活性化し、工業は息を吹き返し、企業秘密は厳守され、食糧自給もあがり、景気も良くなり、生産物の品質もあがり、教育レベルも向上する。まずは「義」をたてることが、先なのである。時代は、音をたてて変化していく。幕末、世の中が混沌としてくると、方谷は、藩内に、農民で組織する「里正隊」をつくる。「里正隊」の装備は、英国式で、銃も最新式である。方谷は、西洋の力を認め、藩政改革に積極的に組み入れた。教練も、西洋式である。農民兵を用いて、西洋式装備と教練を施し、新たな軍事力とする。後年、この方谷の「里正隊」を、高杉晋作が「奇兵隊」つくりのモデルにした。
・さまざまな藩政改革をし、藩の立て直しをはかった、まさに天才といえる山田方谷であるが、農民出身でありながら、藩主のおぼえめでたいことをいいことに、藩政を壟断し、武士を苦しめる、と、藩内ですさまじい誹謗中傷に遭っていた。実際、方谷は、農民からの取立てを減らし、商人からの税を増やした。(商人たちは藩の事業用の商品資材を運んで大儲けした)います。一方で、藩の冗費の削減のために、藩士たちの俸禄(給料)を減らした。これが一部の藩士たちの反感をかい、目先の欲に取りつかれた一部の御用商人たちが、その反動者たちへの一種のスポンサーとなった。さらに武士たちを怒らせたのが、彼ら上級武士に、藩の辺境の地での開墾にあたらせた。なんで武士が百姓などするのだ。さらに「里正隊」です。
西洋の実力を知った方谷からしてみれば、いつまでも「刀による戦い」ではないだろう、となるのだけれど、これが刀に固執する武士たちに通じない。方谷は、武門の血を穢している、となる。こうなると、方谷が、藩の物資を江戸藩邸で販売していることさえも、敵意の対象となった。挙句の果てに、ねつ造されたのが、賄賂疑惑。方谷は、商人や豪農から、賄賂をもらっていると、あらぬうわさまでたてられた。ついには、藩内の過激派武士たちによって、方谷は、命さえ狙われるようになった。方谷は、賄賂などまったくもらっていないし、むしろ藩から大加増の内示をいただくけれど、これも辞退。

◆ 『月刊寺島実郎の世界』(2012.12.15放送 ) 「アメリカ出張報告 ― エネルギーと安全保障、そして米中関係」
木村> 今回は、先日、寺島さんがアメリカから御帰りになったばかりなので、「アメリカ出張報告」というテーマでお話をうかがいます。 先ず、オバマ大統領の選挙が終わった直後のアメリカになりますね。
寺島> オバマ再選後のアメリカの東海岸、ニューヨーク、ワシントンを動いて、なかなか手応えのある人たちと会うことができて私としては非常に納得感のある出張でした。先ず、新年2013年の世界の最も大きなテーマについて話をしたいと思います。私はアメリカと中国との関係が2013年の世界の主題になると感じました。
木村> 中国の新指導部が発足したということですね。
寺島> ちょうどオバマ政権の第2期と習近平の中国が向き合うことが世界にどのような意味をもつのか、或いは、アメリカにおいてどのような意味をもつのか、勿論、それは日本においても同様です。私は毎年この季節になると注目していることがあって、それはイギリスの「エコノミスト」誌が毎年出している「ザ・ワールド・イン・2013」です。内容は、その次の年の見方で、ロンドンから見て世界の次なるテーマは何かということで、今回は、期せずして2013年の主たるテーマは米中関係だと見て、中国にもの凄く比重をおいた報告になっています。それを問題意識におきながらお話ししてきたいと思います。
以前、この番組でも少し触れましたが、習近平の中国を見る時に7年間に及ぶ下放体験が、果たしてこの人物をどのように変えたのかという話をしました。更に、もう一つの彼の体験の中で注目しなければならないのは、アメリカ留学の体験だったのです。世の中には「習近平親米派説」というのがあって、親米派と単純に決めつけるのは問題ですが、これまで少なくとも中国の指導者としてこれだけアメリカを理解しようとし、且つ、体験の軸をもっている人物はいなかったのです。そのような意味においてもオバマ政権の対中政策と習近平アメリカに対する見方がどのように絡み合うのかがに鍵になると思います。オバマ政権は第1期の時から米中の戦略経済対話を積み重ねて、4年間にわたって毎年5月に北京、ワシントンと交互に行なっていて10人以上の閣僚がそれぞれ参加して安全保障から産業協力に至るまで、最近では特にエネルギー関係の米中協力まで非常に深く議論しています。
木村> アメリカの経済界も一緒について行ったりするくらいの大きな規模の会議になっていますね。
寺島> したがって、米中関係に懸案事項が横たわっていることも確かで、例えば、米中貿易摩擦、或いは、後ほどお話しなければならない尖閣問題、南沙諸島問題等を巡る米中対立紛争要素、更に、人権問題に対するアメリカの厳しい目線、知的所有権に対する中国の無神経さ、苛立ち等、このような問題はありますが、すべて米中間でアジア太平洋のゲームをマネージメントしていこうという空気がG2論で、つまり、2つの国でアジア太平洋を仕切って行こうとする呼吸のようなものが次第に強くなってきているのだと思います。
木村> 2つの超大国ですね。
寺島> そのような中で、現実問題として日本がどのように生きて行くのかということが2013年の大きな課題になると思います。
今回、是非、この番組でも触れておきたかった体験があって、それは尖閣問題で非常に意味のある動きがあったことです。11月末にアメリカの上院が不思議な決議しました。アメリカでは、「ウェッブ・アメンドメント(=Webb Amendment)」と言われていて、ジム・ウェッブ上院議員がリーダーシップをとって、マケイン、リーバーマン、ウェッブの3人の上院議員が、アメリカは尖閣諸島を日中間の領土問題としてどちらかにコミットして支持をしないと領有権については日本が持っているとも中国が持っているともコミットしたくないと今までも言ってきたのだけれども、ここにきて中立でありたいという姿勢を一段とはっきりさせてきていたのです。日本が施政権は持っていて、もしも中国が尖閣諸島武力行使した時に、果たしてアメリカは日本と一緒になってそれを守るために、安保条約第5条の対象にするのかどうか。条約の義務は履行することをアメリカの政府、国務省も再三にわたっていままでもコミットしてきています。しかし、ウェッブ上院議員が、それでは充分ではないとして2013年の国防授権法の修正条項という形で「尖閣諸島に、もしも、中国が武力対応した時にはアメリカは条約の義務を履行する」ことを明文化して、修正条項として成立させたその主導権を取ったのがセネター(Cenator)=上院議員ジム・ウェッブなのです。
そこで、このウェッブやマケインやリーバーマン等の上院議員は昨年5月の段階から米軍の普天間問題に関して辺野古移転が現実的ではない、嘉手納に統合する案というようなものさえ、アメリカ側から議会のほうから持ち出しました。つまり、この問題の解決は辺野古固定観念でしがみついているのではなくて、もっと柔らかい発想に戻って我々は考え直さなければならないということを、アメリカ側から言ってくれている人だったのです。
木村> ウェッブ上院議員自身も実際に沖縄を訪れて、仲井眞知事とも会談したこともありましたね。
寺島> 私はこの人物に以前から興味があり、本音のところで意見を交わしてみる必要があるということで、今回は大変に努力をして、ウェッブ上院議員との面談を依頼したところ、すんなりと受けてくれたのです。ウェッブ上院議員とかなり時間をとって話すことができたことが今回の訪米の中で心に残ることになりました。
私の手元に、彼がくれたセネター・ジム・ウェッブの活動報告書があります。ウェッブは1946年生まれで、私よりも1歳年上で、日本でいうと団塊の世代です。バージニア出身で民主党上院議員です。彼は1969年、私が早稲田の大学生として全共闘運動と向き合っていた頃、ベトナム海兵隊の兵士として立っていたのです。沖縄にも駐留していたことがあって、ある意味においては職業軍人なのですが、話をしてみてわかったことは、不思議で多才なマルチタレントのような人物なのです。例えば、エミー賞受賞者で、ジャーナリストであり、小説家でもあり、常に、本を9冊出版し、映画の監督までやっています。私たちからみると惜しいのですが、12月で7年間やってきた上院議員を充分にやってきたということできっぱり辞めてしまうのです。但し、ベトナムの大使になるのではないかとか、場合によっては日本大使として赴任してくるのではないのかと言う人さえいました。 話を戻しますが、安保マフィアだとか日米安保は大事だと念仏のように唱えていた人たちが、じっと沈黙をしている中で、彼は日本に踏み込んで、「アメリカがしっかりとした形で日本を支持しないと中国に対して間違ったメッセージを出して尖閣問題を更にこじらせてしまう」とアメリカ側から発言してくれていることを我々がどのように受け止め、理解するのかが非常に重要なのです。
ここで、お話ししなければならないのは、12月26日にNHKブックスから『大中華圏』という本の出版についてです。その『大中華圏』の中に、是非、見てもらいたい地図があります。それは何かというと、沖縄返還協定の地図です。1972年の沖縄返還協定とは、アメリカと日本との間で交わされたもので1951年のサンフランシスコ講和条約から1972年まで約20年間にわたって沖縄はアメリカが施政権を持っていたのです。アメリカが潜在主権を日本が持っている地域としての沖縄を日本に返還するという協定だったのですが、その返還協定は非常に詳細に書かれていて、東経何度何分、北緯何度何分から6つの点を打った線で結んだ中を日本の潜在主権のある地域としてアメリカが認識し、これを日本に返還しますという協定になっているのです(註.1)。今回、私は、その点を全部繋いだ地図を作ってみたのです。その地図をもって私はウェッブと向き合いました。ウェッブも当然のことながら、沖縄返還協定地図だと認識していて、このテリトリーの中に尖閣列島が明らかに入っているわけです。
したがって、1972年にアメリカ自身が作ったデータ、資料、返還協定の中で明記していることについて、本当はどっちの国の領土なのかよくわからないという姿勢は許されるはずがないのです。
しかし、1972年はニクソン訪中の年だったこともあり、中国がその2年くらい前から、あの地域に資源が出るという報告が出てきたために主権を主張し始めてきたのです。正確に言うと、先ず、台湾が主張し始めて、次に中国が続きました。
このようなことが背景にあるために、アメリカは世に言う曖昧作戦で中国に対しても領有権については二国間の問題として取り組むべきで、日本が施政権を持っていることは認める。もしも、そこにコンフリクト(=conflict=対立)が起こった時に、条約の義務を履行することを日本側から希望的な観測で言うと、当然のことながら沖縄の米軍が動いて、日米安保条約第5条の対象としてこの地域を守ってくれると思いがちなのです。しかし、我々が冷静にならなければならないのは、自分は中立でありたいという問題に関して、もしも、米軍が現実に動いたのならば沖縄に駐留している米軍基地が中国から攻撃されたら別ですが、尖閣列島が攻撃された時に自分の国の青年の血を流してまで、米中の本格戦争になるかもしれない可能性があるカードを簡単に切るだろうかと考えるべきなのです。場合によっては、大変なためらいと熟慮の上で、この瞬間にこそ動いたほうがよいと大統領が判断し、議会がそのように判断して手続きを踏み、米国民の世論がそれを支持したならば、アメリカは動かないは決めつけることはできませんが、もしも、自動的に駆けつけて来るガードマンだというような感じで捉えていたとしたら、それは大変な間違いだとしか言いようがありません。アメリカが同盟国として日本を支持して取り上げる行動としてはいくつも可能性があります。例えば、国連の安全保障理事会が日本側に肩入れする形で武力攻撃に対する制裁決議を出すことも同盟国としてサポートする一つのシナリオであるわけです。
したがって、アメリカがすぐに動いてくれると判断するのは、なかなか期待とは裏腹で現実的に考えればあり得ないなのです。それは何故かというと、アメリカのアジア戦略の根幹は常に「アジア太平洋地域における影響力の最大化」ですから、日本に対しても「私は絶対に動かない」等と言ってしまったら、日米同盟は破綻してしまうのです。ぎりぎりまで、動くかもしれないし動かないかもしれないという状態を保つことが非常に戦略的で、中国に対してもぎりぎりどのように動くかわからないというカードを保持しておくことのほうが遥かに戦略的なのです。我々にしてみれば甚だ苛立たしい曖昧作戦だけれども、アメリカの影響力を最大化して保つためには非常に賢い手でもあるわけです。
そのような中で、アメリカ政府の方針を現実的にはなぞったに過ぎないという言い方もあるのですが、施政権は認める、条約の義務を履行する、加えて領有権については中立でいたいことをはっきりと「ウェッブ・アメンドメント」にもなっているけれども、敢えて、書いた条文の中で修正条項として上院が全会一致で決議して、中国に対して牽制するカードを切ったことは、我々にしてみれば不思議な驚きがあります。つまり、国務省が、或いは、その背後に一緒に動いている日米安保で飯を食っている人たちが積極的に動こうとせずに議会がそのような形でイニシアティブをとってこの問題に対して動いたことが大きな意味があるということなのです。
木村> その意味を後半で伺いたいと思います。
木村> まさに、アメリカが政府としてとってきた曖昧戦略の中で、ジム・ウェッブ氏の動きが何を意味するのか、議会で正式に文章として残すということになり踏み込んだというのは何を意味するのでしょうか。
寺島> 要するに、ワシントンから発信されてくる情報に対する見方をしっかりと整理しなければならないと申し上げたいのです。どういう意味かというと、とかく我々は日米関係で飯を食っていて、日本人にも馴染みのある名前の知られた人たちはワシントンにおけるジャパン・ハンドで知日派親日派、そして日本の利害をワシントンで代弁してくれている人だと考えがちなのですが、実はそうではなくて現状を固定化して日米安保の状況、つまり、米軍基地の状況をいまのまま固定化していることに利害を一致させている人たちが日米で呼応し合っているのです。むしろ、アメリカ全体の世界戦略を睨み、アメリカの議会においてアメリカの柔軟な外交戦略の在り方を探求している人たちのほうが、いまのままの日米関係でよいのかと言っています。例えば、辺野古に移転できる可能性はないのではないのか。むしろ、柔らかく考え直し、例えば、嘉手納に統合するとか、グアムへの移転を急ぐ等、もっと建設的な代案はないのかという方向に目が向いているのです。これは非常に屈折した状況になっていて、我々が向き合っているワシントンは、とかく日本において対米関係で飯を食っている人たちと、ワシントンにおいて日本関係で飯を食っている人たちのエールの交換の中だけで日米関係が出来あがってしまっていることに対する問題意識を持たなければならない段階に入ってきています。
したがって、何故、冒頭に中国の話をしたのかというと、中国に対する関心と問題意識がもの凄く高まっている中で、2013年に向けて、アメリカがアジア太平洋への影響力を中国との仕切りで展開していこうとしている大きな潮流(戦略)があるのではないのかと言ってよいと思います。
そのような中で、分かり易くいうと、ワシントンにも様々な立場の人たちがいて、基本的にはアメリカは議会の国で、政府も大統領でも常に議会によって縛られながら動いているわけです。我々がワシントンがいまどのように考えているのかという時に、常に大統領を中心とした国防省国務省のライン、もしくは、その周りに群がっている人たちと日米関係のゲームを繰り広げているという意識が強いのだけれども、そうではなくて、例えば、大統領府の国家安全保障委員会(=National Security Council)、それは何を意味しているのかというと、ワシントンの世界戦略を見ているのです。議会の外交委員会は日本のことだけ考えているわけではなくて、世界戦略の中での日本との関係を考えているのです。そのような人たちの目線と呼応していく視点を我々自身も身につけて行かなければならないのです。
そのような視点での日米関係に高めていかなければなりません。それは何故かというと、日本の選挙をめぐっての議論を対米同盟の強化というあたりでほとんどの意見が収斂しているわけです。「同盟の強化とは何か?」ということで、結局はいまのままの基地を固定化し、アメリカと日本の関係はいままでのままでよいということで、いつまでも戦後67年経っても繰り広げられている状況をむしろ大胆かつ勇気をもって考え直すという問題提起をアメリカ側からしてきている事実を認識し、そのような力学を理解できますか? ということが今回、私が言いたかったことなのです。
木村> これは言うまでもなく、それは我々が日本像、つまり、日本の自画像をどのように描くことができるのかがその中で試されてくるのですね。

寺島> 固定観念にはまり込んでいるのはむしろ日本自身で、アメリカの方こそ、アメリカがおかれている状況を深く考えて世界戦略を考え直さなければならないと思っている時に、その力学に呼応していく柔らかさとしなやかさを持たないと、いつまで経ってもいままでのままがいい、それが我々の利害なのだと思っている人たちのゲームだけで日本とアメリカというとても大事な国との関係のゲームが終わってしまうのです。私はそのことをあらためて強く感じながらワシントンから飛行機に乗って帰国しました。

木村> これは、アジアで日本がどのように生きるのかということと表裏一体のテーマなので年をこえて、寺島さんのお話をうかがいながらこの問題をより深めていきたいという想いに駆られました。