新たな一年をスタートした二日目の朝を迎えて

 昨日、元旦の朝、清く、白く真っ白な一日、一月(ひとつき)、をどのように自分史をどうつづって行くのか。それを目標である『夢を現実に』『仕事の集大成』をキーワードに今年どう過ごすのか、目標・計画を立てた。昨日も手帳に一日を書きながらそれらを再確認するとともに、読書三昧の一日であった。

日本経済新聞の今年のテーマは「アジア跳ぶ」であった。昨一日のキーワードは
 ・アジアは世界の5割の経済圏。
 ・中国・韓国からASEAN・インドへ。2050年GDP8倍。
 ・日本の立ち遅れ。ねじを巻きなおそう。日本人は、「OKY」

(1月2日生まれ偉人)
◆稲山 嘉寛(いなやま よしひろ、1904年(明治37年)1月2日 – 1987年(昭和62年)10月9日)は、日本の実業家、財界人。第5代経済団体連合会経団連)会長(1980年 – 1986年)。八幡製鐵社長として、社長就任後は日鉄時代の上司である富士製鐵社長の永野重雄とともに、旧日鉄の復活を目指し、公正取引委員会他の反対を乗り越えながら、1970年八幡・富士合併による新日本製鐵新日鉄)誕生を実現させた。稲山が合併推進に尽力したのは、1960年代後半から鉄鋼業界の過当競争が激しくなり、価格安定のためには1位・2位メーカーが合併して需給調節をするしかないという結論に至ったからであった。このように、つねに「競争より協調を目指すべき」という信念が経済人稲山の行動原理として貫かれており、「ミスター・カルテル」の異名を取るに至った。稲山は新日鉄の初代社長(1970年〜1973年)、会長(1973年〜1981年)を務めたのち、1980年土光敏夫の後継として第5代経団連会長に就任する。1980年代より欧州・米国との間で貿易摩擦問題が発生したが、稲山は国際協調を重視し「我慢の哲学」を押し出して自動車・VTR等の輸出自主規制を指導した。また「増税なき財政再建」を目指すべく「行革推進5人委員会」のメンバーとなり、土光臨調をバックアップした。まさに、業界さらに、経済界をリードし、高度成長から、オイルショック、そしてバブル期へと日本経済界をリードした実業家である。
◆森村 誠一(もりむら せいいち、1933年1月2日 - )は、日本の小説家・作家。推理小説、時代小説、ノンフィクションなどを手がける。ホテル勤め(ホテルニューオータニなど)の経験があるため、ホテルを舞台にしたミステリーが多い。また、若い時代に登山に熱中したことから、山岳を舞台とした作品も多い。1977年の『人間の証明』は映画化され、話題になった作品であるが、戦後昭和期の主なミリオンセラーをいわれているが(出版ニュース調べ)、今日の出版不況、書籍の電子化とうにより、これからミリオンセラーと言われる作品は現れにくいかも。
<『森村誠一人間の証明ブログ』より、>
2012年12月17日 写真俳句歳時記 12月
 十二月、いよいよ泣いても笑っても、今年は一ヵ月しかない。仕事納め、除夜の鐘、初日の出、初詣、一年を年末年始の行事によって区切る。世界各国、各地の緯度や暦によって、また宗教、時代、民族、習慣などのちがいによって、年末年始の区切り方は異なるが、月や年を区切らないと、ただのっぺらぼうな時間の流れになって、社会生活や歴史の記録ができなくなる。特に、一年ごとの区切りは人生のリセットという意味で、暮らしの知恵が生んだ大きな発明であろう。この一年間、よいことや悪いことがあっても、とにかく大晦日をもって区切り、新たな年を迎える。今年のままのライフスタイルやパターンを来年に自動的に繰り込んでは、新たな予定も立たず、新しい年に対する期待や覚悟が定まらない。よくも悪くも一年ごとに人生をリセットして、新たな心がけで次の年に臨む。十二月は人生の決算月といってもよい。
 年の瀬が迫るにつれて、人間のため息が濃くなるようである。特に、大都会にこの傾向が強い。いまはだいぶ様変わりしているが、昔、特に機械文明があまり幅を利かしていなかったころは、とにもかくにも大晦日を逃げ切れば、債鬼も猶予をしてくれるという風習があった。借金に首がまわらない人は、大晦日、自宅に帰らず(帰れず)、除夜の鐘が鳴り終わるまで逃げまわる。
 一方では、一年間、よく働き、新年を迎える準備が整って、年末年始の休暇、ゆっくりと骨休めをする人もいる。人生さまざまの万華鏡が年の瀬のカウントダウンと共に、どんな一年を送った人々も、来年は来年の風が吹くと能天気に集まって、ハッピー・ニュー・イヤーと寿ぐ。そんなことで人生がリセットされれば安気(あんき)なものであるが、それだけに年末に織りなされる人生模様は面白い。面白いとおもえる者は、それだけこの一年の決算に余裕がある者である。十二月は写真俳句の宝庫といってもよい。自分自身が債鬼に追われていても、携帯を持って逃げまわりながら俳句をひねる。あるいは新年の準備も十分に、余裕綽々(しゃくしゃく)と句材、写材を探す。べつに非日常の世界や、海外へ出かけなくとも、日常の延長として豊富な句材、写材が犇(ひしめ)いているのが十二月である。一句一写ごとに人生が切り取られ、保存されていく。つまり、リセットの保存である。過ぎ行く年、巡り来る新しい年、いろいろなことがあった今年、そして来年はどんなことや出会いがあるだろう。過ぎ来し方を除夜の鐘が見送り、新しい年の希望を初日の出が照らす。有名社寺や高い山の頂上、東京タワーなどには初詣、ご来光を拝もうとする人々が殺到するが、私は参詣者がだれもいない、寂れた社寺や、人影もない海岸に立って初詣、初日の出を拝むのが好きである。たった一人の参詣者に御利益が多いような気がする。そして、写真俳句で我が人生のリセットを記録するのである。
◆林 健太郎(はやし けんたろう、1913年1月2日 - 2004年8月10日)は昭和期に活動した歴史学者(近代ドイツ史専攻)、評論家。東京大学教授・文学部長・総長を務めた。参議院議員を一期務めている。
 旧制第一高等学校を経て、1935年東京帝国大学文学部西洋史学科卒。旧制一高教授、東京大学文学部助教授を経て、1954年年東京大学文学部教授。旧制一高時代からマルクス主義の立場に立ち、戦時中は反ファシズム論を展開していた。1943年に『独逸近世史研究』を出版し、近代ドイツの政治・社会の特質を解明した。戦後、マルクス主義から転向し、竹山道雄高坂正顕らと「日本文化フォーラム」を結成した。その後の評論活動は現実主義の立場から時流を批判する立場を貫き、マルクス主義進歩的文化人を批判し、左派からはタカ派と称された。高校教科書のベストセラーとなった『高校の世界史』を共著した一人でもある。1968年の東大紛争では、文学部長として全共闘の学生に8日間にわたってカンヅメ状態にされ、学生側と団交を行ったが、学生の要求を全部拒否し、剛直な姿勢を貫き通した(林健太郎監禁事件)。当時の加藤一郎学長代行(のち学長に就任)を支え、後任として1973年から1977年まで第20代東大学長。4年間にわたり学園紛争収拾と東京大学の立て直しに尽力した。1983年6月、参院選比例区自民党公認(名簿2位)で出馬し、初当選した(ただし、自民党籍はなく、党友の扱いを受ける自由国民会議の所属であった。このため、当選後の自民党参議院内会派名は「自由民主党・自由国民会議」とされた)。1989年7月の参院選には出馬せず、一期限りで政界を引退した。その後、日本育英会会長、国際交流基金理事長などを歴任した。近代ドイツ史の専門家としてドイツの外交史やドイツ革命史の研究で業績をあげたが、その他に論壇での幅広い言論活動でも知られる。1988年、「戦後の歴史教育の独立を成した」(直後、高等学校地理歴史科が成立)として菊池寛賞を受賞した。


→→ご指摘のように「一年ごとに人生をリセットして、新たな心がけで次の年に臨む。」ことは大事なことかもしれない。過去を忘れる必要はないあ。今日から明日への未来を見据えていくことが大事であろう。明日の来ない今日はない。

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◆第89回東京箱根間往復大学駅伝競走(大手町から箱根芦ノ湖畔1まで08・0キロ)が行われ、日体大が5時間40分15秒で26年ぶり10回目の往路制覇を果たした。日体大は、2位でタスキを受けた5区の服部翔大主将(3年)が14キロ過ぎにトップの東洋大を逆転。追いすがる早大山本修平(2年)を17キロ手前で突き放し、勝利を引き寄せた。予選会参加チームの往路制覇は97年の神奈川大以来16年ぶり。 風速5メートルをこえる強風の中、1分49秒差の2位でたすきを受けた服部が序盤から快走。14・5キロで先頭グループを形成すると、16・9キロでペースを挙げ、追いすがる早大を振り切った。