若手社員に告げる「ビズネスマンの仕事十訓 」

 若手社員の参考になろう。もしかして自分こそ参考にしていきたい。
 元アサヒビール社長の樋口廣太郎の名言「仕事十訓」
1. 基本に忠実であれ。基本とは、困難に直面したとき、志を高く持ち初心を貫くこと、常に他人に対する思いやりの心を忘れないこと。
2. 口先や頭の中で商売をするな。心で商売をせよ。
3. 生きた金を使え。死に金を使うな。
4. 約束は守れ。守れないことは約束するな。
5. できることと、できないことをはっきりさせ、YES、NOを明確にせよ。
6. 期限のつかない仕事は「仕事」ではない。
7. 他人の悪口は言うな。他人の悪口が始まったら耳休みせよ。
8. 毎日の仕事をこなしていくとき、いま何をすることが一番大事かということを常に考えよ。
9. 最後までやりぬけるか否かは、最後の一歩をどう克服するかにかかっている。それは集中力をどれだけ発揮できるかによって決まる。
10. 二人で同じ仕事をするな。お互いに相手がやってくれると思うから「抜け」ができる。一人であれば緊張感が高まり、集中力が生まれてよい仕事がで きる。

◆もう一人の会津人柴五郎・・・「ある明治人の記録 」(石光真人著・中公新書)から
1 「ある明治人の記録」とは、そして明治維新とは。
 これは、明治維新で朝敵とされた会津藩士の家に生まれた柴五郎(1859〜1945年)の詳細な手記である。「毛のなき頭」が怖く、「ワッと泣き出す奇妙な癖」のある愛らしい子だった彼は、戊辰(ぼしん)戦争に遭遇する。会津落城の際、祖母、母、姉妹が自刃してしまう。会津藩は降伏後、青森・下北に移封された。冬は氷点下10〜15度になる粗末な家で、柴少年は熱病にかかる。まともな夜具はなく、米俵の中で寒さと病気に耐えた。その少年が陸軍に入り、1900年に中国で起きた義和団事件で活躍し、陸軍大将となる。維新とは、英雄だけが成し遂げたものではない。歴史の陰に隠れた罪なきものの犠牲と刻苦勉励があった。
 東日本主導による鎌倉以来の武家(軍事)政権はおよそ700年弱続いた。明治維新はこれに対する西日本の反撃という側面を持つ。松平容保京都守護職として担つぎ、尊皇討幕運動によって倒れ行く徳川幕府を、最前線で支えたのは東北の会津藩である。この会津藩の上級藩士の子どもとして生まれた柴五郎が、少年期の記録を残した。それを石光真人がまとめて「ある明治人の記録」としたものである。明治を薩長土肥の視点からのみ眺めていては、大切なものを見失うと思う。それを証明したのが、「ある明治人の記録」である。この本から、この時代に触れると、ある疑問が蘇る。明治政府は、天皇を神格化し、日本国を神の国と崇めたのはなぜか。薩長をはじめとする幕末の志士たちは、欧米諸国に視察団として派遣されている。実際に、自由や平等のイデオロギー論争、あるいは議会や憲法などの政治体制を見聞したはず。にもかかわらず、その本質を無視して、国家元首と宗教的思想を結び付けたのはなぜか。彼らの視察はなんだったのか。民衆の精神を根底から支えているキリスト教の存在を、日本流に解釈した結果であろうか。大統領や国王が神様というわけではないが、天皇を宗教以上に崇める結果となった。多くの藩が乱立する中で手っ取り早く国家を団結させるためには、象徴的存在があると便利である。廃藩置県を実施するためにもよい口実か。その意味で、維新当時の政治家たちの眼力は鋭い。そして、大日本国憲法天皇と軍部を統帥権で結び付けた。天皇がよほどの指導力を発揮しない限り、軍部が神の代行となって暴走するのは当然の結果である。それは、太平洋戦争という悲劇を経験したから言えることかもしれないが。いずれにせよ、天皇はしばしば政治利用されてきた。日本史を紐解けば、軍事面に無知な公家が武力を統制しようとして悲劇を招いた例は少なくない。治安維持が政治の最も重要な役割となれば、武力を束ねる幕府の力が強力となり、公家はお飾りとなってきた。その流れから、軍部が政治を主導する時期を経験することになったとも言えるかもしれない。シビリアンコントロールでは、軍隊の暴走を抑止すると同時に、軍事の素人が軍略に口を出すという矛盾を抱えている。太平洋戦争時の軍部の暴走は、統帥権の微妙な位置づけが素人の口出しを封じたと言えるかもしれない。そして、神の国と崇めた時点から、徹底的な敗北を喫するまで戦争を続ける運命にあったのではないか。つまり、既に維新時代にそのレールが敷かれていたのではないか.といえば、歴史家から批判を浴びるかもしれない。

2 会津藩とは
(『日本人の魂と新島八重櫻井よしこ著から)会津藩の藩祖は、保科正之。彼は、徳川二代将軍・秀忠の庶子。秀忠の正室・お江に知られると命が危ないとされ誕生は極秘とされた。そこで武田信玄の娘・見性院が正之を匿い、心をこめて養育した。やがて、正之は元武田家の家臣、信州高遠藩藩主・保科正光の養子となり、保科家を継いだ。その後、この件は正之の腹違いの兄、三代将軍・家光の知るところとなった。家光は正之を弟として愛しみ、高遠藩3万石の当主から一挙に出羽最上藩20万石、さらに23万石の会津藩主へと引き上げた。正之は、父秀忠の教えもあり、徳川将軍家を守ることを教えられ、会津藩は常に将軍の後見として、幕府を支えてきた。会津藩の教育の特徴は、武芸の重視である。とにかく体を使って鍛錬することを幼少の頃から叩き込む。心は頑健な体によって支えられていることを知っていた。藩校日新館の教育基本は、中国の古典、四書五経などの素読あった。暗誦できるまで、何度も繰り返し読む。暗誦できるほどになれば自然に内容も身につくという考え方である。当然柴五郎にも同じ会津人の血が流れていることは間違いなかろう。そして、会津出身者初の陸軍大将・柴五郎である。
 
3 幕末
列強国による植民地争奪戦のさなか、露、英、仏、米と相次いで軍艦が来航し開国を迫る。阿片戦争で清国が英国に敗れれば、もはや鎖国によって国家の安泰をはかることは難しい。そこに大飢饉や百姓一揆が追い打ちをかけ世情不安が広がると、下級武士たちの生活は圧迫され浪人騒動が頻発した。開国に踏み切っても、薩長の浪士たちは尊王攘夷を叫んで外国人に狼藉をはたらく。京都には各地から倒幕派が集まり、テロ事件を巻き起こすなどで治安を乱す。幕府の要職にあった会津藩は、京都守護職の任にあたり、幕府への不満を一手に引き受ける形となった。公武合体論を唱えるには京都が重要な地となるわけだが、武家側が幕府であろうが薩長であろうが、挙国一致とならなければ意味がない。各藩が伝統に固執しているとなれば、もはや廃藩は避けられない。そして、公武合体か、各藩連合の連邦制か、絶対君主制か、などの論議を尽くす間もなく武力革命に突入する。ただ、国家新体制と国家軍の創設の必要性は、幕府側も認めていた。だから、十五代将軍徳川慶喜大政奉還を奏上して江戸城無血開城し、会津藩も藩主松平容保(かたもり)をはじめ要職を辞して故郷に謹慎したのだろう。大政奉還がなれば討幕の大義名分も失われるはず。にもかかわらず、岩倉具視西郷隆盛大久保利通らの策議により明治幼帝を擁し、慶喜公殺害と会津討伐の密勅が薩長両藩に下されたという。ましてや鎌倉時代から続いた封建制を一気に近代化しようというのだから、流血をともなうのもやむを得ない。
 しかし、無血開城で戦意喪失の相手ですら、朝敵の汚名を着せて徹底的に叩きのめす必要があったのか。それを言うと、徳川家だって難癖をつけては目障りな大名家を潰してきた経緯がある。恨みを持っていた連中がここぞとばかりに襲いかかるのは世の常であろう。また、徳川家が自ら幕府を放棄すれば、朝廷との関係を保ちながら再び実権を握ることができると目論んだことだろう。そして、革命のための流血というよりは、脂ぎった政権闘争の様相を見せる。それでも、革新派の中に、佐久間象山吉田松陰横井小楠坂本龍馬といった錚々たる人物がいたことは見逃せない。彼らの視野は広く、見識も高い。だが、維新とほぼ同時に処刑や暗殺で姿を消したのは偶然であろうか。残るべき人物が残らず、残るべからず人物が残るのが、政界の力学というものか。

4 柴五郎の日記から
(1)会津時代
 柴五郎の会津の日々。父柴佐多蔵は280石の御物頭。祖母80歳。母ふじのもとに太一郎、謙介、五三郎、四朗(政治小説佳人之奇遇」の著者 東海散士)、かよ(木村家に嫁す)、つま(望月家に嫁す)、志ゅん(夭折)、そい(土屋家に嫁す)、五郎、さつの大家族であった。あまりにおとなしい子どもであったので、母が近年めずらしいとして「近年五郎」と呼び、かわいがった。会津戦争は、戊辰戦争の一局面。薩長の浪士は、江戸をはじめ各地で放火殺人を行い、世の中を不安に陥れたという。徳川の威信を傷つけ、会津討伐の気運も高まる。会津城内では、幼き姉妹が薙刀の稽古に励む。そして、東西南北に青竜隊、白虎隊、朱雀隊、玄武隊を編成。それぞれ東西南北の神の名をとっていた。1868年、会津戦争が勃発した時、幼い柴五郎は面川沢の山荘にいた。
 そして、戊辰戦争といわれた悲劇が始まる。そいの夫土屋啓治、伏見にて戦死。父佐多蔵は若松城に籠城。長兄太一郎は軍事奉行として越後方面。次兄謙介は大砲隊に属し山川大蔵(浩)指揮下にあって日光宇都宮方面に出撃。偵察に出て不明(後、農民に虐殺されたことが判明)。三兄五三郎は佐川官兵衛に属し、のち農民隊長として越後戦線。四兄四朗は白虎隊に入るも熱病にて臥床中であり歩行も困難であったが、母によって若松城に追いやられる。8月21日、郊外の別荘に住む大叔父の未亡人が五郎を松茸取りに誘いに来る。23日、会津城下に戻ろうにも、紅蓮の炎に包まれた城下に戻れず、叔父柴清助より祖母、母、兄嫁、姉、妹の自刃を知らされる。柴五郎は思い起こして語る。柴少年にとっての辛い体験は、わけもわからないまま突然やってきた。「幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かるると教えられしに、いかなることのありしか、子ども心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を蒙りたること、脳裏に刻まれてきえず」会津には薩摩藩が先頭になって攻め込んできた。戦闘は約一か月に及んだ。その修羅場に少年も巻き込まれた。一番つらかったことは、祖母、母、姉、兄嫁、妹の五人が、足手まといになることを恐れて自決したことだ。少年は、母たちの計らいによって、親戚に預けられる。その別れの場の事が常に思い出されて少年の心を苛む。
 「ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れと知りて余を送りしとは。この日までひそかに相語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと篭城を拒み、敵侵入ととともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。わずか7歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慚愧にたえず、想いおこして苦しきことかぎりなし。」木村家に嫁したかよも負傷して動けぬ夫をはじめ一家9名ことごとく自刃する。女性で生き残ったのは望月家に嫁ぎ寡婦となり3人の子どもを養育する26歳の姉つま一人となった。こうして、男は6名中5名が生き残り困難な生涯を歩むこととなった。この新政府軍の会津侵攻の模様は会津人から見れば「ああ自刃して果てたる祖母、母、姉妹の犠牲、何をもってか償わん。また城下にありし百姓、町人、何の科なきにかからわず家を焼かれ、財を奪われ、強盗強姦の憂目をみたること、痛恨の極みなり。」である。柴五郎の生涯は痛恨の極みを胸に抱いたものである。いくら維新の内乱とはいえ、日本人同士の争いではなかったのか。男たちが殺し合うのはともかくとして、何故女までがこういう境遇に自らを追い込まねばすまない事情があったのかと。だが女の中には男とともに篭城して、かいがいしく働いていたものもある。大山捨松などもそうだ。
 「城中にて婦女子の活躍ぶり、まことに目覚ましきことにて、敵砲丸城中に落下すれば、水浸したる蓆、俵の類を広げて走り、この上に覆いて消し、その被害戦死に及ぶを防ぐ。また負傷者の手当、炊出しなどやすむ暇なく、衣服よごれ破れるも顧みず、血まみれになりて奮闘せる由なり。最後の時至れば白無垢のいでたちに身を清め、薙刀小脇に抱きていっせいに敵陣へ切り込みて果てる覚悟なりしという」
 こんなかいがいしい働きもむなしく、会津藩は一か月にわたる抵抗の後降伏した。少年は親戚の山荘で、髷を切り小僧の姿に扮して隠れていたが、やがて兄たちや父親と再会する。女たちは自決して果てたが、男たちは生き延びたわけである。しかし生き延びた者たちに待っていたのは過酷な運命だった。
(2) 明治維新
 翌年明治2年の6月、会津藩士は捕虜として東京に移送され、5か所の収容所にわけて入れられた。新政府は、北海道開拓のために、藩士にして希望する者には移住を勧奨したが、応じた者は200戸だった。大部分のものは、藩主と運命を共にすることを選んだ。明治2年長兄太一郎とともに東京での俘虜収容所生活。7月の梅雨明けの蒸し暑い日、「一ツ橋門内、御搗屋と称する幕府糧食倉庫に着きたるときは、疲労困憊、瑠官淋漓たり。ーー木造二階建の広き倉庫にて土間なり。漬物置場らしく、沢庵着の香り満ち、湿気ははなはだしく通風悪し。この建物を謹慎所と称す。」と劣悪な環境に落とされる。このとき柴五郎わずか11歳の俘虜生活である。しかし、この劣悪な倉庫生活も後の下北半島の生活に比べればましであったかも知れない。
そんな彼らに、新政府から思いがけない沙汰が出された。徳川慶喜松平容保は罪を許される。佐幕派南部藩から処罰として陸奥国を三郡に割き、これを斗南(となみ)藩として旧会津藩に与えられた。陸奥の国、旧南部藩の一部を裂き、下北半島の火山灰地に移住させ、3万石を賜うというのである。3万石と云っても名目だけで、実際には7000石程度のものでしかなかった。旧領の会津が実質66万石あったのに比すれば、雲泥の差である。それでも、亡国を覚悟していたものとしては、こんな申し出でも、再生に向けての天子の特別の配慮に思えたと五郎はいう。薩長閥を中心とする明治政府は会津藩下北半島の斗南(となみ)に移封した。藩士全員は当然生活ができるはずがなかった。柴少年は父親と一緒に斗南に行った。そこで約2年間暮らした。そこでの暮らしは想像を絶するものであった。真冬になると氷点下15度ぐらいになり、柴少年は裸足で外を歩かなければならなかった。(実際には、はっきり言って、会津藩を斗南に行かせたのは移封ではなく、処罰である。薩長閥は会津藩を朝敵として見せしめにしたとしか思えない。はたして会津藩は朝敵であったのだろうか。それ以上に本当に薩長尊王であったのか。特に長州の動きをみていると勤皇だとはとても思えない。薩長天皇を思い切り利用し、自らの行動を正当化したのではなかろうか。政治とはそのようなものであろう。ただ薩長のやり方、とくに軍隊を私物化したことが日本を滅亡に追い込んだのは確かであろう。結局、戦前は薩長対反薩長の構図で国が動いていたのではなかったか。その構図を作ったのはもちろん薩長である。)
 しかし、それは甘い考えだったことが、すぐに身にしみてわかる。明治3年5月に、藩士たちは新領地に移住し、そこを斗南藩命名したが、地味低く藩士を養うにはとうてい足らず、彼等はすぐに飢えに直面するのである。柴父子は、恐山の麓に小屋を借りて、そこを根城に開墾に乗りだしたが、そうかんたんにはいかない。悲惨な生活が待ち受けていた。「霊媒にて有名なる恐山の裾野は起伏し、松林、雑木林入り交じり、低地に数畝の田あるのみ。まことに荒涼たある北辺の地にて、猟夫、樵夫さえ来ることまれなり。犬の声全く聴くことなく、聞こゆるは狐の声、小鳥の声のほか、松林を吹き渡る風の声、藪を乱す雨の音のみなり」栄養失調で苦しんでいるところを、猟師が誤って撃ち殺した飼い犬の肉を、飼い主の承諾を得てもらうことができた。その話を聞きつけた別の藩士がやってきて、半分わけてくれという。父親が承諾すると、其の藩士は犬を解体し、半分を持ち去った。その日から、少年は毎日のように犬の肉を食わされた。犬の肉はまずくて喉を通らなかった。すると父親は、次のように言って、少年を諭すのだ。「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを食らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地に来れるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、後の世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」
父の怒りに怯えた少年は、目をつむって一気に飲み下したが、胸につかえて苦しいこと限りない。こんな境遇を想うにつれ、少年は、これは藩の再興などではなく、「まことに流罪にほかならず、挙藩流罪という史上にかつてなき極刑にあらざるか」と結論付けるのだった。
少年柴五郎個人の運命という点では、青森県庁の給仕として出資できたことが分かれ目となった。そこで少年は大参事の野田豁通と出会うのだが、この人物がゆくゆく少年の運命をひらいてくれる。絶望の日々を送る柴五郎にも「曙光」が射す。藩政府の選抜により青森県庁の給仕として遣わし、大参事野田豁通(ひろみち)の世話になることが決まった。この野田豁通の出会いが五郎の将来を決定づけた。少年13歳。野田は、熊本細川藩物産方頭取石光真民の末弟で、勘定方出仕の野田家に入籍、実学派の横井小楠の門下で、後に陸軍に入り初代陸軍経理局長、男爵を賜る。かつての敵軍の将だが、義侠無私の人で後進をよく養い、討幕派と佐幕派をまったく差別しない人物だったという。彼との出会いが、柴五郎の将来を決定付ける。野田は、陸軍会計一等軍吏に就任した時、陸軍幼年生徒隊(陸軍幼年学校の前身)を受験することを勧める。陸軍幼年生徒隊(幼年学校の前身)を受験合格した。柴五郎はそれを「わが生涯最良の日」としている。
 野田豁通について柴五郎は次のように言っている。「野田豁通の恩愛いくたび語りても尽くすこと能わず。熊本細川藩の出身なれば横井小楠の門下とはいえ、藩閥の外にありて、しばしば栄進の道を塞がる。しかるに後進の少年を見るに一視同仁、旧藩対立の情を超えて、ただ新国家建設の礎石を育つるに心魂をかたむけ、しかも導くに諫言を以てせず、常に温顔をほころばすのになり」野田豁通は何らの縁もなき柴五郎少年を暖かく扱ってくれたのみか、少年に陸軍幼年学校に入るきっかけまで作ってくれた。この人の恩愛がなかったならば、自分は一回の乞食として終わっていたかもしれない、そんな思いが切々と伝わってくる少年が深い恩を受けた人物がもう一人いる。山川大蔵だ。山川は会津藩の家老で、斗南藩の大参事を務めたりしたが、一時零落して東京に蟄居していた。青森から出てきた少年は、いろいろな人に保護を仰いだあげく、山川のところに転がり込んだ。山川の家には、家族のほかに食客のようなものもいたが、そうした中で生活が苦しいにもかかわらず、少年の面倒を見てくれた。山川大蔵はまた、後に大山巌夫人となった捨松の長兄である。少年が訪ねて行ったとき、捨松はアメリカに留学中だった。
 少年の身なりがあまりにもひどく、乞食のようだったので、山川は捨松の衣装を取り出させ、袖を切ってそれを少年に着せた。少女の着物を着せられても、少年は恥ずかしいとも思わなかった。陸軍幼年学校に入った少年は、それまできちんとした教育を受けておらず、授業についていけるか不安だったが、面白いことに、学校の授業はフランス人教師によって、フランス語でなされた。少年は日本語の教育を受けたことがないので、高度の日本語の文を作ることはできないが、フランス語はゼロからの出発だったこともあって、すぐに読んだり書いたりすることができるようになった。こうして、無事学業を勧め、軍人としての未来を自らの手で切り開いていく。柴五郎が朝敵の会津出身にも関わらす、陸軍大将にまで上り詰めたのは、フランス語を始め英語、中国語など語学に堪能なばかりか、無類の中国通であったことがあげられる。その有能さを支えるには大切なものを生涯忘れずにいることであった。
 1873年(明治6 年)、皇城炎上。維新にあたり各藩は思惑を剥き出しにする。薩長土肥連合の藩閥政府は征韓論で割れる。この頃、仕官学校の教育方針は、フランス式からドイツ式へと変更され、軍服もドイツ式になった。右大臣岩倉具視、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通ら48名が条約改正、欧米視察で留守中に新政府反対の口火を切ったのが旧薩摩藩島津久光。「皇統も共和政治の悪弊に陥らせられ、ついには洋夷の属国と成らせらるべき形勢」として、大久保利通西郷隆盛の罷免を直訴。各藩主や重臣らも若輩らの暴走を危ぶむ。そして、西郷隆盛板垣退助らの征韓論は、岩倉具視らの欧米諸国との関係を配慮する慎重派に敗れた。西郷隆盛は参議を辞し薩摩に帰郷するが、続々と不穏な動きが現れる。江藤新平佐賀の乱秋月の乱萩の乱などの士族の騒動が続く。自由民権運動と言えば聞こえがいいが、結局は士族民権を主張したに過ぎない。
柴五郎と五郎の兄たちそして会津藩士の多くにとって、会津雪辱の日ともいうべき時がやってきた。1877年(明治10 年)の西南戦争だ。西郷が率いる薩摩軍に、天皇から討伐命令が出されたのだ。その時のことを柴五郎は次のように書いている。「余の日記に次のごとくしるしたるを見る。真偽いまだたしかならざれども、芋征伐仰せだされたりと聞く、めでたし、めでたし。」薩摩は自分たちに塗炭の苦しみを与えた仇敵であり、西郷はその総大将だ。その西郷が今では賊軍の将となり、官軍によって成敗されようとしている。これは会津にとってはまことにめでたいことだ、そんな感慨が読み取れる。感慨はなおも続く。「はからずも兄弟四名、薩摩打ち懲らしてくれんと東京に集まる。まことに欣快これにすぐるものなし。山川大蔵、改名して山川浩もまた陸軍中佐として熊本県八代に上陸し、薩摩の退路を断ち、敗残の薩軍を日向路に追い込めたり。かくて同郷、同藩、苦境をともにせるもの相集まりて雪辱の戦いに赴く、まことに快挙なり。千万言を費やすとも、この喜びを語りつくすこと能わず」
 柴五郎は、大久保利通が暗殺された時にも全く同情を覚えなかった。大久保も西郷と同罪なのだ。この両人は「天下の耳目を日飾ひかざれば大事ならずとして、会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず。結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり」10歳の時に一心に蒙った傷が、いつまでも癒されることなく、少年の生涯を苦しめ続けた、その苦しみがこの言葉から逆説的に伝わってくる。維新の評価はその成果に比して過大であり、残酷であったことを物語る。そして、倒幕派が外国人を殺傷するような行為が、尊王攘夷の真意を捻じ曲げたと回想している。ただし、会津藩側からの思い入れが強く、感情的なところもある。薩摩の芋侍め!とか、西南戦争で自刃した西郷隆盛には「ざまあみろ!」のような記述も目立つ。大久保利通西郷隆盛征韓論を境に訣別し、10年に渡る西南戦争の末に西郷は自刃した。内務卿大久保も暗殺される。ともに会津の元凶が世を去って、ようやく維新の動揺が収まる。
 それでも、維新を一方的な英雄伝説として崇めるのは乱暴ではないだろうか。日本の近代化の原点がこの時代にある以上、その分析を怠ることはできない。明治維新から始まった近代化は、いったいなんだったのか、それを問いかけているような気がする。ただ、時代の流れとして、その段階も必要であろう。フランス革命がブルジャワジーによる権力抗争で終わり、真の共和政を獲得するまでに相当な時間がかかったように。
(3) 軍人として
西洋の植民地政策に刺激され富国強兵で邁進すると、軍拡気運を高めるがゆえに軍界に志を持つ者が少なくなり、素質の低い者が混ざると指摘している。そして、日露戦争までは日本軍は立派であったといわれている。ロシア軍クロパトキン将軍の回想録には、世界に稀にみる軍隊だと賞揚している。捕虜の扱いでも国際法を尊重して、むしろ日本軍の負傷兵や遺族の扱いの方が卑屈であった。その厚遇で、日本に帰化した外国人が相当数にのぼったそうだ。現在でも、日露戦争までの態度を讃える意見は多い。乃木将軍とステッセル将軍は握手して、ともに勇敢さを称えたと伝えられるし、ルース・ベネディクトは著書「菊と刀」で、日露戦争の写真を見ても、どちらが戦勝国なのか区別がつかないと語っていた。だが、新渡戸稲造は、著書「武士道」の中で、武士道は徳川泰平の世に既に廃れていたと語っていた。本書では、日本の近代化を「宗教を破壊して天皇信仰を唱えただけでは、市民としての生活信条は育たなかった。」と回想している。
「守城の人」(村上兵衛著)では、二つの光景が描かれている。会津で錦の御旗のもとに行われた話。「西軍の兵士たちは、戦いよりも自分たちの部隊名を誌した『分捕』の張り札を、土蔵に貼って廻るのに忙しかった。そして、それらは故郷に『分捕品』として送られた。若松のまちから滝沢口へと向かう街道は、この分捕品の荷駄の列で、『人馬駅絡として絶えることなし』と、当時の記録は書き残している。」「そして、その焼跡は、分捕品を商う俄かごしらえの露天の店でにぎわった。」
 もう一つは北京での話。「連合軍の入城によって、事態は一変した。市街戦は、おおむね5日間にわたり、清国兵は市中から掃蕩されたものの、群盗と化した暴徒が跳梁し、連合軍の将兵そのものも掠奪者となって横行、北京は死んだまちになった。その中で逸早く治安を回復し、日常が戻ってきたのは内城の北半、すなわち日本軍の占領区域である。そのため他国軍の占領区域から、日本軍の占領区域に移り住む市民も少なくなかった。柴中佐は、今は軍事警察衛門長官として、目の廻るような仕事に忙殺されていた。」軍人としての柴中佐はこれらを任務として誠実に行ったに過ぎない、と言うであろう。しかし、誠実な任務遂行には大切なものが裏打ちされていたのである。
「守城の人」を書いた村上はこの後結ばれる日英同盟には同じく北京に籠城した英国公使マクドナルドが日本軍将兵への信頼を厚くし、締結に向けて周旋したことが大きく作用していると推測している。柴五郎は1900年の義和団事件当時、北京在住武官をしていて55日に及ぶ籠城戦を守り抜いた一人であり、その勇敢で的確な指揮によって籠城戦をともに戦った欧米及びキリスト教徒中国人に深く信頼を寄せられた。北京が連合国によって制圧され、第1回の列国指揮官会議が開かれた。席上で籠城した防衛軍の指揮を委ねられていたイギリス公使マクドナルドが「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と語った言葉がそのことを示している。また、その後の北京占領においても日本軍の支配地域では警察事務を受け持つ柴中佐のもと厳格な規律によりいち早く治安を回復した。将兵による民間への略奪はこれを厳しく対応した。柴五郎のみではなく、マクドナルド公使の語るとおり、明治期のある日本人が持っていた大切なものがそこには見受けられる。
北京籠城でのキリスト教徒中国人への姿勢、そして占領した北京市内での警察業務への姿勢はこの会津藩の賊軍としての戊辰戦争の「不敏」「慚愧」「痛恨」の心情から発している。柴五郎は、1900年北清事変(義和団の乱)で、その沈着な行動により世界から称賛された人物である。歴史ではあまり知られていない。
 柴五郎の中国観は、北京籠城でのキリスト教徒中国人への姿勢や、占領した北京市内での警察業務への姿勢は、会津の心情から発しているという。諸外国が清国を侵略していくと、宗教に救いを求めキリスト教徒が増えていったという。義和団は攘夷求国を目的として決起した集団であり、それが会津人と重なって映ったのかもしれない。
「北京籠城が日本軍の勇敢な働きで解かれたが、その後の各軍によって警備区域が定められた。日本担当区は柴五郎中佐が警務衙門長として軍政を受け持ったが、軍紀厳正で中国人民を厚く保護したので、他の区域から日本区域に移住してくるものが多かった。」
この功績で列強国に称賛された。そして、この頃の中国政策の方向を維持していれば、民主的中国と良好な関係を保てたといわれている。当時、大陸進出を夢見る軍部にあって、中国に好意的な人物は邪魔な存在だったに違いない。柴五郎は、北京籠城の功績を英国大使に譲った。その謙虚な態度が、日英同盟の足掛かりになったし、米英が日本を盾にしながら対ロシア政策をとっていたこともある。重慶にあった蒋介石には、「日本人は百年先のことはもちろん、十年先のことさえ考える能力を持たない」と笑われた。
そして、愚劣な日本軍の中国政策にあると指摘しているように、日本軍が中国の民主化を阻み、人民を中国共産党に売ったと回想されている。当時の日本軍が、イデオロギー的な世界情勢をまったく分析せず、ただ大陸の夢を追いかけていたということであろう。国内経済が逼迫すれば、国内の不満から逃れるために対外政策に打って出るというのは、歴史事象として珍しいことではない。太平洋戦争時、戦後の世界が共産主義自由主義の対立構図になることを想定し、分析もなく大東亜共栄圏を掲げたところでなんの説得力もない。思想哲学なるものを持たず、勢いだけで邁進するからヒトラーと手を結ぶことになる。米英だってスターリンと手を結んだではないかと言えば、似たようなものかもしれない。
柴五郎は、太平洋戦争は最初から負けると断言していたという。

5 解説(私見
 著述者の柴五郎は、日本陸軍創生期の軍人であり、後に陸軍大将にまでなった人物だが、会津藩士の子として生まれ、わずか10歳の時に、戊辰戦争の一環として行われた会津戦争に巻き込まれ、そこで子どもながらに悲惨な戦争の経験を味わったあと、東京での俘虜生活や下北半島での流罪のような境遇を生き延びた。
 この数年間のつらい体験を、五郎少年は生涯忘れることができず、自分の記憶のなかで生き生きとよみがえってくる日々の出来事を、備忘録のかたちに現していた。そして昭和17年ごろ、80歳を超えて、日本の敗色が濃厚になるのを見届けると、この本の編著者である石光真人氏に、其の備忘録を託した。石光氏はそれに手を加えて一冊の書にまとめ、昭和46年に中央公論社から出版したという次第である。著者石光真人は熊本細川藩物産方頭取石光真民の子息真清の子どもである。真清は野田豁通によって柴五郎宅に預けられた。このような縁で、「ある明治人の記録」をまとめることとなった。真人は「柴五郎翁とその時代」で昭和17年の秋、玉川上野毛の柴宅を訪れたとき、柴五郎は「この戦は負けです。」と確信のこもった声で語ったエピソードを載せている。大切なものを持つ者からすれば、第2次世界大戦は負けるべくして負けた戦いであったのかも知れない。明治維新からはじまる日本の近代化は一体どのような意味を持っているのか。厳しい問いが「ある明治人の記録」から発せられている。
 そして、明治維新は、日本史でも珍しい革命的出来事として英雄的に語られることが多い。しかし、それは本当に英雄伝説だったのか。少なくとも民衆が蜂起した革命ではなく、武士階級によるクーデター的な様相を見せた。歴史の裁定は勝者に優しく敗者に厳しい。「勝てば官軍、負ければ賊軍」とは、まさにこの時代を象徴する言葉である。本書は、柴五郎自身が死の三年前に著者石光真人に校訂を依頼した少年期の記録だという。「いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢(よわい)すでに八十路(やそじ)を越えたり。」会津戦争で祖母、母、姉妹が自刃。降伏後、下北半島の僻地に移封され、公表をはばかるほどの悲惨な飢餓生活を送った。その無念さから、華やかな維新の歴史から抹殺された暗黒の史実を蘇らせる。これはまさに敗者が語った物語である。

(1月11日生まれの偉人)
◆山岡 荘八(やまおか そうはち、1907年1月11日 - 1978年9月30日)は、日本の小説家・作家。歴史小説を中心に活躍。新潟県北魚沼郡小出町(現:魚沼市)の山内家に生まれる。1920年高等小学校を中退して上京、博文館印刷所で文選工として働きつつ逓信省の研究所に学ぶ。1924年より印刷・製本業を始め、1932年万里閣に入社し、雑誌『ギャング』を編集、「変態銀座デカメロン」を連載。1933年妻の実家である加賀安宅(現、石川県小松市)の藤野家に入り、以後、藤野姓を名乗る。長谷川伸に入門、山岡荘八の筆名を用いる。1938年に「約束」で「サンデー毎日大衆文芸」入選。長谷川伸新鷹会に入会。1939年初の著書『からゆき軍歌』を上梓。1942年より従軍作家として各戦線で活動。『海底戦記』その他で野間文芸奨励賞受賞。50年より「北海道新聞」に『徳川家康』を連載、のち「中部日本新聞」「神戸新聞」などに拡大。53年より単行本の刊行が始まり、ベストセラーとなる。58年中日文化賞。63年新鷹会理事。67年『徳川家康』が完結し、長谷川伸賞受賞、昌平黌短期大学名誉学長。68年第2回吉川英治文学賞を受賞。

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今日終日出張。明日から三連休。ゆっくり勉強をしたいものである。でも、親の介護で追われるのかな。