南鳥島レアアース調査船「かいれい」出航

 いよいよ始まった。深海探査。日本は海洋国家であり、海洋面積は世界第六位であり、日本の特性を活かし、いよいよ海洋探査が始まった。レアアース(希土類)が大量に存在する可能性のある南鳥島周辺の海底を調べるため、海洋研究開発機構の深海調査研究船「かいれい」が21日午前、神奈川県横須賀市の港から出発した。南鳥島を中心とする約800キロ四方の海域で、水深1500〜6000メートルの海底地形やレアアースを含むとみられる泥の地層を音波で調査。さらに、海底から深さ約20メートルまで掘削できる機器を使い、泥を採取する。31日まで調査し、2〜3カ月かけて分析する予定のようだ。レアアースは携帯電話などのハイテク機器に欠かせない元素。昨年、東京大チームが、南鳥島沖の日本の排他的経済水域EEZ)内で、海底の泥に希少なジスプロシウムなどが高濃度に含まれていることを発見した。EEZ内に国内消費量の230年分に相当する量のレアアースが存在すると見込んでおり、日本の資源開発につながる可能性がある。結果に期待したいものである。

 (1月22日生まれの偉人)
◆田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日(明治4年12月13日) - 1930年(昭和5年)5月13日)は、日本の小説家。本名、録弥(ろくや)。群馬県(当時は栃木県)生れ。尾崎紅葉のもとで修行したが、後に国木田独歩柳田国男らと交わる。『蒲団』『田舎教師』などの自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家の一人。紀行文にも優れたものがある。
 1904年(明治37年)、日露戦争が勃発すると、第二軍の写真班で従軍記者をつとめた。3月29日、広島市大手町の宿に同軍軍医部長の森鴎外を訪ねており(初対面)、8月15日に発熱して9月20日に帰国するまでの間、鴎外と頻繁に会っていた。なお、後日「……私は殊に鴎外さんが好きで、『柵草紙』などに出る同氏の審美学上の議論などは非常に愛読した。鴎外さんを愛読した結果は私もその影響を受けた。」と書いた(「私の偽らざる告白」『文章世界』1908年9月)[2]。その頃から自然主義文学の分野を自覚し、評論『露骨なる描写』や小説『少女病』を発表し、新しい文学の担い手として活躍することになる。1906年明治39年)博文館から『文章世界』が創刊されると編集主任となる。文章世界は当初実用文の投書雑誌を目的に発刊されたが、田山らの影響で、自然主義文学の拠点となる。1907年(明治40年)に、中年作家の女弟子への複雑な感情を描いた『蒲団』を発表。女弟子に去られた男が、彼女の使用していた蒲団に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、涙するという描写は、読者、さらに文壇に衝撃を与えた。この作品によって、日本の自然主義文学の方向が決まった。さらに『生』『妻』『縁』の長編3部作、書き下ろし長編小説『田舎教師』を書き、藤村と並んで代表的な自然主義作家となった。大正に入ってからは自然派の衰退と新鋭作家の登場で次第に文壇の主流から外れていった。だが『一兵卒の銃殺』などの作品を精力的に発表。
 また紀行文も秀逸で、『南船北馬』『山行水行』などがある。さらに日本全国の温泉を巡り温泉に関する本も数多く残している。博文館の『日本名勝地誌』の執筆に参加し、後に田山花袋編として『新撰名勝地誌』全12巻の監修をおこなった。
田舎教師のあらすじ>
 日露戦争の戦況に一喜一憂している明治の中期、中学を卒業した清三は、親友の父のはからいで、貧しい父母を養うために高等小学の教師となる。師範学校に進もうとする友人たちの中で、自分だけ田舎教師として人生を終えるのかと焦燥にかられる清三だが、彼には、まだ、その境遇からいつかは抜け出ようとする意欲もあり、清三は中学時代の仲間と同人誌「行田文学」を発刊。しかし同人誌は4号で廃刊、仲間たちからは文学の情熱が失われ、芝居見物や女遊びにはしゃぐようにになっていく姿を清三は寂しい気持ちで見つめる。冬休み、実家に帰った時、親友の郁治を訪ねた。ひそかに慕っていた美穂子と郁治が親しく文通している事を知り、恋愛も学問も消極的になる自分を辛く感じるのであった。しかし「自己を尽くし潔く運命に従おう」という心境になる。それからの清三は、絵を描いたりオルガンを弾いている時間が多くなり、行田の友人とも会う事も少なくなっていた。教師になって3年目には、上野の音楽学校を受験したが失敗に終わった。羽生に帰った清三は、虚しく寂しい生活から立ち直ろうとする。過去を忘れ教え子たちを愛し、健康を取り戻し、野心を捨て両親の面倒を見、昔の友達も復活させようとする。しかし、清三は不治の病にとりつかれ、次第に衰弱して寝たきりとなり、この田舎も日露戦争の戦勝で湧きかえる中、一人さみしくこの世を去って行くのだ。

◆椋 鳩十(むく はとじゅう、1905年1月22日 - 1987年12月27日)は、日本の小説家、児童文学作家。本名は久保田彦穂(くぼた ひこほ)。
長野県下伊那郡喬木村阿島出身。旧制飯田中学(現・長野県飯田高等学校)、法政大学法文学部(のちの文学部)国文科卒業。大学在学中、佐藤惣之助の『詩の家』同人となり、1926年に詩集『駿馬』を発表する。卒業後、鹿児島県熊毛郡中種子高等小学校に代用教員として赴任するも、3ヶ月で解雇となる。 その後に姉の紹介により、同県加治木町立実科高等女学校の国語教師に着任する。仕事の傍ら、宿直室を使い作家活動を続け、 1933年に最初の小説『山窩調』を自費出版する。この時初めて椋鳩十ペンネームを使った。
山窩調』も発禁処分となったが、同年、『少年倶楽部』の編集長であった須藤憲三より執筆依頼の手紙が届く。椋は数年放っていたが、須藤の送った「怠け賃」に感激し、児童文学を書き始めた。1947年には鹿児島県立図書館長を務める。館長としては、GHQによる軍国主義的図書館資料の排除(実質上の廃棄・焚書)命令を書庫に封印する事を条件に命令実行を回避するなどしたが、財政難によって図書館再建は困難を伴った。そこで、県と市町村による図書館の共同運営を行って、市町村立図書館の設置が出来ない市町村では、教育委員会や公民館に図書館(サービス・センター)を設置して県立図書館がこれを支援した。また、県立図書館が主導して図書を購入し、市町村立図書館やサービスセンターに貸し出す事で市町村図書館・サービス・センターと県立図書館が役割分担を行う事で相互の役割補完を目指した。椋のこの運営方式を図書館学では「鹿児島方式」と呼称しており、後の図書館ネットワークの構築に大きな影響を与えた。また、創作と並行して1958年には島尾敏雄を館長とした奄美分館を設置、1960年には読書運動である『母と子の20分間読書』運動を推進した。 1967年からは鹿児島女子短期大学教授を務めた。
鹿児島県内の小中学校・高校の校歌に詩を提供しており、今なお歌われ続けている。なお、作詞者名にペンネームではなく本名で名前が書かれている場合もある。 白い猫が好みで、小説「モモちゃんとあかね」のモデルになった猫のモモを飼っていたときには、モモの産んだ子猫のうち白い子猫を手元に残し、小説でもモモを白猫として描いている。1987年に逝去。長野県下伊那郡喬木村椋鳩十記念館、鹿児島県姶良市加治木町椋鳩十文学記念館がある。2011年現在『大造じいさんとガン』は、小学5年生の国語教科書の教材になっている。