「地位のあるものほど気配りをするべき」、そして謙虚さを失ってはリーダーにあらず。」ちなみに今日は西郷隆盛の誕生日。そして悲しきかな私のブログ

◆運転手さん付きの車に乗れる人は、それほどお金に困ってはいないでしょうから、コインパーキングに車を入れることくらいはできるはず。通行量の多い、狭い道に止めておけば通行人に迷惑がかかるというくらいのことは普通の人間なら分かるはず。運転手を乗せておけば、駐車違反にはなりませんが、それは法律違反にはならないというだけであって、モラル上の問題は残る。ピーター・ドラッカーは「法律を守ることは、企業が存在を許される条件」と言っているが、それは法律は、社会が平和に暮らしていくための「最低限」のルールだからであり、法律を守ってさえいれば、あとは、何をしても良いというものではない。それ以上のモラルや倫理観が必要なはず。少なくとも、通行人に多少の気配りをするくらいの心の豊かさが必要です。その家の人間は、「家の雪が無くなって良かった」と単純に考えるのではなく、その雪がどこに持って行かれたのか、ひょっとして近隣に迷惑をかけているのではないかぐらいの気配りができないものでしょうか。他人のふりを見て、自分たちを正さなければなりません。「反面教師」を忘れてはいけない。地位やお金ができると、人は傲慢になるもの。「謙虚さを失ってはリーダーにあらず。」少し成功するとどうしても態度が大きくなりがちです。松下幸之助さんは、「素直」ということを最も大切にされていたが、素直さは謙虚さにつながる。良い時には傲慢にならず、悪い時にも卑屈にならない。これが本当の素直さ、謙虚さである。

(1月23日生まれの偉人)
◆西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体:西觶輶盛、文政10年(1828年1月23日) - 明治10年(1877年9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。薩摩藩の盟友、大久保利通長州藩木戸孝允桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。維新の十傑の1人でもある。
 幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った、本名は8代目西郷吉兵衛隆永と言う。西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争北越戦争新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。
 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島流罪にあう。しかし、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年1873年)の政変で江藤新平板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱神風連の乱秋月の乱萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。
(参考)司馬遼太郎「飛ぶが如く」などの作品に西郷隆盛は登場。
<上野公園銅像の由来>
 明治維新において官軍の参謀西郷隆盛勝海舟が会談し、江戸城無血開城されて、江戸は戦火をまぬがれ江戸100万人の財産、人命が助かった。その後、明治4年〜6年の間、実質、西郷内閣の時、廃藩置県、徴兵制度、身分制度の廃止、宮中の改革、学校、警察、銀行、太陽暦採用等、採用され、近代日本の礎を作った。その後西南の役で悲劇の人生を終えたが、明治22年明治天皇より正三位を追贈された、故吉井友実が同士と友にはかり、西郷さんの偉大な功績を銅像を建立してその由を後世に残すために立てられた。明治31年除幕式には時の総理大臣、山県有朋勝海舟大山巌、東郷元帥等や800名が参加して盛大に行われた。
◆湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年(明治40年)1月23日 - 1981年(昭和56年)9月8日)は、日本の理論物理学者である。京都府京都市出身。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより湯川理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した


◆ 寺島実郎「大中華圏」(NHK出版)から
 数字で大きな流れとをつかむだけでなく些細な動きをも見逃さず、そして頻繁な移動を伴う自らの体験で五感を稼働させて現場の空気に触れて洞察する。そういった独特の寺島式方法論としなやかな感性で、中国という巨大な昇り竜を対象に持続的で粘り強い思考が展開されている。
・冷戦の終了後、旧社会主義国はロシアにしても東欧にしても経済は一向に離陸しない。その中で中国だけは唯一大きく発展しつつあり、既に経済規模では日本を超えた。
・その要因はネットワーク型発展にあるというのが本書の洞察である。13億人を超える陸の中国は、華僑・華人が多く住む香港・台湾・シンガポールという島々からなる海の中国のエネルギーを取り入れながら発展を続けている。この姿を凝縮して表現したのが「大中華圏」という考え方だ。
・世界における大中華圏の経済規模は2011年においては11.8%となり3位に日本の8.4%を凌駕している。購買力平価でみると日本は6.4%であるが中国は16.2%と2倍であり、大中華圏では18.4%と3倍近くに達している。
・日本との貿易では、アメリカは11.9%に落ち込んでいるのに対し、中国は20.5%、大中華圏では29.8%、そひてアジアは50.2%とついに半分を超えた。因みに中東は増えて11.1%、EUは減って10.5%、ロシア1.8%となっている。
・大中華圏はインターネット普及率が高い地域であり、中国自体は人口が多く40%台であるが、台湾・シンガポール・香港はいずれも75%程度でアジアの中では4位から6位の地位を占めている。大中華圏を行きかう人の流れは1.2億人となり、また文字を媒介とした情報技術によって相互コミュニケーションが活発になって結びつきを深めている。台湾とシンガポールとの提携関係(陸軍など)も見逃せない。
・香港は、中国の海外からの投資の6割以上が経由し、海外からの投資の中継地点の役割を担っている。人口700万超の香港には年間3000万人に迫る中国からの来訪者があり、香港経済を支えている。
・台湾は、中国とは実質的な自由貿易協定を結んでおり、台湾企業の本土での生産立地が急速に進んでいて、上海付近には100万人を超す台湾人が移住している。人口2300万人の台湾はステルス国家(見えない国家)でもある。日本企業が台湾企業と合弁で中国に進出した成功例は多い。そういう企業は解決力が高く、反日暴動でっも攻撃対象にはならなかった。
シンガポールは、大中華圏の南端にありアセアン諸国とのつなぎめにあると同時にロンドン・ドバイ・バンガロールシンガポールシドニーと一直線に連なる「ユニオンジャックの矢」の根にあって、大英連邦のネットワーク上に位置している。インドなどアジアとアメリカをつないIT基盤インフラ、バイオ研究センター、メディカルツーリズム、アセアン諸国と格安でつなぐチャンギのLCC専用ターミナル、ソフトウェア、カジノ、金融サービス(イスラム金融、、)といった目に見えない財を創出する力を持つ「バーチャル国家」の成功モデルだ。人口518万人のシンガポールは一人当たりGDPは5.4万ドルで3.7万ドルの日本の1.5倍ほどだ。
・こうした香港・台湾・シンガポールという海の中国からの投資は中国の対内直接投資の6割を超す状況にある。
・大中華圏の実体化に伴って、中国はこの大中華圏ネットワークを政治的にも利用し始めている。それが尖閣問題である。このネットワークは相互古流と相互依存の関係にあり、互いに影響を受けやすくなる「相互依存の過敏性」が生じている。大中華圏は中国にとって両刃の剣である。
・楊外相は2012年9月の国連演説で、1895年の日清戦争後の下関条約で清国が台湾を日本に割譲し、同時に「台湾に附属する尖閣諸島」を日本が奪い取ったと主張した。割譲を受けた台湾とぼうこ諸島には尖閣諸島は含まれていない。つまり尖閣諸島は台湾のテリトリーではないという了解であった。
・1951年のサンフランシスコ平和条約で日本は中国に対して台湾を返還すること、そして沖縄は日本に潜在主権があることを米英は認めている。サンフランシスコ平和条約には中国も台湾(国民政府)も代表権問題が未解決のため署名していない。その後、1972年に沖縄が日本に返還される。その際、尖閣は地図上でも返還される地域として明示されている。
そうすると中国が下関条約を根拠に領土権を主張するなら、1951年から1972年までの間に、尖閣が沖縄に含まれるのはおかしいと主張すべきだったはずである。下関条約を根拠にした中国の主張は無理があることがはっきりした。
習近平には農村下放と米国体験がある。格差問題への関心と米国への理解と共鳴がある。ここを理解した上で付き合うべきだ。
北京オリンピックの頃から中国は「中華民族の歴史的成果」「中華民族の偉大な復興」という言葉を使い始めた。「社会主義」というイデオロギーで中国を束ねることはできなくなった。その模索の上で55の少数民族、6000万に及ぶ在外の華僑・華人を含む統合の概念として、「中華民族」というキーワードが登場してきた。
<日本への提言>
・西洋周辺型ではなく、中国周辺型でもない、創造型のモデルを模索していかねばならない。
・大中華圏を飲み込むような大きな気概を持たなければこのテーマには向き合えない。
・覇権型世界観からの脱却が必要。全員参加型秩序の時代。
・影響力最大化のためのゲームという視点。
・日本は、戦後民主主義を踏み固めること、そしてアジア太平洋の国々との相互信頼を築く。
・日本の価値は、技術を持った産業国家として、技術によって新しい付加価値を生み出し、新しいイノベーションを通じて国際社会に貢献することだ。実態経済と技術を大切にする視点。
・日本自身も台湾、韓国などとのネットワーク型発展の中にある。日本のネットワーク型発展と大中華圏のネットワーク型発展をつなげて考える発想。
・あとがきで、著者は本質的な意味で大中華圏を脅威だとは思わないと言っている。中国の挑戦は欧米近代化模倣路線であり、人類にとっての創造的な実験ではないからと言っている。
日本は、現実には米国との日米同盟に守られた「核武装経済国家」として歩んできた。2011年から始まった貿易収支の赤字は、さらに拡大するだろう。「通商国家モデル」は転機を迎えている。日本人として大中華圏と向き合う構えが問われることになる。

◆「2013年への展望−日本の進路」(寺島実郎)
・年末年始:大中華圏。香港。岡寺(龍蓋寺)。シンガポール。NKクロースアップ現代。奈良飛鳥、飛鳥寺空海、大仏。ユーラシアの風。
・大中華圏:仮説から実体化。政治的意味。1人当たりGDP(2011年度)はシンガポール5.5万ドル超、香港3万数千ドル、台湾3万ドル超となるだろう。日本は3.7万ドルに張り付いている。もはやアジアの先頭ではない。
・中国の統合のキーワードは、社会主義から「中華民族」へ。
・17世紀オランダ論:フェルメール(宝石顔料。アフガン、東インド会社)とレンブラントユダヤと)。次はデカルト高等遊民)とスピノザユダヤ人の息子)。科学・美術・哲学の相関という観点。
・NHK紅白。三輪明宏のヨイトマケの歌。「今じゃ僕もエンジニア」という成功物語。
・就職:3年で3割が転職。ミスマッチ。IT革命による仕事の平準化。部品、回転可能な労働力。両親が障害。稼ぎが人格向上に一致するなら幸福。
日本の知的セクターの劣化。大学院卒業者9.6万人中、無業者2.4万、非常勤3.0万人。ポスドクが数十万人と積みあがっている。シンクタンクソフトハウス化。金融セクターシンクタンクの圧縮。大学採用も数十倍。サイバーアタックに立ち向かう技術者も予算削減、400人の非常勤。iPs細胞の東大特任研究員の奇怪な行動、、。
政権交代安倍内閣の調整インフレ論。実体経済が重要。プロジェクトをしっかりつくる。総合エンジニアリング。システム農業による農業生産法人。食糧自給率(39%)、バイオエネルギー、高齢者参画、二地域居住、PPK(医療費・介護費削減)、雇用(年収300-500万円)。京浜医療特区構想:先端医療、国際機関、人材育成、医療船構想。プラットフォームをつくる。
・日本には花はある。しかし剣山を思いつく力がない。商社、建設なども国際コンソーシアムのリーダーがいない。多国籍メンバーを率いるリーダーが不足。宗教、思想、哲学の異なる人たちをフェアに率いていく力。
・総選挙:民主党への失望(マニフェストとは反対の方向。第二保守化。反産業的空気)。第三極への疑心(いかがわしさ。失速。地方分権の維新と国権主義者石原との野合)。それが相対的にましな自民党になった。景気期待があり原子力は論点ではなかった。
・政治人:代議制度の鍛え直し。代議者の削減(米の3倍)。1人2億円。政治でメシが食える(世襲)のはまずい。民主党マニフェスト120人削減が、80人、40人、最後は0増5減。人口減もあり議員は半減すべきだ。
・文化人:スポーツ、芸能、宗教。反原発運動。経済あっての文化という面。思いあがってはいけない。経済、政治、文化の相関の中で考えていかなければならない。

◆連続100日を変えた私のブログ
 誰にも読まれないブログ。私の考える力ふそくでしょうか。