『僕富論から君富論へ』浜矩子は語る。

 午後1時45分から東京ウィンメンズプラザで同志社大学院教授の浜矩子教授の講演を聞いた。
「世界経済と日本財政〜明日への展望」講師:浜矩子教授
財政は、今後のグローバル経済に大きな焦点になる。
○アベノミックスに対する批判
①浦島太郎型公共事業 
国土強靭化というのは、従来からの自民党政権の古典的バラマキ型公共事業にすぎず、公共事業で景気浮揚を図るのは、ピント外れ。景気対策にはならない。日本のような成熟経済であれば、公共投資しても、ハコモノができて、それで終わり。価格入札も厳しくなり、需要は外に向かい、結果として財政赤字が懸念される。
②円安カミカゼ型の輸出立国への回帰
 円高で厳しい状況があるのは理解できるが、輸出が伸び、日本経済が良くなる時代ではない。グローバルサプライチェーンという世界経済の中、部品・材料等も輸入しており、国内で完結する製品は少ない。輸出企業も多様な輸入品があり、輸入コストが上がることを考えるべき。その部分が欠落し、輸出立国・貿易立国になるということはなく、旧来のやり方ででも、海外投資で経常収支が黒字にあることが欠落している。海外からの為替切下げ戦争を仕掛けていると言う批判もある。
 円安が進み、輸入コストが上がれば、デフレの中で、製品コストを削減できない。物価は上がっても、人件費の抑制を選択しなければならず、本末転倒になる。
③相棒潰し型金融緩和
 金融緩和に日銀を絡ませるのは大きな課題。日銀と政府がぶつかり、長所を出し合うから相棒になる。一方的に押し付けるのは、期待できず、日銀は国債を買い取りする結果となる。
④市場との対話=株価
株価誘導、為替変動は、政策ではない。まさに、口先介入、円安で市場誘導。政策が市場を誘導するものではない。本来、政策が市場に振り回されるものである。実体経済をどう改善するのかが欠落している。
⑤デフレ経済下における懸念されるバブル経済
金余り、ゼロ金利の今日、国内をまわしても、金利は確保できない。新興国国債に投機しても、相変わらず、製品デフレ、賃金デフレ、資産インフレの奇妙な経済になる可能性が高い。
*今回のアベノミックスは、グローバル経済時代が背景にあることが欠落している。ヒト・モノ・カネが国境を越えている。国は国境を越えられない。地球は一つ、国は多数ある。
 これらか恐れるべき二つの恐慌と二つの戦争。
○二つの恐慌
①財政恐慌
 ギリシャポルトガル・スペインなどをみれば、デモにより、暴徒化し、略奪者になり、経済マヒ・公務員の大量解雇・公共事業のストップによる失業者の増大。
 ヨーロッパだけでなく、アメリカにも「財政の壁」もあり、今後、日本にも進む恐れがある。日本国債は今のうちに手放すということになれば、民間経済が恐慌のレスキュー隊になり、本末転倒。現在、工場が海外に移転し、製品をそこから輸出している。
中央銀行の恐慌
通貨の番人である中央銀行国債を支えてよいのか。欧州中央銀行(ECB)の混乱。通貨の価値を下げる結果となっているのが、欧州の状況である。無制限に国債を支えるECB。中国経済の減速により、中国も為替下げに追随。ここまま自国を守るためには鎖国をする以外に方法はないが、それはありえないこと。
○二つの戦争
①通商戦争
 環太平洋パートナーシップいわゆるTPPの導入を検討しているが、これは特定の国同士による貿易にすぎない。囲いは貿易の不自由貿易化。余計にコストがかかるものであり、貿易振興論からどうすべきか考えるべき、TPPは自由貿易協定の一種というのはまやかしであり、「地域限定排他的貿易協定」であり、1930年代の二の舞になる可能性がある。まさに通商ブロックによる戦争といえよう。 
②通貨戦争
 自国通貨の叩き売り政策であり、デフレからの脱却のための為替戦争である。1930年代にも英・仏・米国による通貨戦争が起き、結果として休戦し、通貨協定を締結。
 今、米国は「強いドルがアメリカの国益に値する」というスタンスはなくなり、ドル安の輸出立国を目指している。物価上昇のみならず、失業率を6%までにして、FRBも金融緩和を行い、輸出を5年で倍にするという方針である。
 ここで日本が円安を進めれば、日米間の為替戦争になる。さらに、ユーロ・元があがれば対抗して21世紀版の為替戦争を招く結果になるであろう。
*この二つの戦争が、これからのグローバル経済を動かすことになり、相当今後に関し心配せざる得ない。永遠の暗闇突入する結果になるであろう。
『僕富論から君富論へ』
 これを避けるためには、「国富論(18世紀・Aスミスが提唱)を超えて」の発想が不可欠。『僕富論から君富論へ』に発想の切り替え。海外製品愛用運動。他社製品利用運動。そんなまさかと言う考えに対して
 ・モノはいいよう。情けはヒトのためならず。
 ・歴史の教訓。まさかは必ず起きる。
 君富論の契約履行により、大きな扉が開くはず。これまでの成長を分かち合えないから格差問題、貧困問題がある。誰でも経済活動に参加できない経済であり、財政は後回しになっている。
 現在の自公政権は、インフレにより、財政負担の削減を図れれば良いという浦島太郎型政権である。発想自体がかつての発想になり、時代錯誤もはなはだしい。文化と精神性と経済と考えれば君富論はうまく展開できる。例えば「三方良し」。東日本大震災時の思いやり、絆のように、日本にはヒトを思う土壌がある。
 ドンキホーテの如く、燃え立つ正義感をもち、WTOの基本概念「自由・無差別・互恵」に立ち戻り、相手により態度を変えることなく、無差別化を大事にして、みんなの共存共栄するために、TPPをやめるべきだという勇気を日本が提唱し、WTOに立ちかえるようにすべき。

(質疑応答)
○今回の日銀の対応は
 日銀法改正を警戒しただけであり、4月の人事が大きな鍵。今後、日銀の独立性は不可欠であり、譲れないスタンスを示してほしい。
○デフレ対策は
 3ヶ月でデフレ脱却が間違いである。このままいけばデフレ下のインフレになる。賃金・金利が上がることがデフレ脱却になる。
○債権大国日本とは
 貯蓄規模、対外債権が世界で最大であり、通貨が高いのは当たり前。逆にアメリカは世界の最大債務国である。ドルではなく、円で決済すべき。
WTO
 原則を忠実に行動してきており、日本は今後ともWTOの原則にのり、行動すべき。これらの日本のスタンス次第。


(1月25日生まれの偉人)
◆北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)11月2日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人。本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」・「ちゃっきり節」等)の分野にも傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど、活躍した時代は「白露時代」と呼ばれる近代の日本を代表する詩人である。
 ・北原白秋記念館 http://www.hakushu.or.jp/
◆火野 葦平(ひの あしへい、1907年(明治40年)1月25日 - 1960年(昭和35年)1月24日)は、昭和期の小説家。本名玉井勝則。小倉中学時代から活発に文学活動を行っていたが,大学卒業直前に兵役に服し,除隊後は家業の沖仲仕・組頭を継ぎ,労働運動にも従事した。が,検挙されて転向し,地元の同人誌に参加して文学に復帰。1937年,日中戦争に応召し,出征前に書いた《糞尿譚》の芥川賞受賞を陣中で知る。戦地から送った従軍記《麦と兵隊》が評判を得て,帰還後も〈兵隊作家〉として活躍。戦後,〈戦犯作家〉の烙印を押されたが,自伝的長編の《花と竜》(1952‐53)や《革命前後》(1959)によって文学的力量を発揮した。
◆池波 正太郎(いけなみ しょうたろう、1923年(大正12年)1月25日 - 1990年(平成2年)5月3日)は戦後を代表する時代小説・歴史小説作家。『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、美食家・映画評論家としても著名であった。
 敗戦直後の1945年には10月の帝国劇場で六代目尾上菊五郎の『銀座復興』を見物した。1946年、東京都職員となり下谷区役所に勤務したが、仕事は学生アルバイトとともに各所にDDTを撒布してまわることだった。すでに空襲によって家を失っていたうえに、借家の家主が疎開先から帰ってきたため、役所内に寝泊りして作業に没頭する一方、この年に創設された読売新聞演劇文化賞に向けて、戯曲「雪晴れ」を執筆。同作品は入選第四位となり、新協劇団で上演された。その後も区役所勤務をつづけながら、翌年「南風の吹く窓」で同賞佳作入選を果たした。
 1955年1月、劇作における代表作のひとつ『名寄岩』が上演され、みずから演出をも行った。これによりようやく文筆によって立つ自信を得て都職員を退職。(正太郎は昇進を断り、外回りの職に徹していたが、この当時は目黒税務事務所で税金の集金を行っていた。)翌年には『牧野富太郎』、井上靖原作『風林火山』、『黒雲谷』、『賊将』など、新国劇で作品をつぎつぎと上演する一方、「大衆文芸」誌に定期的に小説を寄せつづけた。初期には現代ものの作品が多かったが、1956年11月・12月号に分載した『恩田木工(真田騒動)』によって、歴史小説・時代小説を執筆活動の中心に据えるようになった。『恩田木工』は翌年、56年下期の直木賞候補となるものの落選。以降劇作と平行して着実に小説の執筆をつづけ、1959年9月には処女作品集『信濃大名記』を光書房から上梓する。この間『眼』(57年上期)、『信濃大名記』(同下期)、『応仁の乱』(58年下期)、『秘図』(59年上期)で計5回直木賞候補となるも、選考委員であった海音寺潮五郎の酷評もあり受賞には至らなかった。私生活では1958年暮れ、出征直前に名古屋で会って以来音信不通になっていた父が正太郎のもとを尋ね、久々の再会を果たした。正太郎は母とともに同居することを勧めたが、聞き入れられることはなかった。1960年、「オール讀物」6月号に発表した『錯乱』によって直木賞(上期)を受賞した。長谷川はわがことのように喜び、正太郎も年少のころからの愛読者であった大佛次郎から賞を手渡された。受賞後数年のうちに『清水一角』『加賀騒動』などの脚本を書くほか、『北海の男』(「オール讀物」60年10月号)、『鬼坊主の女』(「週刊大衆」同年11月7日号)、『卜伝最後の旅』(「別冊小説新潮」61年1月号)、『色』(「オール讀物」同年8月号)、『火消しの殿』(「別冊小説新潮」62年1月号)、『人斬り半次郎』(「アサヒ芸能」同年10月28日号〜64年1月26日号)、『あばた又十郎』(「推理ストリー」63年1月号)、『さむらいの巣』(「文芸朝日」同年6月号)、『幕末新撰組』(「地上」同年1月号〜64年3月号)、『幕末遊撃隊』(「週刊読売」同年8月4日号〜12月29日号)など初期の代表作となる小説を次々と発表し、このうち『色』は『維新の篝火』(1961年)の題名で映画化された。一方で劇作家としては1963年に新国劇のために子母沢寛原作『おとこ鷹』の脚色を行ったのち、しばらく演劇界・新国劇との関係を断ち、小説に専念するようになった。
 四十代に入った正太郎は、『江戸怪盗記』(「週刊新潮」64年1月6日号)、『おせん』(「小説現代」同年7月号)、『堀部安兵衛』(「中国新聞」同年5月14日〜66年5月24日)、『出刃打お玉』(「小説現代」65年3月号)、『同門の宴』(「オール讀物」同年9月号)、『あほうがらす』(「小説新潮」67年7月号)など従来からの歴史小説に加えて江戸の市井に題材を採った時代小説作品を多く手がけるようになったが、なかでも1967年12月の「オール讀物」に発表した『浅草御厩河岸』は読者から高い評価を受け、次号以降断続的にシリーズとして連載が開始された。のちに代表作の一つとなった『鬼平犯科帳』の第一作である。『寛政重修諸家譜』のなかで出会った長谷川平蔵という人物につよい興味を持っていたが、旧知の八代目松本幸四郎をモデルに、世の善悪に通じ、強烈なリーダーシップと情愛を兼備えた平蔵を描出するとともに、火付盗賊改方と盗賊たちの相克を通して「よいことをしながらわるいことをする」人間の矛盾を描き、悪漢小説として読者の広範な支持を受けた。同時期の歴史小説に『さむらい劇場』(「週刊サンケイ」66年8月22日号〜67年7月17日号)、『上泉伊勢守(剣の天地)』(「週刊朝日」67年4月28日号〜6月16日号)、『蝶の戦記』(「信濃毎日新聞」ほか同年4月30日〜68年3月31日)、『近藤勇自書』(「新評」同年10月号〜69年3月号)などが挙げられている。昼に起き夜中に執筆する生活習慣は相変わらずであったが、取材旅行を含めて旺盛に旅行し、映画・観劇鑑賞も盛んに行っていた。『鬼平』連載開始の翌年1968年には担当編集者の求めによって自伝的随筆『青春忘れもの』(「小説新潮」68年1月号〜12月号)を執筆。旧友「井上留吉」という架空の人物を登場させたが、観劇・読書・旅行・食べ歩きを楽しんだ青春時代の思い出を戦前の兜町を舞台として描いたこの作品は読者からつよい支持を受けた。翌1969年にはNETテレビで『鬼平犯科帳』が連続ドラマ化され、さらに1971年には同シリーズ中『狐火』を舞台化。いずれも主演は八代目幸四郎で、特にテレビ版は時代ものの作品として高い評価を受け、以後の評価を不動のものとした。『鬼平』の連載は「オール讀物」誌上にあって依然好調であり、1968年に単行本第一巻が刊行されて後、『兇剣』(69年)、『血闘』(70年)、『狐火』(71年)、『流星』(72年)と年一冊のペースで新作が世に送り出された。江戸の市井を舞台とした作品でも、幡随院長兵衛を描いた『侠客』(「サンケイスポーツ」68年10月28日〜69年9月5日)、忠臣蔵に取材した『編笠十兵衛』(「週刊新潮」69年5月31日号〜70年5月16日号)、大石内蔵助を主人公とした『おれの足音』(「東京新聞」ほか70年3月20日〜46年6月17日)などの作品が発表された。
 1972年には「小説新潮」1月号に「剣客商売」を発表した。京都の古書店で偶然見かけた歌舞伎役者二代目中村又五郎をモデルに、孫のような少女と夫婦になって隠棲する老剣客秋山小兵衛を描き出し、朴訥誠実で世に疎い小兵衛の長男大治郎、田沼意次の娘である女剣客佐々木三冬といった人物を周囲に配して、江戸市井に起こる事件を解決していく同シリーズも人気を博した。同年「小説現代」3月号に『おんなごろし』を発表。同誌6月号には第二作『殺しの四人』が掲載され、この作品は年末に小説現代読者賞を受賞。仕掛人という言葉は流行語となり、朝日放送で『必殺仕掛人』として連続ドラマ化された。翌1973年には『鬼平犯科帳』を「オール讀物」1月号〜12月号に、『剣客商売』を「小説新潮」1月号〜12月号に、『必殺仕掛人』を『小説現代』2、7、9、10月号に同時並行で連載した。その一方で『雲霧仁左衛門』(「週刊新潮」72年8月26日号〜74年4月4日号)、『剣の天地』(「東京タイムズ」ほか73年5月15日〜74年3月30日)といった小説作品や、随筆『食事の情景』(「週刊朝日」72年1月7日号〜73年7月27日号)なども執筆された。また、73年には「池波正太郎自選傑作集」全五巻を立風書房から刊行。仕掛人ものの『春雪仕掛針』がふたたび小説現代読者賞を受賞し、四月から『剣客商売』がテレビドラマ化、『必殺仕掛人』は映画化された。1974年、「週刊朝日」誌上の『真田太平記』(1月4日号〜80年12月15日号)が加わり、翌1975年には小説の発表が「鬼平」「剣客」「梅安」「真田」の四種のみとなった。74年にはこのほか『男振』(「太陽」7月号〜77年9月号)の執筆もはじまり、2月には『必殺仕掛人』が映画化、11月には『秋風三国峠』が新国劇で上演され、75年には『梅安最合傘』で三たび小説現代読者賞受賞。劇作においても、新国劇のほかに、歌舞伎にも脚本を提供するようになり、1975年には原作、脚本両方を含め、『出刃打お玉』(2月歌舞伎座)、『剣客商売』(6月帝国劇場)、『必殺仕掛人』(9月明治座)『手越の平八』(11月明治座)の五つの舞台に係わり、翌1976年にはさらに『黒雲峠』(4月)、『江戸女草紙・出刃打お玉』(5月)、『侠客幡随院長兵衛』(10月)を上演。一連の舞台のなかで1975年の『出刃打お玉』『剣客商売』などで中村又五郎とともに仕事をし、親交を深めたが、1976年より翌年にかけて『又五郎の春秋』(「中央公論」7月号〜77年6月号)を連載した。同年にはこのほか『散歩のとき何か食べたくなって』(「太陽」1月号〜77年6月号)、『おとこの秘図』(「週刊新潮」1月号〜77年5月12日号)および三大シリーズの諸篇を発表。1977年にはさらに新連載『忍びの旗』(「読売新聞」夕刊11月26日〜78年8月22日)がはじまった。同年、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」を中心とした作家活動によって、第11回吉川英治文学賞受賞。『市松小僧の女』(2月)、『真田太平記』(11月)が舞台化され、NHK「この人と語ろう」に出演し、映画『トップ・ハット』の曲『ピコリーノ』の演奏をリクエストした。またこの年の初夏、初めてフランスを中心とするヨーロッパに旅行した。
 1978年、「鬼平」「剣客」のほか、『旅路』(「サンケイ新聞」5月13日〜79年5月7日)の連載を開始する一方、『あいびきの女』(2月歌舞伎座)、『狐火』(11月明治座)で脚本と演出を担当。また前年の『市松小僧の女』が高い評価を受け、第3回大谷竹次郎賞を受賞。7月には『雲霧仁左衛門』が映画化された。この年、「池波正太郎短篇小説全集」全10巻・別1巻が立風書房より刊行された。翌1979年には三大シリーズの執筆に専念し、以前からの連載のほかは、『日曜日の万年筆』(「毎日新聞」2月4日〜80年1月27日)、『よい匂いのする一夜』(「太陽」7月号〜81年5月号)のエッセイ二作が発表されたのみであった。この年の秋にはふたたびヨーロッパに旅行したが、1980年、初夏には三たびヨーロッパへ。この年も「鬼平」「剣客」のほか『味の歳時記』(「芸術新潮」1月号〜12月号)を連載した。なお同年には『真田太平記』が完結。82年までにすべてが単行本化した。1981年、『黒白』(「週刊新潮」4月23日号〜82年11月4日号)を発表。さらにエッセイ『むかしの味』(「小説新潮」1月号〜82年12月号)の連載のほか、書き下ろしとして『男の作法』(ごま書房)、『田園の微風』(講談社)を上梓した。このころよりヨーロッパ旅行を基としたエッセイも多数発表され、1982年にはフランスを舞台とした小説『ドンレミイの雨』(「小説新潮」9月号)を発表した。また同年には『新潮45+』に「新潮45+封切館」の連載(5月号〜83年4月号)を持った。初夏には四たびヨーロッパ旅行に赴いた。1983年、『鬼平』『剣客』『梅安』に加え、『雲ながれゆく』(「週刊文春」1月6日号〜8月18・25日合併号)、『食卓のつぶやき』(「週刊朝日」10月14日号〜84年7月20日号)を発表した。
 「鬼平」「剣客」「梅安」を平行して連載。さらに『秘密』(「週刊文春」2月6日号〜9月11日号)を執筆し、3月の新国劇公演で自作の『黒雲峠』と長谷川伸の原作をもとに脚色した『夜もすがら検校』の演出として参加。1987年、三大シリーズを「剣客」一本にしぼり、「波」に『原っぱ』を連載した(1月号〜88年2月号)。同年1月、西武百貨店池袋本店にて「池波正太郎展」開催。1988年、この年はまとまった仕事(以前からの連載を除いて)として『江戸切絵図散歩』(「小説新潮」1月号〜12月号)のみにとどめ、5月にフランス、9月にドイツ、フランス、イタリアへ旅行した。七度目となる9月の旅行が最後の海外旅行となった。この年12月、「大衆文学の真髄である新しいヒーローを創出し、現代の男の生き方を時代小説の中に活写、読者の圧倒的支持を得た」として第36回菊池寛賞受賞。
 1990年、二代目中村吉右衛門主演のテレビドラマ『鬼平犯科帳』が好評を博し、2月には同優主演の『狐火』が歌舞伎座で上演されるが、正太郎の体調は依然芳しくなかった。3月、急性白血病三井記念病院に緊急入院、5月3日に同病院にて逝去。67歳であった。連載中の『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』と『鬼平犯科帳 誘拐』は同年4月号分で未完中絶となった。5月6日、千日谷会堂にて葬儀及び告別式。山口瞳が弔辞を読んだ。1998年11月、長野県上田市に「池波正太郎真田太平記館」が開館した。
◆石ノ森 章太郎(いしのもり しょうたろう、1938年〈昭和13年〉1月25日 - 1998年〈平成10年〉1月28日)は、日本の漫画家、特撮作品原作者。本名、小野寺章太郎(おのでら しょうたろう)。1984年までは石森 章太郎の表記を用いたが、この時期には「いしもり〜」と呼ばれるのが通例だった。
 代表作は『サイボーグ009』、『ロボット刑事』、『さるとびエッちゃん』、『マンガ日本経済入門』、『HOTEL』など。仮面ライダーシリーズを始め特撮作品の原作者としても活躍。SF漫画から学習漫画まで幅広い分野で作品を量産し「漫画の王様」、「漫画の帝王」と評された。1989年、漫画には「面白い、おかしい」だけではない多数の表現が可能になったとして、漫画の新しい呼び名「萬画」を提唱し「萬画宣言」を発表。以降は自らの職業を「漫画家」ではなく「萬画家」と称した。没後の2007年末には、500巻770作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集』(角川書店)が、一人の著者による最も多い漫画の出版の記録としてギネス・ワールド・レコーズに認定されている。なお、テレビ原作者(アニメ、実写)としてのクレジットは放映期間のべ六十数年分に及び、野村胡堂長谷川町子らを凌駕して国内最高である。手塚治虫の衣鉢を継ぐSFマンガの第一人者であったが、熱心なSFの読者としても知られ、海外SF小説から作品のヒントを得ていたことも指摘されている。
・石ノ森 章太郎ふるさと記念館 http://www.city.tome.miyagi.jp/kinenkan/
・石ノ森萬画館 http://www.man-bow.com/manga/