経営者心得『使用・任用・信用』とはどういうことか   連続200日達成おめでとう。

 江戸初期の天才官僚・松平信綱は「天下の仕置(しおき/統治・管理・処罰)は重箱を摺子木(すりこぎ)にて洗ふ様なるべしと。摺子木にては隅々までは洗へず、隅々まで能(よ)く為さんと思へば悪(あ)しゝと」述べたと言われていますが、やはり組織というのは上が枝葉末節にまで関与するとなると、却って治まり難くなるものです。昔から人の使い方として、「使用(単に使うこと)」「任用(任せて用いること)」「信用(信じて任せて用いること)」とあるわけで、任せて用いた以上ぐちゃぐちゃと言うべきではありませんし、信じて任せて用いた以上なおさら細かいことを言うべきではありません。
そして任せて用いた後は、任せた結果を見てどう判断するかということ、つまり「人を見損なったなぁ」と思うのか「良い人を選んだなぁ」と思うのかという話であって結局は自分の選択の眼の問題だと言えるでしょう。安岡正篤先生も「リーダーとなるべき者が読んで実行すべきものとして」佐藤一斎の『重職心得箇条』(文末参照)を提示されているように、上には上の役目というものがあるわけです。
では、如何なる仕事を経営者や役員等の重職がせねばならないかと言うと、例えば企業で言えば、「これから10年・20年、如何なる舵取りをして行くのか」とか「此の激変する世の中でどのように生き残って行くのか」といったこと、あるいは「自分が営んでいる業を如何にして変化に対応させて行くのか」といった戦略を練って行くということです。細かなことを部下に任せられない場合、トップはそうした大きな戦略を描く時間がなくなることになります。自分の本来の職責を限られた時間内に効率的に如何に果たすかという観点からも任せて用いるということが、非常に大事なポイントなのだと思います。

≪重職心得箇条―要約≫
一、小事に区々たらず、大事に抜目なし。重職の重たる字は肝要なり。
二、大度を以て寛容せよ。己に意あるもさしたる害無き時は他の意を用うべし。
三、祖先の法は重宝するも、慣習は時世によって変易して可なり。
四、自案無しに先例より入るは当今の通病なり。ただし先例も時宜に叶えば可なり。
五、機に従がうべし。
六、活眼にて視るべし。物事の内に入りては澄み見えず。
七、苛察は威厳ならず。人情を知るべし。
八、度量の大たること肝要なり。人を任用できぬが故に多事となる。
九、刑賞与奪の権は大事の儀なりて軽々しくせぬ事。
十、大小軽重の弁を失うべからず。時宜を知るべし。
十一、人を容るる気象と物を蓄る器量こそが大臣の体なり。
十二、貫徹すべき事と転化すべき事の視察あるべし。これ無くば我意の弊を免れ難し。
十三、信義の事、よくよく吟味あるべし。
十四、自然の顕れたるままにせよ。手数を省く事肝要なり。
十五、風儀は上より起こるものにして上下の風は一なり。
十六、打ち出してよきを隠すは悪し。物事を隠す風儀とならん。
十七、人君の初政は春の如し。人心新たに歓を発すべし。財務窮すも厳のみにては不可なり。

(4月18日生まれの偉人)
◆白石 正一郎(しらいし しょういちろう、文化9年3月7日(1812年4月18日)- 明治13年1880年)8月31日)は、日本の商人(豪商)。名は資風。通称は駒吉。または熊之助。米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であった。鈴木重胤から国学を学び、重胤の門下生を通じ西郷隆盛が正一郎を訪ね親しくなり、文久元年(1861年)には薩摩藩の御用達となった。月照上人、平野国臣真木保臣らと親しかった経緯から尊皇攘夷の志に強い影響を受けて、長州藩高杉晋作久坂玄瑞らを資金面で援助した。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。

文久3年(1863年)6月7日、高杉晋作奇兵隊結成にも援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊。正一郎は奇兵隊の会計方を務め、7月には士分に取り立てられた。しかし、あまりに援助しすぎたため、慶応元年(1865年)末頃から資金が苦しくなったと言われている。

明治維新後は、赤間神宮の2代宮司となった。明治13年1880年)、69歳で死去。赤間神宮の背後の紅石山に奥都城が建てられ、隣には真木保臣の次男・真木菊四郎の墓が並ぶ。

西郷隆盛をして「温和で清廉、実直な人物である」と言わしめた正一郎は、新時代を築き上げる人材を経済面で助け上げたスポンサー的存在であった。
◆五島 慶太(ごとう けいた、1882年(明治15年)4月18日 - 1959年(昭和34年)8月14日)は日本の実業家。東京急行電鉄東急電鉄)の事実上の創業者。正三位勲一等。旧姓は小林。
東京帝国大学卒業後、官僚を9年勤めた後に現在の東急東横線の前身である武蔵電気鉄道常務に就任。実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道玉川電気鉄道を始めとする数々の競合企業を乗っ取る形で次々と買収。その強引な手口から「強盗慶太」の異名をとった。ただし、鉄道事業では優れた経営を行い、阪急電鉄小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と賞された。
 企業を創った明治期を中心とするする創業者・経営者は、功なり名を成した後に、美術品の収集に走り、結果として美術館という形で残っているケースが多い。田園都市線上野毛にある五島美術館は、東急電鉄の総帥・五島慶太のつくった美術館。そして8千坪の見事な庭もある。

<本の紹介>
言志四録(1) 言志録 (講談社学術文庫 274)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061582747/hatena-ud-22/ref=nosim
佐藤一斎「人の上に立つ人」の勉強 (知的生きかた文庫)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4837978851/hatena-ud-22/ref=nosim
佐藤一斎「人の上に立つ人」の勉強―45分で読める『言志四録』+『重職心得箇条』
              http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4837919529/hatena-ud-22/ref=nosim
佐藤一斎『重職心得箇条』を読むhttp://d.hatena.ne.jp/asin/4884743601



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