叔父の葬儀に参列。

 母親を連れて叔父の葬儀に参加。午前中からあり、母親も疲れたようである。自分自身には、子供の頃世話になったこともあり、なんとなく悲しい思いがした。だいぶ長時間にわたるものであり、だいぶ母親は疲れたみたいである。

 夕方5時から、種を蒔くために、土を掘り起こしを行う。
(5月4日生まれの偉人)
◆芹沢 光治良(せりざわ こうじろう、1896年(明治29年)5月4日 - 1993年(平成5年)3月23日)は日本の小説家。静岡県沼津市名誉市民。現在日本ではあまり知られていない作家であるが、海外ではフランスを中心としてヨーロッパで評価が高く、代表作『巴里に死す』、『人間の運命』や『神の微笑』はノーベル文学賞候補に挙げられた。また自身もノーベル文学賞の選考委員を務めたこともある。 晩年には「神シリーズ」と呼ばれる、神を題材にした一連の作品で独特な神秘的世界を描いた。
◆森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。森繁久弥とも表記される。
 4年前の12月1日に世田谷文学館で、第11回世田谷フィルムフェスティバル「名優・森繁久彌」が開催され、展示をみる。「世田谷区船橋に在住」とパンフにあるが、この特集を始めた頃はまだ存命だったということである。「この度、ボクの古い映画を上映して下さるとのこと、少し照れくさいが、わたしの仲間だった久世光彦さんの展覧会も開催されると伺い大変うれしく、世田谷文学館には感謝申し上げたい。また先般は、マスコミで皆さんに多大なご心配をおかけしましたが、私自身はおだやかに秋をむかえております。」という挨拶文があり、最晩年の名優が正装して写っている。
 国民作家という言葉があり、その栄誉を受けているのは、吉川英治司馬遼太郎くらいであるが、国民俳優という言葉があるとすれば、それは森繁久彌しかいないだろう。1950年代後半から60年代を通じて、映画での社長シリーズ、駅前シリーズ「森繁もの」の人気はすさまじく、55年の18本を頂点として、毎年10本以上の映画に主演している。また、64年の「七人の孫」以来、70年代に入ると、森繁久彌はテレビの人となった。そして、まさに全国民が敬愛する俳優になった。森繁久彌の映画デビューは意外に遅く、37歳のときに「腰抜け二刀流」(並木鏡太郎監督)で初主演をする。早稲田大学を中退した痕、NHKアナウンサーとなって満州の新京(長春)に勤務し、33歳で帰国し役者を目指すが、なかなか芽が出なかった。1936年以来、300本を越える映画に出演。
舞台では、「屋根の上のバイオリン弾き」は、900回の公演。文化勲章受章時の歌「わが胸に あつくもおもく たちばなの きときわ 薫る 人ひとの愛」
 森繁久彌は、パチンコのリズムに芸風のヒントを得ている。「リズミカルな動きと感情の推移」「次にどう出るかわからぬという未来を予測し得ない演技」。サラリしつこくなく点描して行くという二枚目半の芸風を開拓した。喜劇俳優から、実力俳優へ、そして押しも押されもせぬ、大スターへのぼっていく。この道程も興味深い。
 この人ほど、賞をもらっている人もいないのではないだろうか。
 43歳。ブルーリボン賞毎日映画コンクール主演男優賞
 45歳。NHK和田賞。
 51歳。紺綬褒章
 52歳。NHK放送文化賞
 62歳。菊池?賞。紫綬褒章
 63歳。ゴールデンアロー賞
 64歳。紀伊国屋演劇特別賞。毎日芸術賞菊田一夫演劇大賞。
 65歳。芸術選奨文部大臣賞。
 68歳。創作集団文芸賞
 70歳。東京都民栄誉文化賞。日本アカデミー特別賞。
 71歳。文化功労者
 74歳。勲二等叙勲。
 78歳。文化勲章
 79歳。日本アカデミー賞栄誉賞。
 83歳。日本映画批評家大賞
 この人はただの俳優ではなく、極めつけの文化人だった44歳で処女作を発表以来、主要著書は54冊にのぼっている。そのうち、63歳以降の著書が43冊と多い。「森繁久彌語り・久世光彦文」という「大遺言書」「さらば!大遺言書」を読んだ。森繁久彌のつぶやきが聞こえる名著である。「大遺言書」シリーズ(語り森繁久彌文久世光彦)を読むという贅沢不思議な書である。森繁久彌が「語り」、久世光彦が「文」を書いたという形の本である。インタビューでもなければ、共著でもない。確かに久世光彦の文章なのだが、この二人の位置関係は、表紙や奥付で久世光彦の名前がほんの少しだけ下がっているところに現れているとも見える。この微妙な配慮がいい。「大遺言書」「今さらながら 大遺言書」「「さらば 大遺言書」という連作をここ二日間で読み切った。
 「週刊新潮」で2002年5月2日・9日号から始まった「大遺言書」の連載は、2006年3月まで続いた。卒寿を越えた森繁と、二まわりほど若い久世のどちらかが亡くなるまで続けるという約束だったが、2006年3月2日の久世光彦の逝去によりこの人気連載も終了している。そして、その森繁久彌も、今年2009年11月10日に96歳で大往生を遂げる。森繁の自宅に久世が伺い、健啖家の森繁の相手を務めながら、森繁久彌という大いなる人物の回想を聞き出していう。そしてその時の様子や感じたこと、思い出したこと、そして森繁久彌という人物の陰影などが生涯の師匠と仰ぐ久世光彦の名文で記されていく。久世の慨嘆、感銘、感想、感慨などもいい。これは、晩年の生き様を描いた書でもあり、人生の書でもある。読者は、森繁久彌という国民的俳優の目を通して、歴史と人間を深く味わうことができる。毎週原稿用紙7.5枚を4年近く書き続けたことになるが、互いの生涯を賭けた対話であったという印象を持った。書いた久世にとっても、書かれた森繁にとっても至福の時間だったと思う。森繁久彌という俳優は、俳優としての実力は群を抜いているが、その土台は豊かな教養に裏打ちされていると思わずにはいられない。鋭い批評眼、本質をとらえる矢のような言葉などを読むと、優れた文化人であったという思いを強くする。若い頃の森繁久彌は、やや軽い顔をしているが、だんだん顔が良くなって、晩年になるほど「いい顔」になっている。俳優という職業に命を懸けて少しづつ内容が磨かれていったということなのだろうか。このごろの文芸作品にリズムと品格がないのは、作家に漢学あるいは漢詩の素養がないからだと森繁さんは言う。長生きするということは、人と一人また一人と、別れてゆくことです。、、、この年になると、悲しいというのと違う。−−辛い私にしてみれば、どの人も夭折です。いつだって、人の世の主役は人間ではなく、歳月です。人と人との間は、どんな親しい仲でも、薄氷を踏んでいるようなものです。(今日もインタビューは歌で終わる。)女優の華と人生とは、反比例の関係にあるんでしょうかねえ。因果なことです。役者というものは、長火鉢一つで、人生をすべて表現しなければならないと言っても、言い過ぎではありません。映画や芝居を見て学ぶということは、まあ、ありません。実際の人生の方が、はるかに可笑しいし、切ない。味に贅沢なこの国に生まれて幸福でした。勝(新太郎)は私との二時間ばかりの放談の場を、一つの「芸」の場にしようとしているんです。あのときの「殺気」を思い出すと、今でも鳥肌が立ちます。芝居の仕事は、私の「真剣な遊び」です。懸命に働きはしましたが、やっぱり運です。正直言うと、私は自分の映画のほとんどを、恥ずかしいから見ていないのです。(森繁さんは夜が更けて眠たくなるころになると、天眼鏡で「広辞苑」を眺めているのだというのだ。)三割隠すところにこそ、「芝居」の真実はあるのです。私は「小学唱歌」は、西欧の国で言えば「賛美歌」だと思います。「小学唱歌」や「文部省唱歌」には、いまとやかく言われている「歴史観」や「国家観」や「国の心」とかいうものが、全て柔らかで優しい形で含まれています。向田邦子松山英太郎樹木希林など森繁久彌が愛した才能などの話も興味深い。
◆田中 角榮(たなか かくえい、1918年(大正7年)5月4日 - 1993年(平成5年)12月16日)は、日本の政治家。建築士衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)などを歴任した。
 田中角栄首相は、1972年に54歳で政権をとった時、後藤田官房副長官に「小学校の教師の給料を10倍にする案をすぐに作れ」と指示第一号を出した。 相沢英之大蔵省主計局長には、「学校教育で一番大切なのは大学でなく義務教育だよ。小中学校にいい先生を集める。それには月給を高くしなければならない。一般公務員よりも3割高くしろ」と厳命し、年1割づつの3か年計画で実施している。確かに県にも一般公務員の給与表と教育公務員の給与表があり、教育公務員の方が高かったのはその影響だろうか。「小学校の先生が白紙の子どもを教えるのだからな」と日頃も語っていた。