今日で連休も終わり。社会人として最後のゴールデンウィーク?

 来年定年を迎える自分にとっては社会人としての最後のゴールデンウィークになるのだろうか。明日から再び仕事。頑張って行こう。
 今からどうするのかのがこれからのポイント。まず、勉強を明日から本格的にしよう。

(5月6日生まれの偉人)
◆鳩山 和夫(はとやま かずお、1856年5月6日〈安政3年4月3日〉 - 1911年〈明治44年〉10月3日)は、江戸時代末期の武士・美作勝山藩士明治維新後は政治家、代言人(弁護士)。外務次官、衆議院議長を歴任し、教育でも専修学校(のち専修大学)の設立に大きく貢献をした功労者である。また、東京専門学校(のち早稲田大学)の校長なども務めた。長男は鳩山一郎、次男は鳩山秀夫。鳩山威一郎は孫。鳩山由紀夫鳩山邦夫は曾孫に当たる。
◆上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和7年(1932年)2月9日)は、日本の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。山本、濱口雄幸内閣で大蔵大臣に就任。貴族院議員。
◆野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ(のがみ やゑ)、旧姓小手川、1885年(明治18年)5月6日 - 1985年(昭和60年)3月30日) は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ。
 味噌、醤油業を営む臼杵の小手川酒造に生まれ作文が上手だった弥生子は15歳で上京し明治女学校に入学。卒業と同時に同郷の野上豊一郎と結婚する。野上は東大の学生で、弥生子の家庭教師だった。野上豊一郎は、能楽研究者,英文学者。夏目漱石(そうせき)に師事。大正9年法大教授,昭和22年総長。イギリス演劇,ギリシャ古典劇から能の研究にすすみ,国の内外で能の普及,紹介につとめた。昭和25年2月23日死去。66歳。大分県出身。東京帝大卒。号は臼川(きゆうせん)。著作に「能―研究と発見」「能の再生」などがある。この結婚が作家、野上弥生子誕生の契機となった。二つ上の豊一郎は東京帝大文学部英文学科を卒業しており、同級生の安倍能成岩波茂雄とともに、夏目漱石に師事していた。後に法政大学総長に就任するが、能楽の研究家として名高い。弥生子は漱石の  会に出る夫を通じて夏目漱石の指導を受ける機会に恵まれる。
野上弥生子とその時代」(狩野美智子)によれば、漱石は、訪ねてくる人の多さに音をあげて、毎週木曜日を面会日として、他の日は面会謝絶としていた。漱石の弟子達には、寺田寅彦安部能成小宮豊隆森田草平高浜虚子鈴木三重吉らがいた。
 22歳で処女作「明暗」を漱石に見せ、漱石から批判の長い懇切な手紙をもらった。その批判を、終生忠実に守っている。次に「縁」を書きそれが漱石の紹介で「ホトギス」に載ることになり作家への道を歩むことになる。漱石から褒められることに最高の名誉と満足を感じた。
だからどうしても書きたいものしか書かないと決心する。生涯に数度しか会ってはいないが、弥生子の生涯の師は漱石だった。野上弥生子の先生は、夏目漱石だった。「先生からこれでよいといわれることが最上の名誉であり、満足であった」そして弥生子は70年近く小説を書き続ける。デビュー作「海神丸」、20年かかって「迷路」(詳しく!)をようやく完成し読売文学賞を受賞。「左翼運動に身を投じて転向した良家の息子菅野省三を主人公に、出身の異なる友人たちを配して、日本ファシズムの時代を苦渋にみちて生きた青年像を描きつつ、時代を動かした支配層の生活と思想をも作者の筆は精緻にとらえる。昭和10年から敗戦直前までの社会を重層的に描くことに成功した骨太い大長篇小説」そして生涯の傑作「秀吉と利休」などを書いたが、この傑作は77歳から連載を開始し翌々年に女流文学賞を受ける。「勢威並ぶものなき天下の覇王秀吉と、自在な境地を閑寂な茶事のなかに現出した美の創造者利休。愛憎相半ばする深い交わりの果てに宿命的破局を迎える峻烈な人間関係を、綿密重厚な筆で描き切る、絢爛たる巨篇。」
 86歳で文化勲章。96歳で朝日賞。昭和55年度の朝日賞の受賞理由は「70余年という世界にも類例のない長期の現役作家活動を続け、、」だった。弥生子は生涯にさまざの賞をもらっているが、もっとも喜んでいたのはこの朝日賞だった。受賞理由の故だろう。99歳で逝去。弥生子は勉強できる環境(家族関係、時間、場所)を粘り強く構築していった、女中を訓練して家事をとどこおりなく進行させたり、子供にも自分のことは自分でやらせるように教育した。女中を二人雇って家の中の仕事を進行させる。そして妊娠と出産の繰り返しのなかでたゆまず小説を書き続けた。辛抱強い性格であった。
 弥生子の執筆のペースは、一日に二百字原稿用紙2,3枚。多くて5,6枚であった。「この頃、ジイドの女の学校と未完の告白をよみつづけてよみ終る。やっぱり叶わないかんじ、、。とにかく、かうしたものを読むとどんな困難を犯しても第一義的な仕事から遠かってはならないといふ勇猛心がふるひ起こされる。」(51歳)
「高い目標をおいて書かなければならぬ、といふことを今更に感じる」(61歳)「かうして見ると、頭脳的な仕事はなんと辛いものかとつくづくおもはれる。」(63歳)
「現在もっている最上の力より以下の仕事をしてはならない、とするリルケの言葉は私たちも死ぬまで忘れてはならないものであろう。」
「日本でも画家は七十八十でなほ本格的な仕事をすてないのに、文学者には一人もないなら、私がその一人になって見ようか。」(70歳)
 この作家の勉強ぶりは、外国語にも及んでいる。74歳でも、英会話を欠かさず聞いている。79歳から、フランス語とドイツ語も始めた。81歳では、スペイン語まで聞き始めた。驚くべき勉強ぶりである。
 弥生子の収入は晩年ほど多くなった。ロングセラー作家なので、晩年になるほど収入が増えた。文化勲章の年金以外に年収は1000万円になっていた。九十歳を過ぎても周りに住む3人の大学教授の息子達よりも多く、一家のなかでいちばん高収入だった。成城に一人住む弥生子のまわりには、3人の息子が取り囲んでいた。家の建築費用、家族の会食費、嫁や孫たちへの小遣いやプレゼントなどに金を十分に使っている。「それがみな好ましい性格と、それぞれに立派な研究的な仕事を持っているこんな息子たちを、家の周りにもって暮らすたのしさをこの瞬間つよくおもった」という日記の記録もある。
<昭和21−30年の日記を読む>。
「書くまでは思いもつかなかった事が、書くあいだに順々に出て来て、こんな片々たるものでもよい思ひつきであったと自分で考へられる考へや表現がある。それでこそ執筆は怠ってはならない。書かなければ、現はれるものも、現はれないで終るのだから。」
「高い目標をおいて書かねばならぬ、といふことを今更ながらに感じる。私も63だ。、、、今の時間と独居の静寂を利用しなければならぬ」
「まへの依るまでは思ひつきもしなかった事が、アタマの中に浮きあがって来る不思議さ。このたのしみがなければ、書くことは苦痛のみにならう。」
(「野上弥生子日記」を読む 戦後編 「迷路」完成まで(稲垣信子))
教養。
「最も素朴な考え方をすれば、知識が単に知識として遊離しないで総合的な調和ある形で人間と生活の中に結びつくことだといってよいだろうと思います」
「もう少しくわしくいいなおして、人々がよい教養をもつということはその専攻した知識を、もしくばさまざまな人生経験を基礎としてひろい世界についても周りの社会に対しても正しい認識をもつとともに、つねに新鮮で進歩的な文化意識に生きることだというところまでその円周を押しひろげたく思います。」
・信条らしきものを無理にあげて見よ、といわれるなら、一つだけは答えることができる。「汝自らを知れ。」「私は今日は昨日より、明日は今日よりより善く生き、より善く成長することに寿命の最後の瞬間まで務めよう。」代表作「秀吉と利休」を書いたときの様子。弥生子74歳から78歳にかけての労作。
 唐木順三郎の「千利休」の抜き書き。この時代に詳しい人に会って話を聞く、茶道については表千家の千宗佐に聞く。能についても時々謡いの稽古に来てもらっている宝生弥一に確かめる。小田原や今京都に実地見学。堺と京都の聚楽第まで淀川を使って交通状況を調べる。出入りの大工に高い建築物を構築するときの足場について聞く。できるかぎりの準備をしている。「時代物はもとよりフィクションになりますが、その基礎はリアリティで築きあげなければなりませんし、またそれによって描きあげたフィクションがもっとリアルなものになるのが本塔統の行き方かと存じます」「何を書いても眼高手低の悲しみをかんずる。」
「一葉のみが明治大正を通じて唯一の女流作家といふわけではないとおもふ。私などでも、一葉よりは或る意味に於てずっとよい仕事をしているつもりなり。」
 野上弥生子の日記は、38才から死の十七日前まで、実に62年分が、ほとんど毎日あり、119冊のノートに記されている。
「一日のことは、その日だけに生じ、感じ、出逢ふもので、一生にもう一度といふことのないものだけ、どんな無為で変化のない日でも、その人にとっては大切なものと知っていながらこの怠りを繰り返すのは残念である」「一日怠ればその日はただ水の泡として消え」ると言っている。(「人間・野上弥生子」(中村智子))
 後に編集者とその夫人が原稿用紙に浄書したところ、二百字詰めで3万8千枚に達した。これは、300枚の本としてみると、実に63冊分に相当する。
 初恋の人、中勘助のことも日記に出てくる。
 弥生子は豊一郎と同級生だった中勘助に恋をする。子どももいる弥生子は好きなっている。中は中年の写真をみてもりりしくすっきりした美貌だった。このことは、本人たちと豊一郎、そして友人の安部能成の四人の秘密だった。
 中勘助は、明治18年5月22日生まれ。大正2年夏目漱石の推薦で幼少年期をえがいた小説「銀の匙(さじ)」を「東京朝日新聞」に連載し、みとめられる。時流にとらわれず、文壇とは一線を画し、生涯孤高をたもった。昭和40年5月3日死去。79歳。東京出身。東京帝大卒。作品に「提婆達多(でーばだった)」「街路樹」「鳥の物語」,詩集に「飛鳥」などがある。
 弥生子50歳の時の日記にはこの間の事情と心境が記されている。
 初恋の日々から四十余年を経た対面の日、二人とも65歳になっていた。
「人間は決して本質的には年をとるものではない気がする。九十の女でも恋は忘れないものではないであろうか。私のこの秘密を知らなければ、私をほんとうに解する事は出来ない。」
「そのあひだの私たちの話は普通の客と主人の話しあふことに過ぎないが、それでもその底にこもる調子に秘めたものは彼と私だけに分かることである。二人の接触をこれ以上にしないことが大切である。」
 哲学者、田辺元(同年生まれ)との老いらくの恋の記述もある。
 田辺は、明治18年2月3日生まれ。昭和2年京都帝大教授。自然科学の哲学的研究から出発し、「絶対弁証法」をとなえ、「種の論理」で西田幾多郎を批判。西田とともに京都学派の双璧となる。戦後は「懺悔道としての哲学」をあらわして自己批判をし、親鸞の他力に共感する立場から著作活動をつづけた。25年文化勲章。昭和37年4月29日死去。77歳。東京出身。東京帝大卒。著作に「ヘーゲル哲学と弁証法」「哲学入門」などがある。
68歳の日記には、ある特定の対象とこれほど深い知的な、また愛情をもっての繋がりが出来ることを夢にも考へたらうか。」とある。
 北軽井沢の山荘を、晩年には「鬼女山房」と称した。訪れた軽井沢町の軽井沢高原文庫には、春から秋にかけて過ごしていた北軽井沢の山荘の小さな離れ(書斎兼茶室)が移築されていた。野上弥生子の執筆風景を想像させる。まさに鬼気迫る仕事ぶりであった。
 臼杵野上弥生子文学記念館には、大江健三郎の原稿が掲示してあった。「本当に知的な生き方ーー野上弥生子とこの百年」という文章の中で、芥川の言動に対して「、、、文人なら貧乏をするのはむしろ当然だ。、、、それが厭なら菊池さ(寛)さんのやうに勇敢にやっていくまでだ、、、」(文藝春秋、昭和6年)と言い切っている。瀬戸内寂聴日経新聞の人気連載「奇縁まんだら」(10.05.09)では、宇野千代が亡くなる前に、「私の畏れ仰ぎ見る人は、天皇陛下と野上先生お二人です」と語ったとある。
◆井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 - 1991年(平成3年)1月29日)は、日本の小説家。文化功労者文化勲章受章。
 小説は現代を舞台とするもの(『猟銃』、『闘牛』、『氷壁』他)、自伝的色彩の強いもの(後述。『あすなろ物語』、『しろばんば』他)に加え、歴史に取材したものに大別される。歴史小説は、日本で特に戦国時代(『風林火山』、『真田軍記』、『淀どの日記』他)、中国ではとりわけ西域を題材にした(『敦煌』、『楼蘭』、『天平の甍』他)ものを多く描いた。巧みな構成と詩情豊かな作風は今日でも広く愛され、映画・ドラマ・舞台化の動きも絶えない。歴史作品を中心に各国語に翻訳され、日本ペンクラブ会長時代にはしばしばノーベル文学賞の候補とされた。読売新聞は2012年3月にノーベル委員会のペール・ベストベリー委員長に取材し、「井上靖が、非常に真剣に討論されていた」といったコメントを得たことを報じた。『しろばんば』、『夏草冬涛』、『北の海』は、井上靖自身がモデルの主人公・伊上洪作の、幼少から青年になるまでの自伝的な作品である。『しろばんば』は静岡県伊豆湯ヶ島(現伊豆市湯ヶ島)で過ごした幼少時代の、『夏草冬涛』は旧制沼津中学校の生徒だった頃の、『北の海』は沼津中学卒業後の沼津での浪人生活の1年近くの日々を描いたもので、その日常、あるいは旧制第四高等学校の練習に誘われ、寝技主体の柔道、いわゆる高専柔道に明け暮れる洪作が生き生きと描かれている。井上靖の周囲に実在した人物がモデルとして多く登場し、特に『しろばんば』中に登場する、曽祖父の妾で洪作とは血の繋がらない「おぬいばあさん」(実在の名は「おかの」)との生活は、井上靖の人格形成を語る上で欠かせないものである。その他、老いの境地に入った実母・八重について書いた靖晩年の短編三部作として『花の下』、『月光』、『雪の面』がある。
 7年前に旭川自衛隊駐屯地に程近い場所に立つ井上靖記念館を見学した。井上靖は「敦煌」「孔子」などを書いたすぐれた小説家。旭川は生まれた土地ということだけだが、母から聞かされた言葉でイメージを膨らませたという。四高から九大法文学部に入学後、登校意欲をなくし東京で生活。そして京大文学部に再入学、毎日新聞入社。それから芥川賞受賞後、本格的に作家へ。


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