大人のレストランガイド「何度でも足を運びたくなる青森の店」

青森県観光国際戦略局が青森の魅力をネットを通じて発信するブログ「まるごと青森」( http://marugoto.exblog.jp/ )が本になりました。県内各地域のプロモーションスタッフと県庁職員が協力してそのまちならでは魅力を発掘、写真とともにわかりやすくまとめたものです。旅の魅力のひとつが食ですが「青森たび歩きの達人」(泰斗舎刊)には青森県内各地の美味しいもの美味しいお店が満載です。
伝統的な郷土の食から八戸せんべい汁十和田バラ焼き、黒石つゆやきそばといったご当地グルメさらにはラーメンやカレーの美味しい店など地元の皆さんが足繁く通う魅力的な店がたっぷり紹介されています。旅先でお店探しをするのは大変で、観光ガイドブックなどに頼ってしまうのですがガイドブックで紹介されている店が、必ずしも地元の人気店とは限らないことは誰もが一度は経験したことがあるでしょう。しかし「青森たび歩きの達人」は地元の行政関係者がまさに「足で稼いだ」情報をもとに編集してありより「地元密着度」が高いのが特徴です。
大人のレストランガイドで特集「何度でも足を運びたくなる店」にアクセスしてみてください。
■何度でも足を運びたくなる店 〜味にひかれ、雰囲気にひかれ〜
東京: http://mxt.nikkei.com/?4_12346_177329_1
神奈川: http://mxt.nikkei.com/?4_12346_177329_2
京都: http://mxt.nikkei.com/?4_12346_177329_3
大阪: http://mxt.nikkei.com/?4_12346_177329_4
愛知: http://mxt.nikkei.com/?4_12346_177329_5

(5月9日生まれの偉人)
◆源 頼朝(みなもとのよりとも、久安3年4月8日(1147年5月9日)〜建久10年1月13日(1199年2月9日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。河内源氏源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。
 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は後に鎌倉幕府と呼ばれ、幕府などによる武家政権王政復古の大号令まで足掛け約680年間に渡り、存続することとなる。頼朝の開いた政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に幕府と名付けられ、王政復古まで足掛け約680年間に渡って続くこととなる。頼朝在世中はまだ朝廷との二重政府的な要素も強いが、守護地頭制度によって東国のみならず全国支配の布石を打っている。また、武家政権を代表する地位が征夷大将軍であるという慣習、また源氏がその地位に就かねばならないという観念、将軍のみが隔絶して高貴な身分として幕臣に君臨する(後年に到るまで、将軍の従一位〜正二位に対して次位の執権、管領大老は殆ど従四位従五位)という習慣も頼朝に端を発している。武家政権創始者として頼朝の業績は高く評価されており、ほとんどの日本人は義務教育で頼朝の名を学んでいる。
 その一方で、人格は「冷酷な政治家」と評される場合が多い。それは、多くの同族兄弟を殺し、自ら兵を率いることが少なく(頼朝自身は武芸は長けていたといわれるが、戦闘指揮官としては格別の実績を示していない)、主に政治的交渉で鎌倉幕府の樹立を成し遂げたことによる。判官贔屓で高い人気を持つ末弟・義経を死に至らせたことなどから、頼朝の人気はその業績にもかかわらずそれほど高くなく、小説などに主人公として描かれることも稀である。作家の永井路子は、頼朝は勃興する東国武家勢力のシンボルであるとし、その業績をすべて彼個人の能力に帰するような過大評価を戒めているが、一方でその政治力、人材掌握力は高く評価し、日本史における組織作りの天才であり、その手腕は後世に彼を手本とした徳川家康よりいっそう巧緻であると評している(「源頼朝の世界」)。
 ○久恒啓一さんは、自らのブログの中で、源頼朝をこう紹介している。「天下を創った男の言葉。」より
 ・このたびは天下の草創なり。(源頼朝
 ・天下は一人の天下に非ず。天下は天下の天下なり。(徳川家康
 ・人を相手とせず、天を相手にせよ。(西郷隆盛
  鎌倉幕府を創った頼朝、徳川幕府を創った家康、明治維新の大立者西郷、それぞれ気宇壮大である。特に頼朝の「天下の草創」という気迫は素晴らしい。宮城大学が開学した1997  年、野田一夫学長の「大学を創る」という事業に参画した時、規模は異なるが、同じような感覚を持ったことがある。
 <武人の言葉>
 ・弓矢の儀、取り様の事、四十より内は勝つように、四十より後は負けざるやうに。(武田信玄
 ・下々の批判をよくよく聞き届け、たとひ如何に腹立ち候とも堪忍。(武田信繁
 ・同輩より下への状などは、慇懃に書くほど、先方にてはなおなお忝(かたじけな)く思ふものなり。(前田利家
 ・十人が十人とも好む人材は、非常事態に対応できないので登用しない。(島津斉彬
 ・天の与うるを取らざれば、かえってその災いを受ける。(井伊直政
 この五人の武人の言葉は、人の上に立つ者の心構えとして、深い味わいがある。以上、「名将の言葉」(本郷和人)より。

◆金子 鷗亭(かねこ おうてい、1906年5月9日 - 2001年11月5日)は、北海道松前郡生まれの書家。近代詩文書を提唱した。本名は金子賢藏。1929年に函館師範學校(現・北海道教育大学函館校)卒業。同年、札幌に来遊していた比田井天来と出会い、上京を勧められ、1932年上京、以降天来に師事する。1933年には上田桑鳩が結成した書道芸術社に参加するとともに、雑誌『書之研究』に「新調和体」論を発表、近代詩を書にする近代詩文書運動を起こした。六朝北魏の楷書、木簡なども研究、1966年に「丘壑寄懐抱」で日展文部大臣賞、1967年に日本芸術院賞受賞、1987年に文化功労者、1990年に文化勲章受章(書家の文化勲章受章は1985年の西川寧に続き2人目であった)。1994年には故郷の松前町の慈眼寺跡に金子の銅像が建立された。(銅像はその後2008年に松前公園カントリーパークに移動)
 また、1952年に新宿御苑で行われた第1回全国戦没者追悼式から「全国戦没者追悼之標」(1975年からは「全国戦没者之霊」)の揮毫を担当、1993年まで32回務めた(式典が政府主催となり、毎年行われるようになった1963年以降は31年連続して担当)。また、「硫黄島戦没者の碑」、「比島戦没者の碑」などの揮毫も行っている。このほか東京都江戸東京博物館松前城の題字などを手がけたほか、黒澤明の映画「蜘蛛巣城」題字、日本酒『一ノ蔵』のラベルも揮毫した。

昨年の今日 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120509