まさに、週末農業。メイド・イン・ジャパン 逆襲のシナリオ

昨日の天気が悪くあまり作業ができず、今朝5時から作業開始。草の成長は早い。少し手を抜けば草が伸びてしまう。少なくとも昨年みたくにはしたくない。毎週まめに草取りをしていきたい。問題はいよいよ来月である。これからの梅雨の時期が勝負になろう。

NHKスペシャル「メイド・イン・ジャパン 逆襲のシナリオⅡ」
 民間企業が一括企画や事業部制アメーバ経営などで生き残りをはかるいっぽう、国は製造業復活にむけて何をすべきか……というのが第2回の内容。まずは「第二の産業革命」とも言われる3Dプリンタの話題。この分野ではアメリカとドイツが世界をリードしていて、なかでもドイツは国が専門機関を設置している。日本は優秀な金型技術が裏目に出て一歩出遅れた印象。とはいえ金属加工のノウハウは蓄積されているので、金型技術と3Dプリンタ技術の融合で巻き返しを狙う。国産機の開発にも着手している。変わっているのは南アフリカで、3Dプリンタによるチタン加工技術を使って航空宇宙産業の拠点になることを目指している。
 そもそもなぜ日本の製造業は凋落したのか……ということで話題は往年の日米半導体摩擦へ。当時のアメリカは日本のターゲティング政策(特定分野の優遇)を批判するいっぽう、自国は強力にターゲティング政策を進めて半導体市場でシェアを奪還(日本よ、これが外交だ!)。経済外交の敗北によって日本が停滞するなか、台頭してきたのが韓国と台湾。韓国は法人税引き下げという環境整備、台湾は製造部門に特化することで急速にシェアを伸ばしてきた。苦戦が報じられる日本のルネサスだが、自動車用マイコンの分野では依然として高いシェアを保っていて、自動車産業保護の観点から経産省も全面的にバックアップしている。
 今後への提言としては、まず国が新しい市場を作ること。例えば介護ロボット分野。日本は「課題先進国」であり技術力もあるが、基準となるJISのような規格がない。開発後にリジェクトされるようなことがあると中小企業にとっては死活問題になる。医療分野でも認可ギャップから海外勢にシェアを奪われており、省庁の枠を越えた迅速な対応が必要。もうひとつは、研究成果を積極的に市場へ出すこと。台湾のITRI(イトリ、台湾高等技術院)は研究室と市場の間にある「死の谷」を埋めるべく、実験設備のレンタル、アドバイザーの提供、投資家の斡旋などをパッケージとして提供している。台湾に研究拠点を移す日本のメーカーもあるという。
 最後の話題はアジア市場について。韓国は国が民間企業の現地での支社機能を代行するという、支社化事業を進めている。いっぽうJICA(国際協力機構)はODA(政府開発援助)の一環として、途上国が抱える課題にマッチした日本の中小企業を斡旋している。これは都市問題についてソリューションの蓄積があり、かつ今までのODAで得た信頼がある日本ならではのスタイル。まさに国家版いいひと戦略とでも言うべきか。
 ひとつ疑問に思ったのは、製造業の復活は雇用を、しかも比較的賃金が高い雇用を生むというコメント。3Dプリンタにしろ介護ロボットにしろ、最終的には大幅な省人化をもたらす技術。それこそ岡田さんが言うように、数人の成功者と引き換えに数千人が失業する「1億総ニート時代」が待っているわけで……。かといって経済成長しなければ、介護ロボットが必要な人たちが真っ先に切り捨てられるだろうし。難しいね。

(5月12日生まれの偉人)
◆武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、1885年(明治18年)5月12日 - 1976年(昭和51年)4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家。姓の武者小路は「むしゃのこうじ」と読むが、実篤自身は「むしゃこうじ」と名乗っていた。一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと糺すことはなかったという。仲間からは「武者」(ムシャ)の愛称で呼ばれた。文化勲章受章。授与された称号には名誉都民などがある。日本芸術院会員。
 ●武者小路実篤という名前は、白樺派という美しい名前とともに私たちの世代にとっては、あこがれの対象だった。1885年(明治18年)生まれだが、1975年(昭和50年)に90歳で没するまで「私の美術遍歴」を最後に著書を刊行し続けているから、私が中学生から大学生の間に、同時代にこの人の本を読んでいたということになる。23歳の処女出版「荒野」から数えて67年間、作品は6000というから、長寿で仕事を続けているということは凄いことだと改めて感じた。武者小路実篤記念館は、京王線仙川から歩いて10分のところにあった。武者小路実篤が住んだ1500坪の土地は、現在では、実篤公園として整備されていて、その一角に住んでいた家があり、さらに平成6年に生誕百周年を記念して建った記念館がある。起伏があり、植物や花が咲いており、池もあり、この自然豊かな公園は昔の武蔵野を偲ばせる。改装中で家の中までは見れなかったが、実篤が愛した池のある庭の側から中をうかがうことができる。晩年になったら「泉と水」のあるところに住みたいと念願していた夢を実現させた家である。越してきたのが70歳だから、家族や友人に囲まれ仕事を続けた幸せな期間をこの地で過ごしたのである。野桜の大木が目についたが、木々の紅葉もきれいだった。ベランダから低い地にある庭と池を楽しむ姿が見えるようだ。庭の池の鯉を見ながら進んで小さなトンネルをくぐると記念館が姿を現した。
 「白樺」は、学習院中等科での実篤(当時17歳)と志賀直哉(当時19歳)の出会いとそこから生れた十四日会、そして明治43年に創刊された白樺を紹介している。こういう雑誌は長く続かないことが多いのだが、大正12年関東大震災まで実に160号を数えるから、その影響は大きかった。「新しき村」は、?7年に宮崎県につくった理想郷で自給自足をしながら演劇などを楽しむ地である。実篤自身は数年でこの地を離れるが、その後も埼玉県にも同様の村をつくっている。そしてこれらの村は今も人が住みその運動は続いているという。「仲よき事は美しき哉」と好んで書画に書いた実篤は妻の安子が亡くなったわずか2ヵ月後に永眠する。「仙川の家」は、この最後に住んだ家をテーマとしたビデオである。早起きで、朝は毎日原稿を4-5枚書いて、午後は絵筆をとって書画をかく、そして来客に会う、という生活を送った。普段は2人きりだったが、子や孫を含めると15人いて、よく家族がここに集まったらしい。三女の辰子はビデオの中で「したいことをしている生活でした」と回想している。
「終の住処」というビデオでは、1500坪の土地と建物を詳しく紹介している。ピカソから贈られたミノトール、庭の桜と紅葉、サンルーム、月見台、、。
「秘蔵映像」では、新しき村の様子、初めての洋行時の見送りの様子などを見ることができた。武者小路実篤といえば、あの独特の温かみを案じさせる書画を思い浮かべる。 「自然 玄妙 81歳」「人生の旅人に幸あれ 87歳」と晩年には年齢を入れている。「天に星 地に花 人に愛」「人生は楽ではない そこが面白いとしておく」という書画もあった。
 ●そして3年前埼玉県入間郡毛呂山町武者小路実篤の「財団法人新しき村」を訪問。宮崎県日向につくった新しくき村の一部が水没したため、この地に東の村を建設する。約十へクタールの土地である。ここに「武者小路実篤記念 新しき村美術館」がある。武者小路の絵、言葉、焼き物などを展示した美術館である。作品は1万2千。感想、随筆、雑文などだが、一番甥のは長短の感想である。
 大河を濁れども 大海は清し(新しき村43周年祝日)
 天に星 地に花 人に愛
 日日新 日日決心 日日真剣 日日勉強 日日生長
 人間の誠意が生きるところ 人間の真価が通用するところ その他のものが通用しないところ それが新しき村である (1947年 62歳)
 自然玄妙
 和敬清寂
 不如楽之
 画道三昧
 桃栗三年 柿八年 達磨は九年 俺は一生(90歳)
 共に咲く喜び(九十歳)

 志賀直哉「小器用なものと異なってこういう画には見厭きをするという事がないあ」
 梅原龍三郎「常に美しと見る処を恐れず飾らず遅疑する事なく率直に表現して、淡々とした美しさを湧き出させている」
 中川一政「端正で正面からかいてゆく。また技術を弄しない。いきなりムーブマンとフォルムを掴んでしまう」
 
 決心せるものが村に
 五人いれば
 天下は動く
 五人が十人になり
 五十人になり百人になる   満70歳の誕生日為 新しき村諸兄姉
 「現在は17人、男の割合が多い。40代から。入村して52年。現在75歳。武者小路実篤先生は、やさしい、きびしい、こまやかな、いい先生でした。今でも本を読んだりすると感動します。この村も72年の歴史。開墾から始まった。日向は92年」この人はギリシャスパルタスロンという世界でもっとも過酷な250キロマラソン(36時間以内)を、69歳で完走したおいう。当時は世界最高齢だったそうだ。「満八十になって」という随筆がある。「あと10年生きられれば、僕は僕風の美術館をたてたい希望は失っていない」「入って出るまでに僕の生きた本に接することが出来るような特別な小美術館」と書いているが。この記念館はそれが実現したものだろうか。
 記念館で買った図録をみると、志賀直哉と写った写真が多い。明治39年に行った志賀直哉との徒歩旅行の写真など2人は体格もよく男前である。白樺の新年会、創刊十周年記念、晩年の写真など、常に志賀直哉とともにいる。2人は生涯の親友だったと感じる。 また、白樺関係の記念写真には日本民藝館柳宗悦が感性の鋭そうな目をして写っているのも目を引いた。高村光太郎岸田劉生、木下利玄、バーナード・リーチらの姿もみえる。実篤は小説、戯曲、詩、評論、随筆、雑感など6000近い作品を発表したのだが、「武者小路実篤 この人は小説を書いたが小説家と言ふ言葉で縛られない哲学者思想家乃至宗教家と云ってもそぐはない そんな言葉に縛られないところをこの人は歩いた」という中川一政が書いた「この人」という詩がよくこの人の歩みをあらわしていると思う。
 90歳までという長い時間をかけて、多方面の才能の開花させ、他に類例のないタイプの武者小路実篤という人生は、まさに、「龍となれ 雲自づと来たる」。青年時代の白樺から始まった武者小路実篤は、90歳までという長い時間をかけて、多方面の才能の開花させ、他に類例のないタイプの人生を送った。
◆草野 心平(くさの しんぺい、1903年明治36年)5月12日 - 1988年(昭和63年)11月12日)は日本の詩人。福島県上小川村(現・いわき市小川町)出身。1923年(大正12年)には、民平と自己の詩をおさめた『廃園の喇叭』を自費出版(この時は一時帰国していたため、出版地は日本)。帰国後、雑誌『銅鑼』を主催し、ここに宮沢賢治八木重吉らを同人に誘い、彼らの作品の紹介に努めた(彼らの没後まで心平は紹介を続けたが、生前に直接面識を得ることはなかった)。
 「蛙の詩人」と俗に言われるほどに、生涯にわたって蛙をテーマとした詩を書きつづけた。この分野では、蛙の鳴き声がさまざまなオノマトペで表現されている一方、いくつかの前衛的な試みが行われている。たとえば「冬眠」を構成するのは黒丸1文字のみである。

昨年の今日http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120512