通算400日目。「仕事のなかで自分を磨け」

 今日で通算400にを迎える。1年と4か月余りの記録である。とりわけ、昨年10月から連続であり、本年1月から毎日偉人シリーズを記載して4か月が過ぎた。是非一年継続したいものである。

 ●仕事のなかで自分を磨け - 中国古典の名言に学ぶ .守屋 洋 (中国文学者) 
《『勝つためにリーダーは何をなすべきか〜中国古典の名言に学ぶ』より》
人はすべからく事上に在って磨錬し、功夫 (くふう) を做 (な) すべし。乃ち益あり
〔『伝習録』下巻〕
洞察力や先見力を身につけるためには、「歴史に学べ」「古典に学べ」と言いました。しかし、それだけではまだ十分とはいえません。
この上何が必要なのかと言いますと、ここに引いた言葉がそれを物語っています。わかりやすく訳してみましょう。「人は毎日の生活や仕事のなかで自分を磨かなければならない。そうあってこそ初めて効果があがるのである」 というのです。
 これは、陽明学を唱えた王陽明という人が語った言葉です。この言葉から「事上磨錬」という有名な四字句が生まれたことはよく知られています。
 ご承知のように、陽明学はなによりも実践を重視した思想として知られています。むろん陽明学といえども、歴史に学ぶことや古典に学ぶことを軽視しているわけではありません。しかし、それらにも増して重視したのが、実践を通して自分を磨けということです。
 そういうなかから「事上磨錬」という四字句が生まれてきたのですが、いかにも実践重視の陽明学らしい言葉ではありませんか。
実学を離れた学問は空学問だ
 この「事上磨錬」ですが、大切なことなので、もう少し、王陽明の語ることに耳を傾けてみましょう。
 あるとき、下役人をしていた弟子の一人がこんな感想をもらしました。
「先生はたいへんすばらしい学問を教えてくださいますが、なにしろ私は、帳簿の整理や裁判の審理に追われて、それを実行する暇がありません」
 これを耳にした王陽明は、こう語っています。
「私は君に、帳簿の整理や裁判の審理など、日常の仕事を離れて抽象的な学問をせよと教えたことは、一度もなかったはずだ。君には役所の仕事があるのだから、その仕事に即して学問すべきである。たとえば、事件を審理する場合を考えてみよう。相手の対応が礼にはずれているからといって、腹を立てるべきではないし、逆に相手の言うことが如才ないからといって、うかつに気を許してはならない。
 また、相手がまわりから手を回しているからといって、へんに意固地になってもいけないし、逆に、柏手の要請に屈して、便宜をはかってやるようなことをしてもいけない。
 さらに、煩雑で面倒な仕事だからといって、かってに手を抜いていい加減な処理をしてはいけないし、まわりが非難中傷するからといって、それに引きずられて、処分を決めたりしてはならない。
 帳簿の整理や裁判の処理といえども、すべてこれ実学でないものはない。それらの仕事を離れて学問をしようとするのは、役に立たない空学問になってしまうのがオチである」
 こう語っています。
 つまりは「本を読むだけが勉強ではない。仕事のなかで自分を磨け。それも立派な勉強なのだ」ということであろうかと思います。
◇カンは経験を積むことで磨かれる
ただし、仕事のなかで自分を磨けといいましても、毎日の仕事というのは、よほど激しい変化にでも見舞われないかぎり、同じことの繰り返しが多いものです。そういうなかに身を置いておりますと、どうしても惰性に流され、マンネリに陥っていきます。そうなると、何も身につきません。
 そうならないためには、常に問題意識を持ち、気持を引き締め、創意工夫をこらして仕事に取り組む必要があります。そうすれば必ず何かが身についてくるはずです。それを言っているのが、陽明学の「事上磨錬」に他ならないのです。
 わかりやすい例をあげれば、たとえば、仕事のコツとか経営の勘です。こういうものは、いくら経営書のようなものを読んで理屈を詰め込んでも、それだけではダメです。また、人の話をいくら聞いても、それだけでは身につきません。
 やはり地べたを這いずりまわり、時には悩み、時には苦しみながら、そういう苦労のなかでしか身につかないものです。つまり、現場のなかで苦労し、現実の体験に裏打ちされて、初めて血となり、肉となっていくのではないかと思います。
 洞察力や先見力を磨くうえでも、同じことが言えるのではないでしょうか。
 わずかな徴候から、風向きの変化を読みとり、「これはやばいぞ」と危険を察知して、患を未然に防ぐ能力というのは、たんなる理論のレベルを遥かに超えています。そういうものもやはり苦労のなかで経験を積むことによって磨かれていくのではないかと思います。
◇苦労の中でこそ人間力は高まる
 苦労といえば、こんな話を聞いたことがあります。
 もう亡くなりましたが、知り合いのなかに、易学、つまり占いですね、易学の理論を科学的に究明する、そんな研究をしていた人物がいました。
その人から聞いた話ですが、まだ易学の勉強を始めたばかりの若いころ、当時、名の売れていた易占いの大家を何人か訪ねてまわり、教えを請うたというんです。
ところが、話を聞いてすぐにわかったのは、どの相手も易の理論についてはたいしたことはなかった。厳しい言い方をすれば、素人に毛の生えた程度だったというのです。
しかし、少し話を聞いているうちに、これまたすぐにわかったことは、皆さんえらい苦労人で、これについては、一人の例外もなかったということでした。
私は占いというものに関心がありませんし、今の易者さんたちがどうなのかもわかりませんが、この話を聞いたとき、「なるほど、そうだろうな」と、妙に納得したことを覚えています。
人生の苦労をなめ尽くした人たちだからこそ、目の前に座った客の顔つきや様子を見ただけで、どんなことに悩み、どんなことに苦しんでいるのか、ピタリと見抜いて、適切な指示を下すことができたのでしょう。筮竹(ぜいちく)をじゃらじゃらさせるのは、もったいをつけるための道具立てにすぎなかったのかもしれません。
苦労することによって人を見る目も磨かれていくという話ですが、近ごろ心配なのは、恵まれすぎた不幸というのでしょうか、経営者でも若い世代は、苦労から逃げる傾向が見られることです。
「楽をしたい」、「楽しく生きたい」という気持もわからないではありませんが、それだけでは人間が磨かれていきません。土壇場になって物を言うのは、苦労のなかで磨かれた人間力なのです。
 洞察力や先見力にしても、苦労のなかで磨きあげられていくのだということ。このことを決して忘れないでください。

●事上磨練(じじょうまれん)
「事上練磨」ともいう。
王陽明の説く自己修養のあり方。
思想というものは時に現実から遊離して一人歩きをし易いものであるが、王陽明はそれを戒め、本当の思想・理念というものは決して日々の生活から遊離するものではなく、何ら変わらぬ日常において自らの良知を致す事こそが、真実の意味における学問であり自己修養なのだと説いた。
王陽明の思想が実践哲学であるとされる所以であり、「知行合一」と共にその思想の根本を成す。
出典は伝習録の教約。
事上磨錬 意味
実際に行動や実践を通して、知識や精神を磨くこと。明みん代の王守仁おうしゅじん(陽明ようめい)が学問の修養について、日常の行為を離れて思索する静座に対して、実際の日常の行動をこなし、これを通して修養するのが真の学問であると述べた説。▽「事上」は実際のことに当たりながらの意。「磨錬」は練り磨く意。
●『事上磨練』
 自分の持ち場持ち場で自分を磨くことこそれを素行自得と言います。とてもよい言葉です。そしてそれを今日のS先生の論語塾でも教えてもらいます。しかし分かっていてもあまり出来ていない自分がいるのも事実です。『中国古典の名言に学ぶ勝つためにリーダーは何をなすべきか』という本です。その一節に
『人はすべからく事上(じぎょう)に在って磨錬(まれん)し、功夫(くふう)を做(な)すべし。及ち益あり』とあります。この言葉を4文字熟語にすると『事上磨錬』といい、陽明学を唱えた王陽明が語った言葉です。
あるとき、下役人をしていた弟子の1人が、
「先生たいへん素晴らしい学問を教えてくださいますが、何しろ私は帳簿の整理や裁判の審理に追われて、それを実行する暇がありません」といいます。
 それを聞いた王陽明
「私は君に、帳簿の整理や裁判の審理など、日常の仕事を離れて抽象的な学問をせよと教えたことは一度もなかったはずだ。君には役所の仕事があるのだから、その仕事に即して学問すべきである。たとえば、事件を審理する場合を考えてみよう。相手の対応が礼にはずれているかたといって、腹を立てるべきではないし、逆に相手の言うことが如才ないかといってうかつに気を許してはならない。また、相手がまわりから手をまわしているかといって、へんに意固地になってもいけないし逆に相手の要請に屈して、便宜をはかってやるようなことをしてもいけない。さらに、煩雑で面倒な仕事だからいって、かってに手を抜いていい加減な処理をしてはいけないし、まわりが誹謗中傷するからといって、それに引きづられて、処分を決めたりしてはならない。帳簿の整理や裁判の処理といえども、すべてこれ実学でないものはない。それらの仕事を離れて学問をしようとするのは、役に立たない空学問になってしまうのがオチである」と言います。
 僕自身に言っているかのように頭をガツンと叩かれた感じです。
 そして本を読むだけが勉強ではない。仕事の中で自分を磨け、それも立派な勉強であると言っています。
 当然よほど激しい変化でも見舞われない限り同じことの繰り返しが多いものです。マンネリにならないために常に問題意識を持ち、気を引き締め創意工夫をこらして仕事にとりくむことが必要です。そうなれば必ず何かが身についていくとあります。
※如才(じょさい)‥気を使わないために生じた手落ちがあること。また、そのさま。手抜かり。多く、下に否定の語を伴って用いる。

●先見力と洞察力について
これからの時代、ビジネスパーソンに絶対に必要な能力は、今日のテーマである”先見力と洞察力”ですね。どちらも微妙な変化を嗅ぎ取り、そこから今後の対応や方向性を考える能力です。
企業のこれからの方向性や経営戦略を決めるとき、まず、時代の流れや動きを読む必要がありますね。これが、先見力です。また、物事(政治的判断など、たとえば今の麻生政権の衆議院解散時期ですね)への対応を誤らないためには、人間を読む目も磨く必要があります。これが洞察力ですね。
この先見力と洞察力について、中国古典を取り上げ、この2つについて述べた書物が有ります。それは、”中国古典の名言に学ぶ、勝つためにリーダーは何をなすべきか”守屋 洋著、PHP刊です。その中で、著者は、次のように述べています。
中国の古典では、君子とは能力と人格を兼ね備えた人物を言います。このような君子は、かすかな徴候を見ただけで、これから起こる事態を察知して、始めを見ただけで終わりがどうなるか分かる。それで、不幸な事態を避ける事ができる、と「三国志」で有名な諸葛孔明が述べています。
これからわかるように、中国でも昔から先見力と洞察力が必要だったのですね。つまり、昔からリーダーにとっては、この2つの能力が必要条件なのですね。
また、この本で、「孫子」という有名な兵法書で、将たる者、つまりリーダーの条件として5つを挙げていますが、「智」すなわち洞察力をまっ先に挙げています。
ちなみに、他の4つは、約束を守る、思いやりの心、決断力、信賞必罰の厳しさ、です。
なぜ、洞察力かと言えば、戦では、勝つ事が原則であり、負けたら一貫の終わりですね。そのためには、戦いを始める前に、双方の戦力分析を行い、勝てる見通しが出来てから(戦略を立てる)から戦を仕掛けますね。その時必要な能力が、洞察力です。
孫子」では、戦いが始まって、戦場で双方が相見えた場合に、
「相手の出方に応じて臨機応変に戦え。それが勝つ秘訣だ」と述べています。この臨機応変に戦うためには、常に相手の動きに目をこらし、わずかな徴候や変化からも相手の意図を見破って応戦する必要がありますね。「孫子」では、これが「智」と言っています。正確に言えば、ここでの「智」とは、洞察力だけでなく、先見力も含まれますね。戦いの風を読む必要も有りますからね。
では、先見力や洞察力を身に付けるには、どうすればいいのでしょうか? この回答として、「論語」に、「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知れば、以って師たるべし」つまり有名な「温故知新(おんこちしん)」ですね。過去の歴史を学ぶ事で、現代の現象が理解でき、その先を想定し、対応を考えるという、先見力、洞察力を磨くことができますね。
ちなみに、「温故知新(おんこちしん)」の意味ですが、”過去の歴史を学ぶ事で、現代に対する洞察力を深めていく。こういう人物こそ指導者としてふさわしい”ですね。
したがって、リーダーは、歴史を学び、歴史感覚を持つ事ですね。著者は、歴史を学ぶ事による2つのメリットを紹介しています。
1. 先人達の成功と失敗のケース・スタディの参考書として活用できますね。
文化遺産として何千年もの歴史があり、人間の本質は変わる事がないですからね。同じ失敗を何度も、何度もしています。失敗の原因を理解する事です。失敗しなければ、成功に結びつくわけですからね。
2.「興亡の歴史」をおぼろでながらでも体得できることですね。
歴史を学ぶ事で、国または組織の興亡(なぜ興り、なぜ滅びたか)について、その底を貫いている共通の原理が理解出来ますね。
中国古典には、何を手がかりにして人をみるかについて、こまごまと書かれているそうです。著者は、基本的な手がかりは3つあると述べています。
顔つき、発言、行動だそうです。この3点で人を見ればよいですね。
最後に、先見力は視野を広くで、洞察力は自分の頭で深く考えることになります。そして、わずかな徴候を嗅ぎ取る研ぎすまされた感性ですね。
(出典:”中国古典の名言に学ぶ、勝つためにリーダーは何をなすべきか”守屋 洋著、PHP刊より)

(5月16日生まれの偉人)
◆林家 彦六(はやしや ひころく、1895年5月16日 - 1982年1月29日)は、落語家。東京府荏原郡品川町(現在の品川区)出身。生前は落語協会所属。本名は岡本 義(おかもと よし)。前名の林家正蔵としては8代目。俗に「彦六の正蔵」。出囃子は『菖蒲浴衣(あやめ浴衣)』。噺家からは居住地の「稲荷町(の師匠)」また性格から「トンガリ正蔵」と呼ばれた。妻は岡本マキ(上方落語家4代目古今亭今輔の妻と姉妹)。息子は日本舞踊家花柳衛彦。芝居噺や怪談噺を得意とし、正蔵の名を更に高めた。
◆溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)は、東京都出身の映画監督。女性を主人公に据えた情緒的な作品が多い。黒澤明小津安二郎成瀬巳喜男らと共に日本映画の巨匠の一人にあげられる。


昨年の今日 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120516/p1