「窮すれば即ち変ず、変ずれば即ち通ず」。そして牧野富太郎は。

豊臣秀吉の軍師として活躍した黒田如水は、「分別過ぐれば、大事の合戦は成し難し(考えすぎると決断力が鈍り、結局は時機を失してしまう)」という言葉を残したと言われている。『孫子』に「算多きは勝ち、算少なきは勝たず。而るを況んや算無きに於いてをや」とあるように、そもそも勝算なくして勝ち目はないが、ある程度の勝算があれば、とにかく必死になって前に進み、時機を失すべきではない。「勝負は時の運」であって、その中で臨機応変に方向転換もして行くべきだと思うが、勝ち目なき無謀な戦いに挑んで負けるまで戦い抜く、というのは如何なものか。例えば「関ヶ原の戦い」において、大谷吉継の忠言を受け入れず石田三成は戦に踏み切ったが、勝負は明らかという中で吉継は義によって助けるしかないとして、三成に味方したということもる。そういうことを大事にした武士は兎も角として、今の世においては勝算ありとして実行に移したとしても状況をよく見つつ形勢悪しと判断したら、臨機応変に如何なる形で未然にダメージを防ぎ得るか、ということを図るべき。例えば「秀吉の毛利攻め」などでも、毛利側は「本能寺の変」を未だ知らなかった時、形勢不利という事態を察して観念し、さっと和睦を結んだが、毛利家というのは関ヶ原の戦いでもどっちつかずの対応に終始し、その後も何とかお家は存続して行ったということもある。
 要は「一度決断した事柄は二度と変えない」とか「決断に誤りがあることを認識しても変更しない」といったことはどうか。また朝から晩まで「小田原評定」とも言うべき不毛な議論を重ねても仕方がないわけで先ずは決するということが必要だとは思います。『逆境を生き抜く名経営者、先哲の箴言』(朝日新聞出版)でも述べた通り、「会して議せず、議して決せず、決して行われず(集まって議論しない、議論して決断しない、決断して行わない)」という状態であれば会議など止めた方がまだマシで、やると決めたら取り敢えずはやって前進して行くということが大事。但し「成功するまでやり抜け!」と言う人も多くいるが、フレキシブルに対処すべきであり、「状況が変われば、それに応じて変われば良い」。『易経』にあるように「窮すれば即ち変ず、変ずれば即ち通ず」。

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【開催概要】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
開催日:5月24日(金)19:00〜21:00
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定員:40名
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(5月22日生まれの偉人)
◆広瀬 淡窓(ひろせ たんそう、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3年11月1日(1856年11月28日))は、江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった。豊後国日田の人。淡窓は号。通称は寅之助のちに求馬(よみはモトメ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。別号に青渓など。末弟に広瀬旭荘、弟広瀬久兵衛の子孫に、日田市長、衆議院議員だった広瀬正雄、その子息の一人広瀬勝貞は現大分県知事。
◆牧野 富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日(文久2年4月24日) - 1957年(昭和32年)1月18日)は、日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。
○2008年7月に牧野記念庭園(牧野富太郎)を訪問した。世界的植物学者・牧野富太郎博士(1862年ー1957年)については、子供のころ伝記を読んだ記憶がかすかにある。学校に行かずに植物学を極めた大変偉い人という印象を持っていた。この名前は、朝倉文夫昭和天皇などの記念館で何度か目にしており、今回訪問した。牧野富太郎が65歳で移り住んで天寿を全うするまで32年間にわたって研究を続けた自宅は、西武池袋線大泉学園駅から徒歩5分の地にあった。今は牧野記念庭園となっており、2189㎡の広さで、340種類の草木類が植栽されている。暑い日だったが、この庭園の木陰に入ると実に涼しい。保存するために鞘堂に収められている書斎と書庫は8畳間と4畳間である。シーボルトの弟子であった伊藤圭介(1803-1901年)の命名した「よう條書屋」と名付けられた書斎で、牧野は一日中過ごし万巻の書を読みふけった。うず高く積まれた書物の間で本を読み調べものをする晩年の写真が飾ってある。その上に「学問は底の知れざる技芸也」という牧野の座右の銘と思しき言葉が木片に書かれていている。
となりの資料記念館陳列室では博士が探し求めた植物の押葉や竹の標本、植物に関する書物、そして博士愛用の日常品が展示されている。流れているビデオの映像を見ていると、逝去のときの新聞記事があり、「牧野博士 ついに死去す」とあった。「ついに」とはどういう意味だろうか。あの熱心研究に没頭していた博士がとうとうというような愛を感じるがどうだろう。この地は日本の植物学の聖地である。
博士は小学校を1年生で辞めている。後は独学で植物学を学び、ついに世界的学者になった。日本や世界中から集めた標本は比較する必要があるため、常に新しい文献が必要であり、東京に出た牧野は一番充実している東大に出入りする。そして「日本植物志図篇」という雑誌を創刊している。このとき牧野は26歳だった。「日本の植物を、日本人の手で研究した成果を外国に知らしめる」ことが発刊の趣旨だった。その後、東大の助手、そして50歳を過ぎて講師になり、大学で自由に研究ができる環境を得る。77歳のときには「書斎を離れるのは食事の時と寝る時だけで、私は早朝から深夜1時過ぎまで本の中で生活している。書斎に居る時が一番生き甲斐を感じる」と述べている。まさに植物の研究に没頭した人生だった。博士は生涯において1600種類以上の新種を命名している。これはリンネに次ぐ業績である。
「花在ればこそ 吾も在り」
「楽しさや押し葉を庭の木で作り」
「我が庭に咲きしフヨウの花見れば老いの心も若やぎにけり」。
「植物に親しむことは、生命を愛する心を養う」と博士は言ったが、「私は草木の精である」という極めつけの言葉も残している。ここまで来ると何も言うことはない。ただうらやましく、そして尊敬するだけだ。
○2010年2月に牧野標本館(牧野富太郎)をたずねる。南大沢にある首都大学東京(昔の東京都立大学)に、牧野標本館がある。植物学の牧野富太郎博士の集めた植物を核とした標本館である。
大学院理工学研究科生命科学専攻の中に牧野標本館は位置づけられている。牧野富太郎(1862-1957年)は、東京都の名誉市民第一号であった関係で、牧野の死後膨大な植物標本を東京都が引き取り保存した。その数は40万点にのぼる。このうち16万点に「いつ、どこで、誰が」ということを割り出して、ラベルにする。牧野がつけていた日記などからこういう情報を特定した。
 牧野富太郎の功績は何か。日本で初めて学名をつけた(命名)のだが、その数は1500点にのぼる。また精緻な植物図をたくさん描いている。しかし、その最大の功績は、植物分類学の普及であった。牧野は全国を採集旅行している。そのときに、土地の人によく講義をしている。これが植物分類に関する国民の意識をずいぶんと高めた。牧野富太郎の描いた植物の精密画をみると、細かいところまで毛筆で描いていることがわかる。確かに鋭い観察眼である。この標本館のハーバリウムの入り口には「牧野標本館」と書かれた表札がかかっている。1958年の標本館開設時の門標である。自筆とのことだが、実に風格にある達筆である。
 ハーバリウムの内部に入ると暖かい。室温は25度C。湿度は60%に維持されている。こういう保存を旨とする場所はナフタリンの匂いがするものだが、雰囲気が違う。この標本館は40万点の標本を保管しているが、これn未分類のものやコロ、藻類などを加えると50万点にのぼる。毎年1万点ほど増えているとんことだ。その規模は、東大、京大、国立科学博物館に次いで、国内第4位である。ただ、ここには展示施設がないので、あまり知られてはいない。この部屋の広さは230㎡で、電動式コンパクター(標本庫)が3連ほど設置されており、規則正しく整理されている。図書館の書庫のようだ。「タイプ標本」というものを見せてもらった。赤い封筒に入った標本で、新種として発表された植物の基準標本である。こういう貴重な標本は800ある。一つ見せてもらう。「1905.8.3 牧野富太郎 学名(ラテン語で書いてある)  和名カトウハコベ 岩手県」。確かに牧野富太郎の採集標本だった。
植物は世界では25万から30万種あり、日本には7000種。そのうちこの標本館には90%くらい保管している。生物多様性の議論などもあり、生物学が人気が高い研究分野なのだそうだ。レッドデータブックなどの基礎資料にもなっている。「国民新聞 大正元年10月14日」とある新聞に「クルマイチリンソサウ」の押し花があったという証拠をみた。もちろん牧野の採集品だ。牧野は地方に行くとその土地の新聞に採集した植物を押し花で保存していた。地方新聞の実物ということで、こちらの方の学術資料としても貴重だった。「シーボルトコレクション」もある。3000点である。シーボルトは、1823年から1829年、そして1859年ー1862年の二回にわたって日本で植物を大量に採集している。学名などの記述は、シーボルトの筆になるものである。

<本の紹介>
黒田官兵衛―秀吉も一目おいた天下人の器 (PHP文庫)http://d.hatena.ne.jp/asin/456956903X
黒田如水 (コスミック・時代文庫)http://d.hatena.ne.jp/asin/4774726230
黒田如水(吉川英治歴史時代文庫 44)http://d.hatena.ne.jp/asin/4061965441
史伝 黒田如水 (学研M文庫)http://d.hatena.ne.jp/asin/4059010685
松下幸之助 夢を育てる―私の履歴書 (日経ビジネス人文庫)http://d.hatena.ne.jp/asin/4532190983
井深大 自由闊達にして愉快なる―私の履歴書 (日経ビジネス人文庫)http://d.hatena.ne.jp/asin/4532196558

昨年の今日 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120522/p1