野村再生工場長「ノムラの教え」とは。

◆今日から5月最終週。今週前半は関係団体の総会出席。挨拶。来月に予定されている研修等の原稿作成も本格化。

◆ 野村さんと言えば、「監督」として有名だが、選手としての経歴もピカイチである。3年目に本塁打王。65年、戦後初の三冠王(史上2人目)など、MVP5度、首位打者1度、本塁打王9度、打点王7度。ベストナイン19回、ゴールデンクラブ賞1回。そんな野村さんが、入団当初は「テスト生」だったことや、1年目にはクビを言い渡されていたことも。大きなエピソードである。そういう状況をいかに乗り越えてきたのか、そしてその後、いかに主力選手になり、ヤクルト、阪神楽天等で「名監督」と呼ばれるようになったかの「考えかた」「行動指針」が本書には詰まっている。「テスト生」だった本人同様、監督時代も下位に低迷する球団を率いることが多かったせいか、そこからのしあがろうとする戦略は「弱者」のためのものがほとんど。それがゆえに、サブタイトルにも「弱者の戦略」と入っている。それは「天才」長嶋茂雄や「常勝」巨人軍のやり方とは一線を画すもの。名言の1つに「あんなカンピューター野球に負けてたまるか」とあるのはご愛嬌なんですが、そこでも「勘」が「根拠のない思いつき」であるのに対し、「ひらめき」は「脳のどこかに蓄積された経験、知恵、知識が状況にしたがって的確に発信される」と指摘されていて、なるほど確かに。それがゆえに、選手たちに常日頃から「いろいろな知識を拾い集めろ」と言われていたそうですから、それは選手も伸びるはず。
<『ノムラの教え 弱者の戦略99の名言』野村克也
【ポイント】
1.未熟者にスランプなし。たんにつまずきをこじらせただけ
 未熟者が結果が出ないのは、たんに「つまずきをこじらせただけ」だ。
 未熟者は熱意や研究、向上心に欠けるがゆえに、ちょっとつまずいただけで大げさに、しかも軽々しく「スランプ」と思い込んでしまう。たんに未熱であるから結果が出ないだけなのに、スランプだと勘違いしてしまうのである。未熟者にスランプなどあるわけがないのだ。
2.欲から入って、欲を捨てろ
 人間は誰しも欲がある。欲は人間を成長させる原動力になる。欲があるから努力もできる。しかし、それに凝り固まってはいけない。結果がよくないばかりか、自己中心的になって周囲にも悪影響を与えることになる。欲から入り、最後は欲を捨てること。それが成功の秘訣だ。欲を自制する力を「セルフコントロール」と呼ぶ。セルフコントロールを身につけ、チームのためにできること、やるべきことを第一に考えれば、不思議なもので結果もよくなるのだ。
3.覚悟に勝る決断なし
 私は、どのような結果が出ようと、責任はすべて自分が引き受けるつもりでいた。その結果がそれまでの野球人生を台無しにしかねないものであっても、かまわない。そう覚悟を決めてしまえば、人間は意外に身軽になれるものだ。人事を尽くして天命を待つ――そういう心境に素直になることができるのである。選手・監督時代を通して、私にはいくつも危機があったけれど、それを乗り越えられたのはすべて、覚悟を決めたからだった。迷ったときは覚悟を決めることだ。
4.人間は無視・称賛・非難の順で試される
 その人間が箸にも棒にもかからない状態のときは「無視」。少し見込みが出てきたら「称賛」。そして組織の中心を担う存在になったら「非難」する。これは、すべての分野で一流の人間を育てるための原理原則である。 逆の立場からいえぱ、「無視」されたとき、「称賛」されたとき、そして「非難」されたときに、どのように受け止め、いかなる行動をとるかで、一流になれるかどうかが決まるということだ。まったく実力がないのに、無視されてふて腐れるようでは見込みはゼロだ。「どうしたら認めてもらえるか、何をすればいいのか」と考えることから人間の成長がはじまるのだ。
5.「もうダメだ」ではなく「まだダメだ」
 たいていの人間は、ほんとうの限界を知る前にあきらめてしまう。そして、うまくいかない原因を才能の有無に求めてしまう。豊かになった現代では、ほかの道で生きていくこともできるし、何でも懇切丁寧に教えてもらえる。けれども、真の限界に突き当たり、自らそれを乗り越えようとする気持ちを持たなければ、同じことを繰り返すだけだ。限界だと挫けそうになったときは、「もうダメだ」ではなく「まだダメだ」と考えるべきなのである。
6.若いときに流さなかった汗は、年老いて涙に変わる
 誰でも最初は大志を持っている。しかし、環境に慣れ、それなりに仕事をこなせるようになると、手を抜くことを覚えたり、遊びに精を出したりして、初心を忘れてしまう。もっと向上しようという意欲が薄れてしまう。そして、気がついたときにはもはや手遅れになってしまうのだ。
 若いときに怠けたり、楽をしたりして流すべき汗を流さないと、歳をとってから泣くことになる。だから昔からいうのである。「若いときの苦労は買ってでもしろ」と――。
7.開き直りとやけくそ、やぶれかぶれは違う
 私にいわせれば「開き直り」とは、できるかぎりの準備をしたうえで、それでも追い詰められたとき、覚悟を決めてその瞬間に自分の持っているすべてを出し切り、燃焼することである。「人事を尽くして天命を待つ」といってもいい。だから成功する確率が高くなるわけだ。対して「やけくそ」とは、何の準備も考えもなしに、イチかバチの賭けに出ることをいう。「あとは野となれ山となれ」ということだ。つまり、日頃の研究、工夫、努力、練習量、経験に裏打ちされない開き直りは、たんなるやけくそ、やぶれかぶれに過ぎないのである。そこを誤解してはいけない。

(5月27日生まれの偉人)
◆頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日(1855年5月27日) - 昭和19年(1944年)10月5日、幼名:乙次郎)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥。号は立雲。
 玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民吉野作造などの民権運動家や、大杉栄などのアナキストとも交友があった。また、鳥尾小弥太・犬養毅広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。
 条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、韓国の金玉均、中国の孫文蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボースベトナムファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。
○7年前に福岡の玄洋社記念館(頭山満)をたずねる。今はNTTドコモ九州ビルの一角に「玄洋社跡」という碑が建っている。そこからさほど遠くないビルの2階に記念館はあった。商法制以前、社は志を同じくする人間が集まって研鑽をはかる士族の結社という意味を持っていた。
 玄洋社は「皇室を敬載すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」との三原則を基幹とした政治結社明治12年にこの名前になった。先日佐賀の大隈記念館で大隈外相を襲い条約改正を葬った来島恒喜が玄洋社社員だったことを思い出した。玄洋社は、自由民権運動憲法の新設、国会の開設、祖国の国力伸張に奔走する。また屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基づくアジア民族の自決独立の援助を行う。孫文を助けるなど中国革命における玄洋社の存在は大きく第二次世界大戦終了直後まで日中平和工作を継続していた。記念館入り口の写真や関係者の名簿に度肝を抜かれる。頭山満広田弘毅中野正剛緒方竹虎、進藤一馬などそうそうたる人材が輩出している。1946年に玄洋社は占領軍により強制的に解散される。
その玄洋社創始者の一人が頭山満である。遠山は1855年生まれで1944年に亡くなっている。「ふるさと博多」シリーズという小冊子には「無位、無冠。在野の頭領。不思議な大きなひと」との評が出ている。萩の乱連座し投獄、出獄後は板垣退助と交わる。向陽社・玄洋社を組織。福稜新報を創刊し社長。大隈外相爆弾事件にかかわる。満州義軍結成を支援。浪人会を結成し大正デモクラシーの風潮と対決。純正普選運動を展開。孫文、ボースら亡命政客を保護。戦前右翼界の長老として晩年は神格化される。記念館には孫文玄洋社墓地訪問の写真、中野正剛の東条首相への抗議文と抗議の自殺(57歳)の記事、広田弘毅の「春風接人 秋霜自粛」の書、日本相撲協会を応援した写真などが所狭しと並んでいる。ロシア革命時に活躍した明石元二郎などの名前もみえる。歴史の重みと憂国の想いにあふれた不思議な空間である。
 玄洋社は向陽義塾を開設、名を藤雲館と改める。それが後の学制改革で中学・修猷館となる。義塾を手放すと同時に柔道の明道館と剣道の一到館を設け文武両道の青年の育成に力を注ぐ。後に明道館から広田弘毅、一到館からは緒方竹虎などが出る。
「人間は魂さえ磨いて居ればよい。ほかに何も考えることはいらん。国も人も魂じゃ。魂の無い国、魂の無い日とは国でも人でもない」
「人間は火のついた線香じゃ。それに気がつけば誰でも何時かは奮発する気になるじゃろう。老若真に一瞬の間じゃ、気を許すな」
「青年は圭角がなければならぬ」
「天下の諤諤も君が一撃に如かず」(大隈爆弾事件の来島恒喜葬儀の弔辞)
◆中曽根 康弘(なかそね やすひろ、1918年(大正7年)5月27日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(20期)、科学技術庁長官(第7・25代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第34・35代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第71・72・73代)、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第11代)などを歴任した。。改憲はできなかったものの国鉄電電公社日本専売公社民営化を実現し、外交ではレーガン米大統領との盟友関係を築いた。62年退陣。


<昨年の今日>は空白である。