島耕作流プロフェッショナルサラリーマンとは。そして.「アフリカの成長をとりこめ“チームジャパン”の新戦略」とは

◆俣野成敏さんの『プロフェッショナルサラリーマン ― 実践Q&A編』の中で、俣野さんと『島耕作』シリーズでおなじみの弘兼憲史さんとの対談が収録されていた。その対談パートからポイントをあげてみると、
【ポイント】
1.上司には可愛がられるようになる。
 いつも反抗的な態度をとったり、上司の言うことも聞いてるんだか聞いてないんだかみたいな態度はよくない。本当は聞いてなくてもいいから、まっすぐ上司の目を見て相づちを打ちながらメモをとったりすれば、もうそれだけで上司はうれしいもの。たとえばローソンの新浪剛史社長は、経済同友会あたりのべテラン経営者たちから非常に好かれている。体育会系でシャキッとしているし、相手の目を直視して、「はい! わかりました!」と大声で返事をする。だから「こいつは可愛いやつだ」と思われる。それは組織のなかで仕事をする以上、やっぱり必要なこと。おべっかを使ったり、摺り手操み手をしろと、いうことではない。「体育会系」ということでは、楽天三木谷浩史会長もそう。そして、プロ野球参入時に堀江貴文さんが三木谷さんに敗れたのも、三木谷さんがオリックス宮内義彦さんや西武の堤義明さんといった「重鎮」に好かれていたから、と言われているし、この教えはまんざらではなさそう。
2.不平不満を言わない
 その「上司に好かれる」ためのポイントがこれ。上司から好かれるために一番大切なのは、不平不満は絶対言わないということです。誰だってみんな不平不満はあるに決まっている。でも絶対に口にしちやいけない。僕は心の中でさえ不平不満を持たないようにしていた。不平を言ってると自分の中の生産的なものが全部消えていくし、上司のやることも全部否定したくなってしまう。だから仮に上司から納得できないことを言われても、「これはいいことを教えてもらってるんだ」と思うように。言わないだけでなく、「心の中でさえ持たない」というのはスゴイ。島耕作も、相手に交渉することはあっても、不平不満を口にするのは、あまり見たことがない。また、「メチャクチャ理不尽なことを言われたら、それを状況中継するように楽しめ」と。
3.目の前の仕事を一生懸命やる
 ビジネスマンとして大成した人は、たとえばユニクロの柳井(正)さんにしても、ソフトバンクの孫(正義)さんにしても、そんなに先の大きな計画は考えていないんじやないかな。とにかく目の前の仕事を一生懸命やってきただけだった。たぶんチャンスって、どんな人にも平等に目の前をスーッと流れていく。だから孫さんみたいにいきなリボーダフォンを買わないかみたいな話があったとき、2兆円出してもバクッと食いつく力があるかどうかでしようね。そこまで大きな話は僕らにはこないけど、それぞれ分相応にその人なりのチャンスっていうのはくる。そして、そうやって目の前の仕事に食らいついていれば、「目の前に来るチャンスの数も飛躍的に増える」とのこと。また同時に「やりた仕事にこだわる」のではなく、「苦手な仕事でも面白いところを探す」ことを薦められていた。
4.部下は徹底的にほめる
 「徹底的にほめる」。A君という人がいて、彼は全体の3割はすごくいいんだけど、あとの7割が全然ダメだとしましょう。でも僕はこういう場合でも絶対に叱らない。3割のいい部分をほめてあげます。本当は「君、ここを何とかしろ」と言いたいんだけれど、「ここ君、うまいじゃないか」と言う。するとA君はものすごくやる気を起こして頑張るので全体が底上げされる。するとダメな部分まで持ち上がってきます。逆にダメなところを直せとうるさく言ってると、いい部分まで沈んでしまう。
5.自分の「武器」を持っておく。
 島耕作は転職はしない。そこで必要なのが「英語力」を初めとした「ビジネススキル」である。言語に限らないが、そういう自分の武器になりそうなものをたくさん持って、ある種の武装をしておいたほうがいい。チャンスはいつ巡ってくるかわかりませんから、今まで自分がやった仕事の実績をパソコンなどに入れていつでもすぐに見せられるようにしておくとか。自分の会社はいつなくなるかわからない、自分はいつクビになるかわからない、という危機感を常に抱いていたほうがいい。確かに、自分の意志で転職するツモリはなくとも、会社が潰れたり、リストラされる可能性は常にある。「上司は自動車教習所の教官のようなもの」「ブレーキは踏めてもアクセルは踏めない」なんていうのは言いえて妙である。
 逆転してしまったが、『プロフェッショナルサラリーマン ― 実践Q&A編』本体から抜き書きすると、
 ・成果をあげ続ける人は、悩みをあえて自分から創造している。
 ・成長したければトップとしての経験を積めばいい。何も起業せずとも、小さな組織の頂点に立つことなら、会社員のままでも可能。
 ・よく「過去は変えられない」と言うが、僕は過去さえも変えられるんじゃないかと思う。なぜなら過去というのは自分の記憶そのもの。「辛」という字 も「一」つ付け加わると「幸」という字になる。「辛い」ことを取り除くことが幸せではなく、「辛い」ことに“何か”を足すことが「幸せ」になるので はないか。
 ・定年まで確実に続けられる仕事などないと思ったほうがいい。基本的にすべてのレールには有効期限があって、途中で切れているという前提に立つ。
 ・肝心なのは、同族企業であることを言い訳にしない。「同族企業だからいくら頑張ってもムダ」と言う人は、もし同族経営ではない会社に入ったとして も、今度は別のうまくいかない理由を探し始める。
 ・露骨に不満を抱きながら仕事をしていては、会社に投資を失敗させることになってしまう。
 ・間接部門にとって、「これ、外に売れるよ」というのは最高のほめ言葉。仮に転職することになっても、「私はこの会社でこういうシステムをつくりま した」と言えれば、これ以上の武器はない。
 ・いい上司ならやる気になって、イヤな上司ならやる気を失うとしたら、それは完全に他人依存の人生ということ。
 ・男性には「俺と一緒に歴史をつくろうぜ」といった壮大なビジョンを示し、女性には「何が心配なの?」と問いかけて不安を全部吐き出させ、それを一 つひとつ解決していくというスタイルが有効。
 ・人間力を育むために意識すべき2つのこと
 1.部下や後輩に手柄を譲ること
 2.許すこと
 ・会議の目的は、「情報共有」「意思決定」「一致団結」の三つ。この目的を常に念頭に置くことで、参加者全員の時間を有効に使うこと。
 ・どんな人とでもぶつからないだけの適度な距離感を保てばいい。

◆「アフリカの成長をとりこめ“チームジャパン”の新戦略」(2013年5月30日放送 19:30 - 19:58 NHK総合クローズアップ現代」より)
 毎年5%以上の成長を続ける最後のフロンティアであるアフリカ。経済再生を図る日本からの企業進出が相次いでいる。そのアフリカで今存在感を急速に高めているのが中国。対抗する日本は政府と企業がタッグを組む新たな取り組みで巻き返しを図ろうとしている。様々なリスクを克服してアフリカの成長をいかに取り込むか、チームジャパンの新戦略に迫る。
 紛争やテロ、干ばつなどの異常気象による飢饉、そして貧困。こうした苦難と向き合ってきたアフリカは一方で急激な変貌を遂げている。サブサハラGDPを合計したものは2000年には30兆円台だったが、2011年には129兆円と成長の勢いは止まらない。その成長にいち早く反応しているのが国をあげてアフリカ進出を図る中国。中国のアフリカとの貿易額をみると2000年から僅か10年程で約20倍まで増加し世界の中でも突出している。一方日本は大きな差をつけられているのが現状だ。巻き返しを図るため日本はアフリカ戦略の重点をこれまでの援助からビジネスに転換した。横浜で行われるアフリカ開発会議でもビジネスを通じた日本とアフリカの新たな協力関係について各国の代表が話し合うことになっている。日本がアフリカの成長を取り込もうとしている分野の1つが食糧だ。アフリカ南東部にあるモザンビークでは日本向けの大豆を生産するプロジェクトが進行している。成功する鍵を握るのは日本政府と企業が手を組んだチームジャパンだ。
 先月アフリカのモザンビークから農業大臣が来日した。食用大豆をモザンビークで栽培したいと訴えているのは日本の大豆加工メーカーだ。世界では大豆の需要が10年間で3割以上も急増、新たな産地として広大な農地が広がるアフリカが注目されている。日本政府は4年前モザンビーク政府の要請を受けて北部を穀倉地帯に変えること計画を打ち出した。大豆などを生産し、港や幹線道路を整備し日本へ輸出する計画だ。石炭や天然ガスなどの資源も豊富でエネルギーから食料まで得ようとしている。先週日本の商社や大豆加工メーカーの人達がモザンビークを訪れた。伊藤忠商事の天野敏也さんもその一人だ。出迎えたのは現地のJICAモザンビーク事務局の宮崎明博さん、大豆プロジェクトの日本政府側の責任者。去年からJICAの農業専門家達が中心となって日本向けの大豆の試験栽培を始めている。モザンビークでは今イギリスやインドなどが大規模な農場経営に参入。世界最大の大豆輸入国中国も去年農業支援センターを開設した。現金収入が得られる栽培方法を農家の人達に教えている。収入が約70倍に増えたという人もいる。モザンビークの農家はほとんどが家族経営の小さな農場を営んでいる。彼らを味方につけるために考えたのが日本政府と民間企業の役割分担。日本向けの大豆の栽培方法を農家に指導するのはJICAの役割、農家は自分の畑で大豆を栽培しできた大豆を必ず買い取り販売するのが商社の役割。農家は確実に利益を得られる仕組みである。商社の天野さんも交渉に乗り出した。農家を指導するリーダーに対しまとまった量を作ってもらえるよう働きかけた。天野さんは中国に対抗するためにも早く生産を始めたいと呼びかけた。日本政府側の責任者である宮崎さんは港を管轄する省庁の責任者と話し合った。北部の穀倉地帯に繋がる港は日本政府の援助で整備される予定。大豆を蓄える施設の建設など日本の意向を反映させることができる。アフリカの成長を日本の成長に結び付けられるかは、政府と企業の連携が鍵を握っている。チームジャパンが大豆をターゲットに活動を進めていることについて、アグリビジネスを作り出していくのは日本のチャレンジである。豆類は空中の窒素を土壌に入れてくれるので大豆を生産すると土壌が豊かになる。モザンビークは労働力の80%が農村にいるが食糧は自給出来ておらず輸入している。モザンビークにとってみると食糧自給化を測り健全な経済発展の道筋が開けるのではとの期待がある。日本にとってみれば欠点であったアグリビジネスを始めていこうというのがある。日本はモザンビークで色々な資源を開発しようとしている。大きなプロジェクト間のシナジー効果で資源を提供してくれる国を安定させるモデル的なプロジェクトが展開している。資源提供国に安定した経済発展を願っているので資源を取るだけでなく農業プロジェクトも一緒に進めていくのは望ましい形。中国がアフリカに求めているもの、日本がアフリカに求めているものは少し違う。具体的には中国は原油、ベースメタルを主に開発しているが、日本は天然ガスレアメタルを求めている。今後アフリカ進出する時に日本はどういう視点を持っていけばいいのかという点については、韓国も同じ状況であり中国の巨大化によって世界のモノ作りの中心地である東アジアは資源が足りなくなってきている。日本も韓国もこれまで多くの資源を中国からの輸入に頼っていたが新たな供給地、アフリカという地域と東アジアという地域の関係が深まっていく。その中で日本はどういう立ち位置をとるのが一番効率的なのか考える必要がある。
 拡大する市場を狙って生産拠点を設ける日本企業が増え始めている。バイクメーカーのホンダは一昨年からナイジェリアでの生産を大幅に拡大した。工場長の高村誠夫さんは従業員200人を指導している。3年前着任した当時は従業員のモノ作りへの姿勢に愕然したという。部品の付け忘れを防ぐために高村さんは工場の壁に写真を貼った。ホンダがナイジェリアで販売しているオートバイはバイクタクシー向けで価格は5万円。圧倒的なシェアを占めるのはインド製や中国製のオートバイ。中国製のオートバイは部品が段ボールで届けられバイクショップで手作業で組み立てられる。価格は一台約4万円。これに対抗してホンダは品質の良さを売りに販売を伸ばそうとしている。生産台数や不良品の数を従業員がホワイトボードに記入し、合格率を出す。3年前より30ポイント以上改善した。しかし高村さんは更に改善が必要だという。資源開発の現場でも企業が直面するリスクがある。マダガスカル住友商事がカナダなどの企業と共同でニッケルとコバルトの開発を進めている。マダガスカルでは4年前クーデターが発生。鉱山開発を推し進めた前政権が崩壊した。翌年鉱山でデモが起きた。施設の建設で雇われた労働者の一部が完成後も雇い続けるよう求めたのだ。そのため2万人に手当を払うことにした。要求は次第にエスカレート。アフリカで労働者の不満や地域住民の要求にどう対応していくべきか思考錯誤が続いている。失業者への保障や支援を求められるのはコストではあるがリスク管理でもあると話した。従業員の不満が最悪の場合テロ組織に利用されることもあり、不満が高まらないようにする環境を作っていくことはリスク管理の手法でもある。アフリカでは今メガプロジェクトという10億ドル単位のプロジェクトが主体で官民連携全盛だと話した。明後日のアフリカ開発会議では日本がアフリカをどう考えているかをアフリカにわかってもらうことを期待していると話した。


(5月30日生まれの偉人)
◆杉田久女(すぎた ひさじょ、明治23年(1890年)5月30日 - 昭和21年(1946年)1月21日)は明治〜昭和期の俳人。本名は杉田久(すぎた ひさこ)。明治23年5月30日生まれ。福岡県小倉にすみ「ホトトギス」に投句し,高浜虚子に師事。昭和7年「花衣(はなごろも)」を創刊,主宰。同年「ホトトギス」同人となるが,11年除名される。昭和21年1月21日死去。57歳。鹿児島県出身。東京女高師付属高女卒。旧姓は赤堀。本名は久子。
作品「足袋つぐやノラともならず教師妻}(「杉田久女句集」)
◆大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。
 長州征討と戊辰戦争長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)、のちに益次郎。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。


<昨年の今日>は空白である。