連続8カ月ブログ達成。

 もうすぐ300日ですか。9ヶ月で再びブログ公開しますか。ようやく5月も終わり。早くも季節は梅雨。暫くじめじめした季節が続きそうである。
いろいろとあった五月でした。精神的にはモチベーションが低下してつきでもあった。常にこれからの自分のありようを考えていても、実現できない自分に情けなさを覚える。しっかりせよと自分を鼓舞してもどうしようもない自分の姿がそこにある。情けない日々である。出るのはため息ばかりなり。

(5月31日うまれの偉人)
◆土方 歳三(ひじかた としぞう、天保6年5月5日(1835年5月31日)〜明治2年5月11日(1869年6月20日))は、幕末期の幕臣新選組副長。諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。新選組時代には、鬼の副長と称され隊士たちから恐れられた。
 戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として武名を顕し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。明治2年5月11日、箱館五稜郭防衛戦にて戦死。享年35。
●3年前に、日野市にある新選組関係の三つの資料館を訪ねる。土方歳三、と井上源三郎新選組、佐藤彦五郎はその支援者である。それぞれの子孫が自ら資料館にいて、解説をしてくれるという珍しい連携である。半日かけると新選組の全貌がみえるという企画になっているのが素晴らしい。4つ施設をまわって最後に、この3月にオープンした日野市立新選組のふるさと歴史館でこの新選組ツアーが終了する。
 1834年生まれの近藤勇1827年生まれの佐藤彦五郎、そして小島資料館の小島鹿之助は、義兄弟のちぎりを結んでいた。また、新選組の多摩四人衆といわれたのは、近藤勇土方歳三沖田総司井上源三郎である。この多摩地区には本来の武士集団はいない。徳川幕府の直轄地である天領であったため、徳川家に対する忠誠心が強く、また武道をたしなむ尚武の風がある土地柄である。徳川幕府への忠誠、新政府批判、そして自由民権運動、国会開設への流れが、この多摩にはあきらかにある。
 土方歳三資料館にみる新選組副長として天下に名をとどろかせた一代の英雄・土方歳三(1827-1869年)。司馬遼太郎の名作「燃えよ!剣」やNHK大河ドラマでの颯爽とした姿、函館五稜郭の記念館などで土方の人生には触れる機会が多かったが、今回は育った実家にある資料館を興味深くみた。「歳三という男は、軍議などの際、部屋に入ってくると清らかな風がなびくようなそんなさわやかな人物であった」という意味の書だった。遺品の鎖帷子(くさりかたびら)があった。これは戦闘時に着用した鎧のようなものだが、右後方に槍で突かれた穴があったのはなまなましい。土方家は、副業として石田散薬を開業していた。打ち身、くじき、骨接ぎの特効薬で、歳三はこれを各地に売りながら、諸国の情報に詳しくなったようだ。俳句もたしなみ「豊玉」(ほうぎょく)という俳号も持っている。土方歳三は、剣と教養の人だった。
 日野宿本陣は、武州日野宿総名主屋敷。天然理心流佐藤道場跡。本陣とは殿様が指揮をとるところという意味で名主の家がそれになる。この立派な建物は佐藤彦五郎が建てた。ケヤキの大黒柱が45センチあり実に立派だ。ここの一室に土方歳三が京都から戻った時に泊まった。その部屋には「及武及文」という額が掲げてある。文武両道という意味だが、武が先に書いてあるのは多摩らしい。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120531/p1