今日からまた仕事です。課題を与えて過ごす。

◆昨夜9時に就寝したこともあり、4時に起床。昨日も5時。疲れているせいか少し身体がだるい。今日は何とか約束の原稿作成にいそしんでいこう。きょうも頑張るぞ。
とはいっても、「人として生きるのか。夫として生きるのか。子として生きるのか。遅々としていきるのか。全てを受け止めなければなるまい。還暦、定年、再就職、介護、老後、養育、夢、、、。様々な思いが去来する。でも、そこには、「人生の楽園」と呼ばれる物は何もない。そして自分自身の人生の「成長戦略」もない。苦悩の日々である。安きに、そして楽な方向に流れていく自分がそこにある。これで良いのか。まさに、人生の「迷路」状態。自らに情熱がない。モチベーションが低下。不安。」の気持ちは変わらず。どうモチベーションを上げて行くのか。
 でも、原稿作成で一日を過ごす。自分のモチベーションを上げるより、自らに課題を与えたほうが、集中力が上がるようだ。情けないが、これが現実。毎日毎日課題を与えた方がよさそうである。でも本来、仕事の本質は課題の解決であり、その方が生産性があがるということかも。

◆『重要なことは、批評する者ではありません。強い男のつまずきを指摘したり、立派な仕事をした者にケチをつけたりする人間でもありません。真に賞賛しなければならないのは、泥と汗と血で顔を汚し、実際に戦いの場に立って勇敢に努力する男。努力に付きものの過ちや失敗を繰り返す男です。
 しかし、彼は実際に物事を成し遂げるため、全力を尽くします。偉大な情熱と献身を知っています。価値ある大義のために全力を傾け、最後には赫々たる勝利を収めます。例え、敗れる時があっても敢然として戦いつつ敗れます。だからこそそういう男を、勝利も敗北も経験しない無感動で臆病な連中と断じて同列に並べるべきではありません。』
 第26代米国大統領セオドア・ルーズベルト (Theodore D.Roosevelt, 1858年10月27日 - 1919年1月6日)


(6月10日生まれの偉人)
◆七代目 松本幸四郎(しちだいめ まつもと こうしろう、1870年(明治3年)5月12日(6月10日) - 1949年(昭和24年)1月28日)は、歌舞伎役者。本名は藤間金太郎(ふじま きんたろう)。舞踊の名跡は三代目藤間勘右衛門 → 藤間勘斎。屋号は高麗屋。俳名に錦升・琴松・紫香、雅号に白鸚がある。
1911年(明治44年)11月、帝国劇場で七代目松本幸四郎を襲名。その後は帝国劇場を拠点に活躍し、新作、翻訳劇、オペラにも挑戦、『露営の夢』の上演を試みている。晩年になっても積極的に舞台に出演、1946年(昭和21年)には最後の『勧進帳』を勤めている。また翌年には、『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言も勤めあげた。
1949年(昭和24年)2月の大阪歌舞伎座助六』で三代目市川壽海助六を勤めるにあたり、七代目は以前から出端の唄の振りの稽古をつけに行くことを約束していた。しかしそのとき体調を崩して寝込んでいたので、名代として門弟振付師の藤間良輔が出向くことになり、師匠に伺いをたてに行ったが、「聞いて分かるものじゃない、なまじっかなものを伝えては済まないから」と、わざわざ床から起き下駄をはいて、舞の要を幾度も見せた。その翌日死去。壮絶な最期だった。
◆酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年明治26年)6月10日 - 1971年(昭和46年)2月16日)は、貴族院議員、貴族院副議長、農林大臣、勲一等瑞宝章・伯爵、中央農業会長、日本中央競馬会理事長、横綱審議委員会初代委員長、相撲博物館初代館長、雅楽頭系酒井家宗家第21代当主、大東文化学院総長・大東文化学院専門学校校長(第11代)などを歴任した。
◆久野 収(くの おさむ、1910年6月10日 - 1999年2月9日)は、日本の哲学者・評論家。大阪府堺市生まれ。1934年京都帝国大学文学部哲学科卒業。体系だった著作や、いわゆる「主著」と呼ばれるものがないものの、多くの評論や対談などを通じて、戦後日本の政治思想や社会思想に大きな影響を与えた。また、「戦後民主主義」の形成に寄与した人物の一人である。久野を理解するキーワードは「市民」であると言われている。
ジェームス三木(ジェームスみき、男性、1935年6月10日 - )は、日本の脚本家、作家、演出家、元歌手。本名、山下清泉(やました きよもと)。
◆稲尾 和久(いなお かずひさ、1937年6月10日 - 2007年11月13日)は、大分県別府市出身のプロ野球選手(投手)・監督、野球解説者・評論家。1956年に大分県立別府緑丘高等学校(現:大分県立芸術緑丘高等学校)から西鉄ライオンズに入団。高校時代の先輩に河村久文、同期入団に畑隆幸がいる。高校時代は全く無名の選手で、南海ホークスが獲得に動いていると知って初めて西鉄も獲得に乗り出したという。この時南海とは一旦契約寸前まで話が進んだが、父・久作の「大阪に行くよりも、何かあればすぐに戻って来られる九州の方がいい」という言葉や、西鉄に高校の先輩河村がいたこともあり、西鉄入団を決意した。このとき河村は西鉄経営陣に稲尾獲得を進言したとも言われている。入団当初は注目された選手ではなく、監督の三原脩も「稲尾はバッティング投手(打撃投手)として獲得した」と公言していた。実際、島原キャンプでは中西太豊田泰光高倉照幸ら主力打者相手の打撃投手を務めており、口の悪い豊田からは「手動式練習機」とも呼ばれていた。この時、稲尾は各打者の打撃練習中に4球に1球ボール球を投げるように指示された(ストライクを投げ続けていると打者が打ち疲れてしまうため)。この4球のうちの1球をストライクゾーンのコーナーギリギリを狙って投げる練習をし、制球力を磨いた。キャンプ後半になると、投手として成長した稲尾の前に逆に打者が打ち取られる場面が増えたため、中西と豊田が三原に「稲尾を使ってみてほしい」と進言したという。
 1957年に当時のプロ野球記録となるシーズン20連勝を記録するなど35勝を挙げ、史上最年少でのリーグMVPに選出。1958年には33勝で史上初の2年連続MVPを獲得した。読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは、第1戦を稲尾で落とし、第2戦も敗戦。平和台球場に移動しての第3戦、稲尾を再び先発に立てるも敗れて3連敗と追い込まれた。降雨による順延で中一日をはさんだ第4戦、三原監督は稲尾を三度目の先発投手に起用してシリーズ初勝利。第5戦でも稲尾は4回表からリリーフ登板すると、シリーズ史上初となるサヨナラ本塁打を自らのバットで放ち勝利投手となった。そして舞台を再び後楽園球場に移しての第6・7戦では2日連続での完投勝利で、西鉄が逆転日本一を成し遂げた。稲尾は7試合中6試合に登板し、第3戦以降は5連投。うち5試合に先発し4完投。優勝時の地元新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが踊った。三原はこのシリーズで稲尾を登板させ続けたことについて、「この年は3連敗した時点で負けを覚悟していた。それで誰を投げさせれば選手やファンが納得してくれるかを考えると、稲尾しかいなかった」と告白した。後年、病床に伏していた三原は、見舞いに訪れた稲尾に対し「自分の都合で君に4連投を強いて申し訳ないものだ」と詫びたが、稲尾は「当時は投げられるだけで嬉しかった」と答えている。1959年も30勝を挙げ、史上唯一の3年連続30勝を記録した。中西や豊田、大下弘仰木彬らと共に、3年連続日本一(1956年 - 1958年)を達成するなど、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄黄金時代の中心選手として活躍した。本多猪四郎監督による映画「鉄腕投手 稲尾物語」が製作され、全国上映されている。日本シリーズには通算4回出場し、通算8回出場の堀内恒夫と並び日本シリーズ最多タイの通算11勝を挙げている。
の更新に目標を切り替えていたため。この間に1勝を上積みし、シーズン42勝とした。しかし、稲尾が「新記録」を樹立したことで改めてこの記録の扱いが議論に上り、最終的には「あとから見ておかしなものでも当時の記録員の判断に従うべき」という理由で再びスタルヒンの記録が42勝に変更された。それに伴い稲尾の記録もまた新記録からタイ記録へと変更された。結果的にあと1勝を上積みしたことによって稲尾はタイ記録に名を残すことができたが、稲尾は

<昨年の今日>もまた空白である。

<本の紹介>
安藤忠雄 仕事をつくる―私の履歴書 http://d.hatena.ne.jp/asin/4532168163
・日本の成長戦略 http://d.hatena.ne.jp/asin/4502695106
私の履歴書 http://d.hatena.ne.jp/asin/4532093058
・経営はロマンだ! 私の履歴書小倉昌男 (日経ビジネス人文庫) http://d.hatena.ne.jp/asin/4532191629 
・世界で最も読まれている株の名著10選 (日経ビジネス人文庫) http://d.hatena.ne.jp/asin/4532196809
・やればわかる やればできる?クロネコ宅急便が成功したわけ
・統計で読み解く日本経済 最強の成長戦略 http://d.hatena.ne.jp/asin/4799313215

<昨年の今日>また本日も空白である。