これからの生きがいを探すための『40歳を過ぎたら、三日坊主でいい。 新・ミドルエイジ論』(成毛眞著)にみるヒント

◆これからの生きがいを探すための『40歳を過ぎたら、三日坊主でいい。 新・ミドルエイジ論』(成毛眞著)にみるヒント
 今更。我々の何代には、この本は遅いのかも知れないが、これからの人生をどう生きて行くのか、自分探しの第二・第三の人生をどう探していくののか、どう生きていくのか示唆の富む指摘が沢山ある。人生をどう楽しむのか。何かに打ち込み、これからの人生を生きていくのか。考えさせられる一冊である。もう少し若い時期に読めればよかったかもしれない。
【ポイント】
1.会社にしがみつく
 会社が倒産した、リストラされた、というやむを得ない事情なら仕方がないが、転職すべきかどうか迷っている人は、そのまま会社にしがみつくべきだと断言できる。40歳以上を雇おうとする企業は、皆無に等しい。若者を安くこき使えるほうが企業にとってはありがたいし、しかも若者は仕事を覚えるのが速い。下手にほかの企業のカラーに染まっているミドルを使いこなすほうが、企業にとっては厄介なのである。
 →経験上、40代を過ぎたら、まして我々の年代を、確かに我々の年代をあえて取る企業は皆無に過ぎない。いかに、嘱託であれ、居間の会社のしがみつくしかないのも、現実。ましてシニア起業はカッコ良いが、成功するのはほんの僅か。
2.「何のために生まれたのか」を考える
「何のために働くのか」という永遠のテーマを考える前に、「何のために生まれたのか」という問いを考えてみるべきだ。仕事もその道楽の1つであり、生きがいや自己実現を考えたことなど一度もない。そういう人生の本筋を忘れなければ、どのような人生であっても楽しめると思うのだ。→仕事人間の我々は仕事を失ったら、人生を失うに等しい。まさに、人生を楽しむことが大事。仕事を楽しむ感覚がなければ、人生を楽しむことができない。気づくのが遅いが、居間の仕事を楽しむようにしていきたい物である。
3.視野を広げる
 視野というのは、自ら広げることもできれば、自ら狭めてしまうこともある。毎日、会社と家との往復しかしていなければ、話題のネタがなくても当然。視野を広げるには、自分からあちこちに足を運ぶしかない。多くの経営音は忙しくても多趣味で、自分の時間を有意義に使っている。忙しくても好奇心の強い人は、きっちり遊んでいるのだ。→好奇心旺盛は結構なこと。私みたいに材木屋も結構だが、実践しなkれば意味がない。いづれも中途半端では仕方がない。人は努力を重ねて。発展できるような途上人であるべき。
4.過去のしがらみを捨て去る
 ミドルエイジが軽やかに生きていくためには、「記憶力」よりも「忘れる力」が必要である。それも、過去の栄光こそ、忘れたほうがいい。過去の自慢話をしているオヤジほど、みっともないものはない。毎朝、新しい人生をスタートさせるようなつもりで、過去のしがらみを捨て去る。→仕事人間はどちらかと言えば、肩書き人間。個人として、どう生きていけるのであろうか。肩書きがなくても、個人としてどう生きていけるのであろうか。
5.命令口調で接しない
 人は弱い生き物だ。ある程度の地位を得て、周りからチヤホヤされると、自分を見失っていく。そこで謙虚な気持ちを持ち続けるのは、よほど心の強い人でないと難しいだろう。人に命令口調で接するようになったら、自分を尊敬させたがっている病の兆候が表われているのだ。この病は誰の心にも潜んでいるもので、気を抜いたらムクムクと頭をもたげてくる。→これはまさに、肩書き社会の延長であり、いかにそこから脱却するのかが大事。人として、長幼の序だけは尊重したいものである。
6.長く続ける
 長く続けられるということは、自分に合っているということである。ただし、長く続けられるものを探すのだ。→これからの自分の生きがい探しの旅にでることになろう・
7.狂うほど何かに打ち込む
その段階で後悔することに比べたら、遊んでばかりで仕事を疎かにする後悔など、とるに足らないだろう。ミドルエイジは、人生の折り返し地点を過ぎた世代である。残りの人生をどう生きるか――。

(主な業務)
・中学校長との営業内容の説明
・他部門との本年度の営業活動依頼
・本年度の提案内容の検討 ほか
 余談だが、とうとうブログ連続260日を達成。7月中には、300日が行けそうである。偉人カレンダーも1月1日よりスタートして、168日になる。今月で半分を迎える。これも一年継続できたら最高である。

(6月17日生まれの偉人)
◆保科 正之(ほしな まさゆき、慶長16年5月7日(1611年6月17日)〜寛文12年12月18日(1673年2月4日))は、江戸時代初期の大名。会津松平家初代。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。
 寛永13年(1636年)には出羽山形藩20万石を拝領した。村山郡白岩領主酒井忠重に対して起きた白岩一揆の関係者を捕縛し、処刑する。寛永20年(1643年)、陸奥会津藩23万石と大身の大名に引き立てられる。以後、正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。慶安4年(1651年)、家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦った。
◆西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年6月17日(明治3年5月19日) - 1945年(昭和20年)6月7日)は日本を代表する哲学者。京都大学教授、名誉教授。京都学派の創始者。同郷の鈴木大拙(本名:貞太郎)、山本良吉、藤岡作太郎とは石川県専門学校(第四高等中学校の前身、のちの第四高等学校)以来の友人であり、西田、鈴木、藤岡の三人は加賀の三太郎と称された。
江戸時代西田家は、十村(大庄屋)を務めた豪家だった。若い時は、肉親(姉・弟・娘2人・長男)の死、学歴での差別(東京大学における選科〔聴講生に近い立場〕への待遇)、父の事業失敗で破産となり、妻との一度目の離縁など、多くの苦難を味わった。そのため、大学卒業後は故郷に戻り中学の教師となり、同時に思索に耽った。その頃の思索が結晶となり、『善の研究』(弘道館、1911年1月)に結実、旧制高等学校の生徒らには代表的な必読書となった。
 哲学への関心が芽生えたのは石川県専門学校に学んだときのことである。ここで古今東西の書籍に加え、外国語から漢籍までを学んだ。また、自由民権運動に共感し、「極めて進歩的な思想を抱いた」という。だが、薩長藩閥政府は自由民権運動を弾圧、中央集権化を推し進める。そして彼の学んでいる学校は、「第四高等中学校」と名称が変わり薩摩出身の学校長に代わる。規則ずくめとなった校風に反抗し学校を退学させられるが、学問の道は決して諦めなかった。翌年、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し、本格的に哲学を学ぶ。故郷に戻り、教職を得るが、学校内での内紛で失職するなど、在職校を点々とする。
自身は苦難に遭ったときは海に出かけることで心を静めたという。世俗的な苦悩からの脱出求めていた彼は、高校の同級生である鈴木大拙の影響で、禅を打ち込むようになる。20代後半の時から十数年間徹底的に修学・修行した。この時期よく円相図(丸)を好んで描いていたという。その後は、哲学以外にも、物理・生物・文学など、幅広い分野で、学問の神髄を掴み取ろうとした。京都帝国大学教授時代は、18年間、教鞭をとり、三木清西谷啓治など多くの哲学者を育て上げている。
西田幾多郎が散策した琵琶湖疏水沿いの道は「哲学の道」と呼ばれ、日本の道百選にも選ばれている。


<昨年の今日>は空白である。

<本の紹介>
漢籍輸入の文化史―聖徳太子から吉宗へ (研文選書) http://d.hatena.ne.jp/asin/4876361436
・カメラが撮らえた 最後の将軍と徳川一族 (ビジュアル選書) http://d.hatena.ne.jp/asin/4404043104
京都帝国大学の挑戦 (講談社学術文庫) http://d.hatena.ne.jp/asin/4061592963
                   http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061592963/hatena-ud-22/ref=nosim
松平容保―武士の義に生きた幕末の名君 (PHP文庫) http://d.hatena.ne.jp/asin/4569569765