今日も再び週末農業。そして都議選の結果は?

◆朝から暑い一日になる。策実に続き、今朝も5時から草取り。この梅雨の影響もあり、草の成長は早い。畑を見た瞬間、嫌になるほどである。午前5時から都庁う水分補給を入れながら、草取りに一日追われる。畑だけでなく、庭先を行う。今日の収穫は、キュウリ、ピーマン、なすであった。トマトはまだまだであるが、これから収穫が楽しみである。来月上旬には赤みががってくれると、嬉しいのだが、草取りに追われる週末だが、野菜の収穫が楽しみだが、昨年のようにならなければうれしいのだが。

◆都議選の投票率が前回に比べ、下がったようだが、組織政党が有利ともいわれており、自民第一党、自公過半数と成る可能性が大。いずれにしても、今夜確定するであろう。9時現在のニュースによれば、自民第一党、自公過半数確定。第二党は民主か公明か。共産は10議席を超えれられるのか。みんなは、維新は。という感じである。明日の新聞で詳細は確認するすれば良い。問題は前回を下回る投票率。いわゆる無党派層の受け入れる政党が前回の衆議院選挙と異なりなくなってしまったのだろうか。

(6月23日生まれの偉人)
◆塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。また、一時期、多聞房(たもんぼう)[1]とも名乗る。雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一(ほきいち)と改名した。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四子に伊藤博文と山尾庸三に暗殺されたとされる国学者塙忠宝がいる。
◆岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年6月23日 - 1929年12月20日)は、大正〜昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香
東京高師附属中学中退後の1908年(明治41年)、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事した。1910年(明治43年文展に2点の作品が入選している。1911年(明治44年)『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合い、柳宗悦武者小路実篤ら『白樺』周辺の文化人とも知り合うようになった。劉生自身生前は『初期肉筆浮世絵』、『図画教育論』や、没後に出された随筆『美の本体』(河出書房)、『演劇美論』(刀江書院)など、多くの文章を残し、これらは『岸田劉生全集』(全10巻、岩波書店、1979年〜1980年)にまとめられた。
 1912年(明治45年)、高村光太郎萬鉄五郎らとともにヒュウザン会を結成、第1回ヒュウザン会展には14点を出品した。これが画壇への本格的なデビューといえる。(なお、ヒュウザン会展は2回で終了し、1913年(大正2年)の第2回展ではフュウザン会と改称していた)。劉生の初期の作品はポスト印象派、特にセザンヌの影響が強いが、この頃からヨーロッパのルネサンスバロックの巨匠、特にデューラーの影響が顕著な写実的作風に移っていく1915年(大正4年)、現代の美術社主催第1回美術展(第2回展以降の名称は「草土社展」)に出品する。草土社のメンバーは木村荘八・清宮彬・中川一政・椿貞雄・高須光治・河野通勢らであった。草土社は1922年(大正11年)までに9回の展覧会を開き、劉生はそのすべてに出品している。大正4年に描かれ、翌年の第2回草土社展に出品された『切通しの写生(道路と土手と塀)』は劉生の風景画の代表作の一つである。
 1917年(大正6年)、結核を疑われ、友人武者小路実篤の住んでいた神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘に転地療養の目的で居住(結核は誤診だといわれる。庭に土俵を設け、来客と相撲に興じた)。1918年(大正7年)頃から娘の岸田麗子(1914年〜1962年)の肖像を描くようになる。1920年大正9年)、30歳になったことを期に日記をつけはじめ、『全集』の一部や『劉生日記』(全5巻、岩波書店1984年)にまとめられている。没するまでの幅広い交友関係が窺われる。劉生を慕って草土社の椿貞雄や横堀角次郎も鵠沼に住むようになり、中川一政らのように岸田家の食客となる若者もいた。1923年(大正12年)、関東大震災で自宅が倒壊し、京都に転居し後に鎌倉に居住。この鵠沼時代がいわば岸田劉生の最盛期であった。劉生の京都移住に伴い、草土社は自然解散の形になったが、劉生を含めメンバーの多くは春陽会に活動の場を移した。
◆妹尾 河童(せのお かっぱ、本名同じ、旧名:妹尾 肇「せのお はじめ」、1930年(昭和5年)6月23日 - )は、兵庫県神戸市長田区生まれのグラフィックデザイナー・舞台美術家・エッセイスト・小説家。エッセイ『河童が覗いた』シリーズで発表されるその緻密な手書きイラストレーションも知られている。妻はエッセイストの風間茂子。
 自身の少年時代を描いた著書『少年H』は上下巻を合わせて300万部以上の大ベストセラーになり、1997年(平成9年)毎日出版文化賞・特別賞受賞。1999年(平成11年)および2001年(平成13年)にはフジテレビにより2時間スペシャルドラマ化、2013年(平成25年)にはテレビ朝日開局55周年記念作品として映画化された。


<昨年の今日>も空白である。