格差是正、脱原発…生活の党が公約発表。そして、ガイヤの夜明けににみる『生き残りを賭けた 新・通販戦争』

◆生活の党は24日、7月の参議院選挙に向けた公約を発表した。  「生活者、中小企業、地域重視の経済再生」「格差を是正し、生活負担を軽減」「脱原発による経済成長」「TPP(=環太平洋経済連携協定)への参加反対」の4つの柱を掲げている。  具体的には、「家庭で自由に使える金を1.5倍に増やす」ことや、「子育て応援券」の創設、消費税増税の凍結、2022年までの原発全廃などを盛り込んでいる。
◆小沢氏「民主と一致」、反自公結集へ連携拡充(配信元:サンケイ 2013/06/22 18:09更新)
 生活の党の小沢一郎代表は22日までに共同通信のインタビューに応じ、参院選で部分的な選挙協力で合意した民主党と、選挙後に連携を拡充する方針でも一致したと明らかにした。自公政権への対抗勢力を結集し、次期衆院選政権交代を目指す狙い。ただ、民主党内には党を割った小沢氏への根強い反発があり、どこまで関係を強化できるか見通せない。方針は、民主党細野豪志、生活の党の鈴木克昌両幹事長が12日に会談し、確認したという。小沢氏は「将来の連携をお互いに考えていこうとの公党間の了解だ」と説明。両党で対応が異なる消費税増税については、増税に関する自民、民主、公明の3党合意は、前提の社会保障改革に与党が反対で「破綻している」ため、民主党は方針転換せざるを得ないとの認識も示した。

◆『生き残りを賭けた 新・通販戦争』(2013年6月25日放送 22:10 - 23:04 テレビ東京 ガイアの夜明け  より)
 長崎県佐世保市にあるジャパネットたかた高田明社長は出社するとすぐにスタジオを訪れ、1時間後に始まる生放送の打ち合わせを行ない、当日の天候などを考慮して商品ラインナップの手直しを行なった。ジャパネットたかたがやっているのは、販売商品を絞り込み詳しく紹介する提案型の通販。高田社長は自らその先頭に立って、ジャパネットの成長を支えてきた。ジャパネットたかたは、1986年に小さなカメラ店として開業。90年に地元のラジオショッピングに出演したのが転機となり、現在の通販事業に進出した。コールセンターなども自分で運営するなどし、細かなケアが出来るのも魅力の一つとなっている。高田社長が今最も力を入れているのはタブレット端末。このようなデジタル家電は、ターゲットである高齢者は敬遠しがちだったが、スタッフを自宅に派遣しすぐ使えるよう設定を行なったり、さらに無料レッスンまでつけるサービスを展開。練馬区に住む喜多さんも、このサービスを利用し、タブレットを使いこなせるようになっていた。喜多さんは「家電量販店で買ったほうがいいといわれるが、沢山の選択肢よりも1つしかないといわれたほうが、私達の世代にはいい」とジャパネットの良さを語った。こうしたシニア層の支持を受けて売上高は逓増していたが、ここ2年連続で減収減益の状態に。
 実は昨年にはテレビ通販の草分けである日本直販が破綻。原因はインターネット通販の急成長で、富士経済調べのデータでも近年ネット通販の売上高が急速に拡大している事がわかる。そんな中、高田社長は自らの進退をかける覚悟で戦いに挑んでいた。「カリスマ社長を息子は超えられるのか?」「カタログ通販の老舗が見つけた1%の市場」「知られざる通販沸騰の国の現場」など、今夜は通販の今に迫る。2年連続の減収減益というピンチに立たされているジャパネットたかた佐世保市)。主力商品だった薄型テレビの落ち込みに加え、アマゾンや楽天などのネット通販におされているのがその要因だった。高田社長は今年過去最高益を達成できなければ社長の座を退くと宣言していた。巻き返しを図る高田社長は、昨年六本木に巨大なスタジオをもつ東京オフィスを作り、東京進出は長男の旭人氏に任されていた。東京オフィスでは高田社長が佐世保から生放送する映像をチェック。同じジューサーを2時間後に東京のスタジオでも販売するため、放送を見ての作戦会議が実施。その結果高田社長のジュースの美味しさを強調する戦略ではなく、栄養価の高さや健康効果などにポイントを絞って行なう事となった。東京のスタジオからの放送がスタート。扱うのは同じクビンスサイレントジューサーという商品で、作戦通り栄養面に重点を置いたプレゼン。その放送を佐世保でもチェック。残念ながら注文の反応は芳しくなく、旭人氏は父親からも美味しさをメインに伝えるべきではないかとダメだしされてしまった。しかし旭人氏は父を見返すためとっておきのアイディアで勝負に出ようとしていた。六本木にあるジャパネットたかたの東京オフィス。連日多くのメーカーとの商談が行なわれていたが、東京進出で商談相手は拡大。バイヤーも主力だった家電に変わる新たな商品を開拓しようとしていた。東京オフィスを任されている旭人氏は、これまで単体で販売していた赤外線調理器の「ザイグル」を、高級食材とセットにして販売する新しい試みをスタート。試食でもスタッフみなから好評だった三元豚ベーコンとのセットで販売が行なわれる事になったが、注文は思いのほか伸びず、販売目標の2割程度にとどまってしまった。東京オフィスに高田社長が訪れ、社長はすぐにスタジオに。今年過去最高益を出さなければ社長を退くと宣言している高田社長はザイグルについて「あの注文数の2倍くらいを1回で出せる制作力と司会力を…」と息子や社員達にハッパをかけた。
 名古屋に本社を置くオークローンマーケティングショップジャパンの名前で知られる通販を展開するこの会社はあの「ビリーズブートキャンプ」を大
ヒットさせるなど、健康関連商品が得意分野。しかしここ3年売上げは頭打ちで、巻き返しのために東南アジアへの進出を目論んでいた。そのターゲットが経済成長著しく、消費熱が高まっているタイ。現地で最大の通販会社TVディレクト社とオークローンマーケティングは提携しタイに進出。タイでは今テレビショッピングが大流行しており、売れ筋は美容・健康関連商品。TVディレクトのシャンマキット社長によればTVディレクトの売上げは2009年には約28億円だったのが、昨年には約69億円にまで拡大していた。バンコク市内に住むテレビ通販大好きなロースワン一家は、この日も家族そろってテレビショッピングを視聴。タイには韓国のCJオーショッピングが6月から放送が開始し、日本のジュピターショップチャンネルも8月から放送開始予定など熾烈な競争が繰り広げられている。そうした中に乗り込んできたオークローンマーケティングトゥルースリーパー プレミアムを第一弾として販売、9月からは日本で300万台売り上げた「レッグマジックX」の展開を考えていた。オークローンマーケティングはフィリピンでも9月から通販番組を開始しアジア展開を広げる予定。
 東京・渋谷にあるスマイルランドはカタログ通販大手のニッセンが手がけた店で、ぽっちゃり女性向けの商品を取り揃えているのが特徴となっている。店内には10Lサイズまでが用意され、店内スペースもどんなぽっちゃりさんが来ても大丈夫なように広めで、試着室も汗をかかないよう冷房を強めにするなどの配慮が行なわれていた。京都市に本社を構える、カタログ通販大手のニッセン。顧客会員数は約3000万人だが、売上げはネット通販やユニクロなどファストファッションにおされ10年ほど前から伸び悩んでいる状態。そこで目をつけたのがいわゆる「ぽっちゃりさん」で、佐村社長は「どこにでも売っている商品はネットの中で比較されるが、ニッセンでしか買えない売っていない商品をいかに作るかが、差別化の中で一番大事」と語った。ニッセンは4年前に尼崎市に創業以来初の店舗となる「スマイルランド尼崎店」をオープン。スマイルランドは10Lサイズまでの大きめの服を扱う専門店で、店員さんもぽっちゃりさん。豊富なデザインで大き目の服を売る店は殆ど無いため、多くのお客さんはリピーターになるのだという。実はお店の目的は売上げだけでなく、コミュニケーションをとることで客の要望を知り、それを本部に報告してカタログ通販の商品開発に生かすところにもあった。渋谷パルコに、ニッセンが展開するぽっちゃりさんの専門店「スマイルランド渋谷店」がある。4L以上のぽっちゃり市場は、女性用アパレル全体の1%程度だが、ニッセンは底に約400億円の規模があると推測。この市場は過去に他社も挑戦し失敗してきているが、ニッセンの場合、大量の顧客リストを活用し集客に結び付けている。店舗スタッフの井上さんも元々はカタログ会員だった。以前は着られる服が無く地味なファッションだったが、ニッセンのぽっちゃりさん商品に出会い、ファッションを楽しめるようになり、人生まで変化していた。ぽっちゃりブランドの普及は意外な効果も生んでいる。「スマイルランド千葉店」の店舗スタッフ面接には多くの女性たちが訪れたが、このような仕事に就きたいという女性はとても多い状態だった。ぽっちゃりブランドの成功を受けて、ニッセンでは2年前に新たに、身長164センチ以上の女性向けブランド「スラットジール」を立ち上げた。この2年間で商品を買った人は30万人を突破するなど予想以上の売上げ。ニッセンの佐村社長はぽっちゃり市場も背の高い女性の市場も1%や2%程だが、世の中にそういう人たちに合った商品はなかなか無く、それを見つけ出せればビジネスになると語った。6月13日に京都にあるニッセン本社には、社員の中から選ばれた小柄な体型の女性が集められていた。小柄な女性も服選びには苦労しており、通販会員からも同様の声が寄せられていたため、ニッセンは身長152センチ前後の女性向けブランド「プッチージョ」を立ち上げ。この日は集めた社員に試着をし、商品開発に声を反映していた。プッチージョは顧客から大きな反響があったため、専用のカタログを出す事も決定。ほかでは買えない商品で、1%の需要に応えることにカタログ通販の老舗は生き残る道を見つけていた。
・・・・・→「インターネットが普及した今、単に便利なだけでは差別化できない時代となり、消費者のニーズにどれだけきめ細かく応えられるか、通販の更なる進化が求められている。通販業界の生き残りとして海外進出も一つの方策とは驚いた。日本は信仰減少者キアであり、耐久消費財はここのところ、デフレであり、これから消費税増税を迎えて業界の生き残りはまさに本番。

(主な出来事)
◆社員研修講師
・職責の役割。それを果たすための勉強の必要性。部下からの信頼。
・今日の日本経済の状況。川上デフレ川下インフレ。収入状況。日本は貧困社会へ。
。コミュニケーション。伝える力の重要性。未来と自分は変えられる。

(6月25日生まれの偉人)
◆葛原 しげる(くずはら しげる1886年明治19年)6月25日 - 1961年(昭和36年)12月7日)は、日本の童謡詩人、童謡作詞家、童話作家、教育者。福山市名誉市民。なお「しげる」の正しい漢字は𦱳(滋の旧体。草冠でなくソ一と書く)。ただし普段使用される漢字でないため、「しげる」とひらがなで表記することが多かった。
 1904年(明治37年東京高等師範学校(現・筑波大学)英語科入学。在学中から泰西名曲に詩をつけて合唱用に発表する。卒業後は九段精華高女教諭、同理事、跡見女学校(跡見学園)講師などで教壇に立ちながら、博文館編集局にも勤めて、『少年世界』他の編集に携わり自らも雑誌などに唱歌を発表する。明治の終わりから全国の小学校に普及した『尋常小學唱歌』が堅苦しく、児童の心情や能力の発達段階に適さない等の批判が出ていたため小松耕輔梁田貞と共に「大正幼年唱歌」(1915年〜1919年)、続いて「大正少年唱歌」「昭和幼年唱歌」「大正少年唱歌」と順次刊行。これらは吉丸一昌の「新作唱歌」(1912年〜1916年)と共に、まだ童謡という名は用いていないが、後の童謡運動の先駆けと評価される。
 また父親の薦めで宮城道雄と親交を結び、1917年(大正6年)、「春の雨」を発表。『赤い鳥』創刊の1年前のことである。葛原は小学校や幼稚園向けの唱歌とは別に、家庭向きの子供のための歌の必要性を考え、当時はまだピアノよりも一般家庭に普及していた箏を伴奏に、宮城とのコンビで多数の童曲を発表した。宮城作品全425曲のうち、葛原作詞の童曲は98曲にも及び、まだ無名だった宮城を後援者として支え、生涯変わらぬ友情を持ち続けた。『赤い鳥』創刊で興った童謡運動には「童謡に大人の趣味を混入させるべきではない」と強く批判し西條八十と激しい論戦を繰り広げたこともあった。ただしこうした邦楽界の童謡=童曲は、当時はそれなりの人気があったが、現在一般にはほとんど知られていない。
葛原の代表作として広く知られる作品に「夕日」がある。これは洋楽の童謡だが「夕日」の詩は最初、「きんきんきらきら」であった。小二の長女に「夕日は『ぎんぎんぎらぎら』でしょう」と言われて変更、おかげで強い生命力を感じさせる名作となった。1921年(大正)10年、室崎琴月作曲でレコード発売され全国的に有名になった。
作詞した童謡は4000篇とも言われ他の代表作に、「とんび」、「白兎」、「キユーピーさん」、「羽衣」、「たんぽぽ」などがある。また「どんどんひゃらら、どんどんひゃらら」の「村祭」は長年、作詞・作曲者不詳の文部省唱歌とされてきたが、近年、葛原作詞、南能衛作曲とされた。その他ボーイスカウトの日本連盟歌「花は薫るよ」の作詞(1957年(昭和32年ボーイスカウト日本連盟・鷹章)や、依頼されて広陵高校真岡高校明大中野高校など、全国約400の校歌の作詞も手がけている。自分の額から掌を下ろし「ここから下は青年じゃ」というのが口癖だったらしい。明るく前向きな生き方を死の直前まで示したという。
◆福澤 桃介(ふくざわ とうすけ/ももすけ、1868年6月25日(慶應4年5月6日) - 1938年(昭和13年)2月15日)は、日本の実業家、政治家。旧姓は岩崎。日清紡績、矢作水力(現・東亞合成)、大同電力(現・関西電力)、東邦電力(現・中部電力)、東邦瓦斯大同特殊鋼などを次々に設立。他にも数々の企業経営(福澤財閥)に携わり、「日本の電力王」と言われる。
 ●振り返ってみると、2年前茅ヶ崎市美術館で「川上音二郎貞奴展」が開催された。茅ケ崎は政治家や大富豪が田舎の別荘を建てる土地であり、この美術館は、鉄道の駅と海の間を走る主要道路の近くにあり、この地がこの二人が過ごした場所である。マダム貞奴1871年生まれ)という俳優として欧米で有名な女優は、葭町の芸者であった。葭町は今の人形町にあたる。あの吉原である(現在の吉原は、江戸時代の半ば、大火により「新吉原」と言われ、現在に移転したものである)。貞奴は生涯に於いて二人の男性と縁を結ぶ。一人は、夫であった気鋭の演劇改革家で新派を創生したオッペケペー節の川上音二郎1864年生まれ)であり、もう一人は本日が誕生日である初恋の相手でもあり後に愛人として晩年を過ごした電力王・福沢桃介(1968年生まれ)である。
 慶応の学生だった岩崎桃介は、14歳の貞奴の乗っていた馬の暴走をとめて貞奴を救った。それが互いの初恋の相手となった。桃介は福沢諭吉に見込まれて愛娘ふさと結婚する。福沢の悪意のある支配から脱するために苦悩する。桃介は株取引によって富豪になった。音二郎の大阪「帝国座」建設の頃からスポンサーの一人となった。この頃から二人は再会する。音二郎は病に倒れる。帝国座の「この舞台に起つべき模範俳優を養成したい(のが)おれの理想だ。もしおれが死ねば、お前(貞奴)はおれの遺志を継いでくれろ」と遺言を遺している。
46歳で引退し、47歳の貞奴は、ただの川上貞として50歳の桃介と暮らすようになる。出会ってから30年以上の歳月が経っていた。桃介は経営危機にある会社を立て直す名人であった。速い川の流れの多い日本は水力発電に適していると考えた桃介は、電力王になっていく。貞奴はその桃介を助けて木曽プロジェクトや大井ダムを成功させている。彼は70を超える会社の社長となった。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120625