今週は猛暑。小沢さんは終わったのか?

◆昨日は全国の観測地点の半分で真夏日が観測され熱中症とみられる症状で病院に運ばれる人が相次いだ。気象庁は8日も関東甲信などに高温注意情報を発表し熱中症への注意を呼びかけている。

◆「小沢一郎氏も終わったなあ。」  
 昨日の朝、フジテレビで党首討論会があった。全員党首が出ているのに、小沢氏だけが「所用」と称して代理を送った。ああ、また逃げたなあ、と思った。小沢氏の政治信条には間違いはない。立派な政治理念と経験を持っている。本来なら総理大臣としてこの国を大きく変えたことだろう。
 しかし、彼には人間的に弱点がある。そのことがここまでの男にしてしまった。ひとつには、いざという時に逃げるということである。民主党が政権を取った時、なぜ鳩山首相とし、自分は幹事長に回ったのか。あの時、総理大臣になるべきだったのである。しかし、自分は心臓が悪く、総理の激務に耐えられないとでも思ったのか、裏方で表の席を譲ってしまった。二つに一切言い訳をしないことである。勿論、男としてはいい信条だが、公人となっては、それでは済まされない。西松や陸山会の誹謗中傷がそうである。彼は母親から「男たるもの言い訳はしてはならない」と教育され、それを信条としている。
反論がないことをいいことに、マスコミは好き勝手なことを書いて、小沢=悪を国民に定着させてしまった。これも堂々と反論すべきだったし、マスコミに対して訴訟を起こしてもいいほどの内容だった。公人は言うことを言わなければ世の中に通じないのである。そして、参議院選挙を前に、やっぱり小沢氏は党首として、全面に出てこない。自分ももう歳だし、ちっぽけな生活の党では何も変わらないと、もはや投げているのかもしれない。ぷっつり糸が切れたようだ。

◆『「怖い小沢一郎」が帰って来たぞ。』(2013-07-08 文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ 『毒蛇山荘日記』より)
 ジロリと新聞記者を睨む「怖い小沢一郎」が帰って来たぞ。小沢一郎氏は、昨日は、地元の岩手県だったようです。小沢一郎氏、ぶら下がり取材を受ける。「なに?」と、ジロリと新聞記者を睨む。
 【小沢一郎代表 岩手ぶら下がり取材要旨(2013年7月7日)】https://www.facebook.com/pages/%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%81%AE%E5%85%9A/428958743864896
 7月7日、小沢一郎代表が出張先の岩手県で記者団のぶら下がり取材に答えました。その要旨は以下の通りです。
 “マスコミ調査で一喜一憂しても仕方がない。必ず県民の支持を得られる。”
【ぶら下がり取材要旨】
Q 公示後、各社の情勢調査で生活の党は大変に厳しい結果が出ている。その受け止めと、どのように巻き返しを図るのか。
A 選挙は常に厳しいものなので、マスコミ調査で一喜一憂しても仕方がない。ただひたすら、例えば岩手県でも関根候補は知名度がないので、一人でも多くの人たちに、候補者そして応援する者が声をかけて広めていくことだろうと思う。
Q 広島や新潟では今、かなり激しく生活の候補者が追い上げている状況だと伝えられているが、広島、新潟での戦いについてどのように考えるか。また岩手は小沢王国と言われるが、岩手で何としても1議席確保したいという気持ちについて。
A 広島、新潟はどちらも厳しい選挙だが、必ず間違いなく県民の支持を得られると思う。岩手のいろんな経過は皆さんご承知の通りであり、新人で知名度が低く、その意味で出遅れていたけれども、多分急速に理解してくれる人は増えて来ている。県民皆さんの良識を信じており、参議院に送っていただけると思う。
Q 今回、岩手県内入りしてからの具体的な動きと感想は。
A 今日は湯田、雫石、そして盛岡に来た。大きな集会をしたわけではないが、とても素直に真面目に短い挨拶でも聞いてくれた。関根候補は知名度でやはり劣っているし、また普段より候補者が数多く出ているので、有権者にも若干の戸惑いがあるのかもしれないが、話をすれば素直に分かって頂いてきていると思う。
Q 県内入りの回数が以前に比べて多いような気がするがその理由は。
A いっぱい(候補者が)出ているし、新人で知名度も低いからそれだけ県民の皆さんにお願いをしようということ。
Q 公示後、昨日、一昨日とどのような行動をしたのかと、代表としてTPP反対、原発反対、消費税増税反対をこれまで訴えてきたが、有権者からの手ごたえは如何か。
A TPPでも原発でも消費税でもきちんと話をすれば皆が理解してくれると私は思う。きちんと自分たちの主張を国民の皆さんに話していくことに尽きると思う。また、初日は千葉へ行った。昨日は私の出身学校の方々との会合などで過ごした。  以上

◆生活・小沢一郎代表 「自民党対抗の受け皿可能」「首相の思想は獣の世界」
   http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130708/stt13070822110002-n1.htm (2013.7.8 22:10  産経新聞
 われわれの標語は「いのちと暮らしと地域を守る」。安倍晋三首相とは対極の考え方に立っています。
 安倍首相の思想は「競争力のある者がもうければいい」という小泉純一郎元首相と全く同じ理屈で、企業サイドの論理、強者の論理といっていい。これでは格差がさらに広がり、非常にいびつな社会になってしまう。環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)も、農林漁業だけでなく、国民皆保険制度の崩壊を招きかねない。弱者の論理に立った施策、すなわちセーフティーネットを整えた上での自由競争でなければ、弱肉強食の「獣」の世界と同じだ。
 憲法96条の先行改正にも危うさを感じる。憲法について語るのであれば、きちっとした理念と哲学、憲法と日本社会のビジョンを示さなければならない。安倍首相は憲法改正に関する発言をトーンダウンさせたが、自分の政治哲学であるなら、世間の顔色を見てしゃべらなくなるのはおかしい。
 国民は決して積極的に自民党を支持しているわけではない。それは(昨年12月の)衆院選後の地方選挙の結果にはっきりと表れている。小泉進次郎青年局長のおひざ元の神奈川県横須賀市長選でも、自民党系候補が敗れたでしょう?国民はまだ、自民党に代わるものに期待している。
 国民にそうした気持ちがある限り、政治家もその声に触発されていく。参院選後、野党が自民党に対抗する受け皿を作ることは十分可能です。(松本学)

(7月8日生まれの偉人)
◆東山 魁夷(ひがしやま かいい、男性、1908年(明治41年)7月8日 - 1999年(平成11年)5月6日)は、日本の画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人といわれる。文化勲章受章者。千葉県市川市名誉市民。本名は東山 新吉(ひがしやま しんきち)。
 船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として横浜市に生まれる。父の仕事の関係で3歳の時に神戸西出町へ転居。兵庫県立第二神戸中学校(現兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現東京芸術大学日本画科へ進学。結城素明に師事。在学中の1929年第10回帝展に「山国の秋」を初出品し、初入選を果たす。美術学校を卒業後、ドイツのベルリン大学(現フンボルト大学)に留学。1940年には日本画家の川粼小虎の娘すみと結婚。1945年応召し、熊本で終戦を迎える。召集解除後は小虎、母、妻が疎開していた山梨県中巨摩郡落合村(現南アルプス市)に一旦落ち着く。11月に母が死去すると千葉県市川市に移り、その後1953年には大学の同窓・吉村順三設計による自宅を建て[1]、50年以上に亘りその地で創作活動を続けた。戦後、1947年の第3回日展で「残照」が特選を得たことが転機となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求した。1950年に発表した「道」は、前方へとまっすぐに伸びる道それだけを描く作品で、単純化を極めた画面構成に新機軸が示されている。北欧、ドイツ、オーストリア、中国にも取材し、次々と精力的に発表された作品は、平明ながら深い精神性をそなえ、幅広い支持を集めた。1960年に東宮御所、1968年に落成した皇居宮殿の障壁画を担当した。1970年代には約10年の歳月をかけて制作した奈良・唐招提寺御影堂障壁画「黄山暁雲」は畢生の大作となった。千変万化する山の姿を墨の濃淡を使い分け、鮮やかに描き出した。東山は黄山を「充実した無の世界」と表現した。混沌とした自然の移ろいにあらゆるものを生み出すエネルギーを感じ取った。この計画を手がけたことにより国内での知名度と人気はさらに高まり、国民的日本画家とも呼ばれるようになった。画集のみならず文章家でもあり画文集など、著作は数多い。川端康成とも親交が深かった。ドイツ留学中に知ったドイツロマン主義の画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒを日本に初めて紹介したのも彼である。また、瀬戸大橋の色を提案したことでも知られる生前、日展への出品作など代表作の多くを東京国立近代美術館と長野県に寄贈。長野県は長野県信濃美術館に谷口吉生設計による東山魁夷館を増設し、寄贈された作品の常設展示にあてている。その他、少年時代を過ごした神戸市にある兵庫県立美術館、父方の出身地である香川県香川県東山魁夷せとうち美術館にも、版画を中心とする作品が寄贈されている。戦後の復員直後から死去するまで暮らしていた千葉県市川市には、自宅に隣接して市川市東山魁夷記念館が開館した。また、美術学校時代のキャンプ旅行の途中、激しい夕立に遇った際に温かいもてなしを受けたことに感謝して後に寄贈された約500点の版画を収蔵する東山魁夷 心の旅路館が、岐阜県中津川市(旧長野県木曽郡山口村)にある。

<昨年の今日>はまた空白である。昨年の今頃もいろいろと仕事の面で悩んでいたようである。定年一年前であり、異動も含めて期待していた部分もあったようである。いわゆる最後の本社勤務を期待していたのかもしれないね。