日本標準時制定記念日

日本標準時制定記念日
1886年のこの日、勅令「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」が公布され、1889年1月1日から東経135度の時刻を日本の標準時とすることが定められた。

◆ようやく週末。精神的にはいろいろとあった今週であったが、平常心を徹底して落ち着いて来週を迎えたいものである。あとは積み重ねだけ。動かないことだけかな。まさに動かざるとこと山の如しでしょうか。
 朝、病院に見舞いにより、午後から実家へ。暑い、まさに暑い。その中での草取りに追われる。草の成長は早いものである。心配がある。それは白眉新にスイカの実がやられることである。せっかく5つできたが、どうなるかな?所用があり、夜自宅に戻る。

(7月13日生まれの偉人)
◆青木 繁(あおき しげる、1882年7月13日 - 1911年3月25日)は日本の明治期の洋画家である。
『海の幸』の作者として知られる繁は、近代日本美術史の上でもっとも著名な洋画家の一人である。若くして日本美術史上に残る有名作を次々と描き上げた後、放浪生活に入り、満28歳の若さで没した繁の生涯は半ば伝説化している[要出典]。短命だったこともあって残された作品の数は決して多くはなく、代表作『海の幸』を含め多かれ少なかれ未完成の作品が多い。しかし、日本の古代神話などをモチーフにした浪漫的色彩の濃い画風は西洋美術の物まねではない独自のものとして高く評価されている。
 代表作「海の幸」が印象に残る画家であるが、この作品を描いた20歳を少し超えた頃を頂点に28年という短く苦悩の多い人生を送っていたようである。青木は何に一生を賭けるかと思案する。学者、政治、軍人、、、。哲学、宗教、文学、、、そして最後に芸術にたどり着く。
「人生とは何ぞや」「我は男子として如何に我を発揮すべきや」
「われは丹青の技によって、歴山帝(アレクサンダー大王)若しくはそれ以上の高傑な偉大な真実な、そして情操を偽らざる天真流露、玉の如き男子となり得るのだ」
 上京し東京美術学校に入り、黒田清輝の指導を受ける。上野の図書館に通い、古事記日本書紀をはじめ諸国の神話、宗教書を読み漁る。「海の幸」「わだつみのいろこの宮」「大穴牟知命(オオナムチノミコト)」などの作品を描くが、父危篤の報を受けて久留米に帰り、以後熊本、佐賀方面を放浪。福岡にて28歳の生涯を閉じる。青木が没した翌年に坂本繁二郎などの友人が「青木繁君遺作展覧会」を開催する。青木の作品に好意的であった夏目漱石は「青木君の絵を久し振りに見ました。あの人は天才と思ひます」と友人あての書簡の中で書いている。
 実際に見た「海の幸」は、横長の大作だが、昔教科書で見た鮮烈なイメージの大きさほどではなかった。しかし、荒削りの迫力にある絵には強いメッセージを受けた。老人、若人などが10人ほどおり、大きなサメを背負う人や棒でかつぐ人などが夕陽の落ちる波打ち際の浜辺で歩く姿が描かれている。一人だけ画面を向いている白い顔があり、これは恋人の福田たねであるという説もある。神話的な世界と見る人をつなぐ不思議な目である。
福田たねとの間に生まれた幸彦は、後の尺八奏者、随筆家である福田蘭童である。
 谷口治達「青木繁 坂本繁二郎」(西日本新聞社)には、高等小学校時代からの友人二人の軌跡が描かれていた。28歳で夭折した早熟の天才・青木繁と、明治・大正・昭和と87歳まで画業を全うした晩成の坂本繁二郎。二人の友人であり早稲田大学を出て故郷で旧制中学の国語教師をしていた梅野満雄の二人の比較がよく特徴をとらえている。「彼らは大いに似て大いに異なるところが面白い対照だ。同じ久留米に生まれてしかも同年、眼が共に乱視。彼は動、是は静。、、青木は天才、坂本は鈍才。彼は華やか、是は地味。青木は馬で坂本は牛。青木は天に住み、坂本は地に棲む。彼は浮き是は沈む。青木は放逸不羈、坂本は沈潜自重。青木は早熟、坂本は晩成。、、、」周囲に迷惑をかけ続けた青木繁は悲劇の天才であり、人格者・坂本繁二郎は求道の画人であった。どちらにも「繁」という字がついている。

 坂本繁二郎 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130302
 福田蘭童 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130515
 
 <昨年の今日> は空白である。