「河童忌」

◆河童忌,我鬼忌,龍之介忌
 1927年のこの日、小説家の芥川龍之介[あくたがわりゅうのすけ]が多量の睡眠薬を飲んで自殺した。代表作の『河童』から、「河童忌」と名附けられた。
 (芥川龍之介http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130301

◆「TPP 各国が現状など説明へ」
 7月24日 4時6分マレーシアで開かれているTPP=環太平洋パートナーシップ協定の交渉会合では、24日、日本に対して各国が交渉の現状などを集中的に説明する「日本セッション」が行われ、日本の交渉団は、各国の主張などを詳細に聞き取り、今後の戦略作りにつなげる方針です。
 今月15日からマレーシアのコタキナバルで開かれているTPP=環太平洋パートナーシップ協定の18回目の交渉会合では、23日、日本の参加が正式に承認され、鶴岡首席交渉官らが、交渉全体について議論する「首席交渉官会合」に初めて出席しました。
会合のあと鶴岡氏は記者団に対し、「各国からは非常に温かい歓迎を受け、ぜひ、日本と今後、積極的に交渉して成果を挙げていきたいという期待の表明があった」と述べました。
 また日本の交渉団は、交渉への参加が認められたことで、これまでの交渉状況を記した「テキスト」と呼ばれる膨大な文書が見られるようになったことから、工業製品や農産物などの関税撤廃を目指す「物品市場アクセス」など、21ある分野の交渉状況の分析などに当たっています。
交渉会合では、24日、各国の公共事業への参入の条件を検討している「政府調達」など4つの作業部会が開かれることになっています。
そして午後には、遅れて参加した日本に対して、各国が交渉の現状などを集中的に説明する「日本セッション」が行われることになっており、日本の交渉団は、各国の主張や立場、これまでの交渉経過などについて詳細に聞き取り、今後の戦略作りにつなげる方針です。

(7月24日生まれの偉人)
◆濱口 梧陵(はまぐち ごりょう、文政3年6月15日(1820年7月24日) - 1885年(明治18年)4月21日)は、紀伊国広村(現・和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語『稲むらの火』のモデルとしても知られる。
 安政元年11月5日(1854年12月24日)夜、安政南海地震津波が広村に襲来した後に、梧陵は自身の田にあった藁の山に火をつけて安全な高台にある広八幡神社への避難路を示す明かりとし、速やかに村人を誘導することができた。結果として村人の9割以上を救った(死者30人)。津波から命を救えるかは、情報の伝達の速さが関わっているという教訓を残した。これをもとに作られた物語が『稲むらの火』として知られている。この災害の後、梧陵は破損した橋を修理するなど復旧につとめたほか、当時では最大級の堤防・広村堤防を約4年かけて修造した。この大土木工事は、荒廃した被災地からの住民離散を防ぐ意味を持つとともに、将来再び襲来するであろう津波に備えての防災事業であった。広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て梧陵が私財を投じたものであり、のちに小泉八雲は彼を「生ける神(A Living God)」と賞賛している。
◆後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は日本の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、日本の植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画を立案した。
後藤新平戊辰戦争で敗れた伊達藩の支藩の出身である。後藤が世に出た最大の要因は、安場保和という胆沢県の大参事(副知事)だった人物である。 12歳の悪童・新平を見て「この子は将来、参議(大臣)にもなりうる人材だ。新平の性格をたわめることなく伸ばすように指導してもらいたい」と部下であった阿川光裕に命じて面倒を見させている。 医者としてドイツ留学時代に会ったビスマルクが「見たところ君は、医者よりも政治 に携わるべき人間である」と看破したように、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、 逓信大臣、鉄道院総裁、内相、外相、東京市長、帝都復興院総裁、東京放送局総裁、、、と、仕事師としての切れ味の凄みを髣髴とさせる多彩な経歴を持つ。日本初 の植民地経営だった台湾統治は成功だったと評価されているが、総督は児玉源太郎、 民政長官は後藤新平、殖産局長は新渡戸稲造という豪華版だった。記念館には、後藤 の死去に当たり「伯は実に智・仁・勇の三徳を程よく兼備した人と思う」と新渡戸が 評している大阪毎日新聞の記事が展示されている。
 日本最初の植民地である台湾統治を民生長官として成功させる、イギリスの東インド会社を模した南満州鉄道(満鉄)の初代総裁として基盤を築く、関東大震災直後の帝都復興計画の実行した。プロジェクトに適した考え方をまず決め、事前に科学的な大調査を行い、壮大なマスタープランをつくり、簡素な組織をつくり、適材をあらゆるところから強引にスカウトし、厚遇を与え思い切り仕事をさせて、想定以上の赫々たる成果をあげる。これが後藤新平の仕事遂行のやり方だ。悪がき時代のエピソード(恩人である安場の言「この子は将来大臣にもなる器だ。性格をたやめないように育てよ」)、暴漢に襲われた板垣退助の医師としての活動(「あの男は医者にしておくにはもったいない」)、北里柴三郎とのライバル関係と終生の友情、ビスマルクとの会見(「君はみたところ政治を志すべき人間である」)、台湾時代の部下であった殖産局長の新渡戸稲造とのコンビ(「智・仁・勇の三拍子そろった人であった」)、満鉄総裁時代(「午前8時の人間でやろう」、1.5億円が都の予算規模の時に8億円の東京改造計画を発表(「後藤の大風呂敷」)、最晩年のスターリンとの会見、ボーイスカウト初代総裁としての子供達との交流(「ぼくらの好きな総長さんは、白いお髭と、、」)などのエピソードもあり、まさに、後藤新平には先見生を有する人物であった。「遠眼鏡 一人で持てば 罪作り」と後藤は詠んだが、この言葉が彼のまさに本質を表現している。
◆金子 直吉(かねこ なおきち、慶応2年6月13日(1866年7月24日) - 昭和19年(1944年)2月27日)は日本の実業家。丁稚奉公から身を起こし、鈴木商店の「大番頭」として大正時代には三井財閥三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ財界のナポレオンともいわれた[1]。


<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120724