今日はあの「ごんぎつね」の作者新美南吉生誕100周年

◆『真夏の“空の旅”…リゾート客争奪戦!』(2013年7月30日放送 22:00 - 22:54 テレビ東京ガイアの夜明け 」から)
 石垣島には今年、続々と観光客が訪れ川平湾にも多くの観光客の姿が。若い女性に特に人気なのが海辺のカフェ「puff puff」で、天気の良い日にはバルコニー席は常に満席状態で売上げも前年比1.7倍になっているのだという。それは3月に新石垣空港が開港したのがきっかけ。滑走路が延びて本州からの直行便が増加し週末はほぼ満席というドル箱路線に。その路線に7月から格安航空が参入。さらにタイのバンコクでは全く新しい方法で客の取り込みを狙う航空会社が生まれていた。昨年日本の格安航空会社が相次いで運行を開始。年々乗客数が減っていた航空業界は大きく変化し、12年度は一転して乗客数が増加した。国土交通省が調査した空港別の乗降客数では羽田空港成田国際空港新千歳空港が上位3位を占めるが、今夜は乗降客数18位だが、ドル箱路線となった新石垣空港に注目する。羽田空港にある全日空のカウンターには、夏休みに入り行列が出来ていた。中でも石垣島への直行便は連日満席が続く人気。3月に新石垣空港が開港した事で、全日空やピーチ、日本航空系の各社は直行便の運行をスタート。さらに7月からは格安航空のさきがけスカイマークも参入しようとしていた。8月の運賃も全日空とくらべると羽田と成田の差はあるもののスカイマークの方が安かった。スカイマークは1998年い初就航した格安航空の先駆け。2004年にはIT業界で活躍した西久保愼一氏が社長に就任。昨年格安航空が国内線に次々と参入してきたことで、競争が激化し、経営は一気に悪化。ドル箱路線となった石垣路線への参入にスカイマークの命運がかかっていた。就航まであと1か月半に迫った那覇空港に、西久保社長の姿があった。社長は会社が所有するジェット機に乗り込んだが、座ったのはパイロット席。社長は7年前にライセンスを取得し、既に総飛行時間は1000時間を超えていた。自ら操縦するジェット機で移動し、真っ先に向かったのは石垣市役所。空港ターミナルは市の持ち物であるため、使用料をなるべく安くして欲しいと、中山義隆市長に直談判を行なったが、この日は合意には至らなかった。スカイマークの低価格の理由は、徹底したコスト削減。成田-羽田の便を見てみると、客室乗務員やパイロットはポロシャツ姿だが、制服をやめたことで約2500万円のコストカットとなった。さらに客室乗務員は乗客の荷物の上げ下ろしを手伝わないなど、従来の航空会社とは大きく異なったサービスを行なっているが、西久保社長は「新幹線ぐらいのサービスレベルで交通機関としては十分」とのべた。さらに目的地の空港に到着すると客室乗務員はカウンター業務も行なうなど、一人何役もこなす事で人件費の削減を行なっていた。大田区にあるスイカイマークの本社。リゾート路線の営業を一手に任されている江口さんはこのところ憂鬱な日々が続いていた。それは沖縄がスカイマークにとって鬼門とも言える場所だったから。この日江口さんは、石垣の商工会議所を訪れ、スカイマークの利用を呼びかけたが、島の人からは2年前の宮古便の運航休止(参考記事:日本経済新聞)による不信感などを指摘されてしまった。地元の酒造メーカー請福酒造の漢那氏も「撤退しないように頑張ってもらいたいのが本音」と心境を語った。江口さんは、スカイマークを石垣に定着させるため、地元の旅行代理店「国際旅行社」を訪問。沖縄は台風も多いことから、欠航も頻繁に起こるが、割引チケットでも変更や取り消しを可能にした事などをアピール。さらにFMいしがきサンサンラジオも訪れラジオ番組に出演し、沖縄便をPRした。
7月10日成田空港。スカイマークの石垣便初就航を迎えたこの日、カウンターにいたスカイマークを選んだ人たちにその理由を聞くと、多くの人が値段をその理由に挙げた。ちなみに初就航の日の搭乗率は那覇からは92%、神戸からは82%だったが、成田からは59%の結果で、認知度はまだまだこれからの様子だった。
 H.I.S.バンコク支店では円安や所得向上から日本観光がブームとなっていて、予約の電話もひっきりなし。だが席が満杯な状態なためにツアー客は他の旅行会社に行ってしまい、中村謙志さんはせっかくのビジネスチャンスを逃していることに危機感を示していた。そこでH.I.S.は出資し独自の航空会社「アジア アトランティック エアラインズ」を設立し、成田〜バンコク間を片道1万円というキャンペーン価格を打ち出した。平林朗社長からチャーター便だけを行う専門会社をタイに設立した話を聞いた。飛行機の座席は各旅行会社によって配分されていて、ピーク時期は席が取りづらい。だが今回のチャーター便ではHISが座席を全て確保しているので、値段も安くなっている。平林朗社長はお盆や年末年始などピーク時期にしか飛ばさないので、座席が余るリスクはない」とコメント。H.I.S.が新たに立ち上げたアジア アトランティック エアラインズの意義について、平林朗社長が従業員達に説明した。アジア アトランティック エアラインズの本社はタイ・バンコクにあり、ボビー・ハック社長はタイに本社を置いた理由について、人件費などコストが高い日本よりもリーズナブルだと述べた。アジア アトランティック エアラインズでは日本人講師による客室乗務員の訓練が行われた。タイの平均月収は日本の3分の1で、バンコクにアジア アトランティック エアラインズ の本社を置いた理由の1つは人件費の安さだった。さらにバンコクに拠点を置くことで、中国やインドネシアなど各国の観光シーズンに合わせた航行が可能となっている。東京・千代田区のホテルではアジア・アトランティック・エアラインズの就航を知らせる記者会見が行われ、成田〜バンコク間を片道1万円というキャンペーン価格を打ち出した。さらにチャーター便を自前で持つことでバンコク3泊4日がホテル代込みで3.98万円という格安価格を発表した。H.I.S.新宿本社営業所では格安ツアーが初日5分で完売し、他のツアーも3000席以上の予約が舞い込んだ。タイ・バンコクに本社を置くアジア・アトランティック・エアラインズでは予定していた就航が危うくなるというトラブルが発生。航空機は工場での整備に時間を要したためにタイに到着するのが予定よりも遅れ、その後の手続や認可を得ることができなかった。そのため同社は正式に就航延期を発表した。H.I.S.ではアジア・アトランティック・エアラインズが発表した就航延期の収拾に追われていた。矢野潤さんは予約した客が希望通りに出発するのを最優先して代替案のチャーター便や定期便を用意しようと他の航空会社にかけあっていた。H.I.S.バンコク支店ではチャーター便1700席の予約が入っていて、全ての予約客に就航延期によって航空会社が変更になることを承諾してもらえるように対応にあたっていた。他の航空会社で座席を確保することは余計にコストがかかるが、支店長の中山さんは赤字になっても予約客の席を押さえようとしていた。新バンコク国際空港ではアジア・アトランティック・エアラインズの就航延期による予約客への対応は終了していて、混乱は無かった。真夜中の出発にも関わらず座席は満杯で、ツアー客は出発から6時間後に成田空港に到着した。アジア・アトランティック・エアラインズの自社機での就航予定は8月20日に決まり、矢野潤さんは「1番人気のあるアジアの旅行先を盛り上げていきたいと思う」とコメント。
 パリで行なわれた「パリ航空ショー(パリエアショー)」にスカイマークの西久保社長の姿があった。そのお目当ては、世界最大の旅客機エアバスA380。社長はエアバス社のジョン・リーヒー副社長と会談した。スカイマークA380を6機購入し、国際線に参入する新たな事業展開を考えていたのだった。ちなみに座席はエコノミークラスを設定せずに、2014年末に成田−ニューヨークに就航しビジネスクラスを30万円台にする予定。西久保社長は「ここ数年は日本だけがLCCのない空白地帯だったので、楽勝だったが、世界中に飛ばしていくとなるとこれから。JALANAどころじゃない強敵がうじゃうじゃいますから…」と述べた。
 →→格安航空会社の登場で飛行機の乗客が増え、アジアから日本への旅行者も急増した。今回格安航空会社ともまた違う航空会社が登場し、単なる乗客の争奪戦となるのではなく、利用者にどんなサービスをもたらす事ができるかという姿勢が、航空会社に求められている。安ければいいというわけにはいかず、安全でサービスが問われているのであろう。
(参考)◆『日本の空を変えるか 格安航空LCC』(2013年7月29日放送 19:30 - 19:56 NHK総合クローズアップ現代」より)
     http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130729

◆橋本、2安打2四球&レーザービーム!内海8勝目!貯金22!!
 巨人4─1ヤクルト(30日・東京ドーム) 巨人はヤクルトに先制を許したものの、村田の逆転打と1軍昇格して即「2番・右翼」で先発出場した橋本の活躍などでヤクルトを下し、4連勝で貯金を今季最多の22と伸ばした。

◆「待つわ」(作詞:岡村孝子、作曲:岡村孝子
 かわいいふりしてあの子 わりとやるもんだねと
 言われ續けたあのころ 生きるのがつらかった
 行ったり來たり すれ違い あなたと私の戀 いつかどこかで
 結ばれるってことは 永遠の夢 青く廣いこの空 誰のものでもないわ
 風にひとひらの雲 流して流されて
 私待つわ いつまでも待つわ たとえあなたが ふり向いてくれなくても
 待つわ いつまでも待つわ 他の誰かに あなたがふられる日まで

 悲しいくらいに私 いつもあなたの前では おどけて見せる道化者
 淚なんていらない わかりきってる強がり 平氣で言ってみても
 一人ぼっちの時には そっと淚を流す
 誰も私の心 見ぬくことはできない
 だけどあなたにだけは わかってほしかった
 私待つわ いつまでも待つわ たとえあなたが ふり向いてくれなくても
 待つわ いつまでも待つわ せめてあなたを みつめていられるのなら

 待つわ いつまでも待つわ たとえあなたが ふり向いてくれなくても
 待つわ いつまでも待つわ 他の誰かに あなたがふられる日まで

(7月30日生まれの偉人)
新美南吉(にいみ なんきち、1913年7月30日 - 1943年3月22日)は、日本の児童文学作家。本名は新美正八(旧姓:渡辺)。愛知県半田市出身。
雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳の若さで亡くなったため、作品数は多くない。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。
 地方で教師を務め若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治との比較で語られることも多い。賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、「北の賢治、南の南吉」と呼ばれ好対照をなしている。 作品の多くは、故郷である半田市岩滑新田(やなべしんでん)を舞台としたものであり、特に少年達が主人公となる作品では、「久助君」「森医院の徳一君」等、同じ学校の同じ学年を舞台としたものが多い。(主人公は「久助君」「大作君」など作品によって変わるが、「徳一君」や「兵太郎君」などはほとんどの話に登場して世界観をつなげる役目を果たしている。)
出身地の半田には、新美南吉記念館のほか、彼の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースも作られている。5年前に新美南吉記念館を訪ねたことがある。「ごん狐」の映画を上映していたが、女子高で国語教師として、作文指導の添削、手紙による指導が展示されており、その様子が印象的であった。
今年は生誕100周年にあたり、新美南吉記念館・岩滑地区・雁宿ホールほかで、200万本の彼岸花、南吉の里巡りイベント、合唱オペラ「ごんぎつね」など行われている。
◆中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 - 1968年12月1日)は日本の思想家、実業家、諜報員。日本初のヨーガ行者で、天風会を創始し心身統一法を広めた。本名は中村三郎(なかむらさぶろう)。
日本初のヨーガ行者。心身統一法を広めた。30歳にして、結核を発病。33歳の時、病気のために弱くなった心を強くする方法を求め、アメリカへ。日本への帰国の途上、カイロにてヨーガの聖人に弟子入りし、ヒマラヤで2年半修行。また、中国で孫文に「中華民国最高顧問」として協力。帰国後、東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任、実業界で活躍する。 波乱万丈の人生を経て経済界で成功。しかし、その後、突然財産を処分し「天風会」創立。後進の育成に取り掛かる。この「天風会」には、政財界の実力者が数多く入会した。中村天風の指導を受けた人物の中には、松下電器産業(現パナソニック)の創設者、松下幸之助をはじめとする政財界の大物や、スポーツ選手・文化人などそうそうたる顔ぶれが並ぶ。<名言>
「なんでも自分の欲望の標準を自分勝手に決めて、自分の思うようにならない世界をすぐ不満に感じたり、不平で考えるから、そら、いつまで経っても本当の幸福は感じやしないわ。」
「人生は生かされてるんじゃない。生きる人生でなきゃいけない。」
「苦労したり、悩んだり、憎んだり、恐れたり、悲しんでるとき、気持ちいいですか?あんな嫌な気持ちはなかろう。その嫌な気持ちをなぜ心にさせるんだ。」
「運命を好転するには、いいことだけを絶え間なく心に抱くんだぞ。 悪く悪く考えこまないように。」

<昨年の今日>もまた空白である。