猛暑続きの日曜日

◆朝5時から草取りを開始。7時に母親の朝食の支度。洗濯・掃除で中断。8時から再開したが、すでに30度は超えていた。暑くてこれ以上は作業はできない。次から次に噴き出す汗。結局11時で終了。本日の収穫はなす、ピーマン、キュウリである。なすが好調にとれているが、トマトが水不足か、鳥のせいか殆ど収穫できない。まだまだ今年も終わったわけではないが、これから母の介護をしながら、週末農業をするのであれば、畑の整理をしながら、いかに草とたたかい、野菜を成長させていくのかを学ばざる得ない。なすとピーマンには自信をを得た感がする。これからも種類を増やしていきたいものである。定年後、本格的に農業でもやってみようかな?

◆今日の午後のニュースによれば、今日も猛暑が続いている事が伝えられた。高知県四万十市山梨県甲府市では昨日と同様、40度を超えたと発表された。また死者も出ていて埼玉県で路上で倒れていた60歳男性が熱中症で死亡した事が伝えられた。この暑さは暫く続きそうである、母親には、熱中症には気をつけさせなければ成るまい。
世界陸上の女子マラソンで福士選手が銅メダル。

◆「半沢直樹」第二ステージへ。5億の融資を取り戻し、いよいよ本店へ。「やられたらやり返す。倍返しだ。」という半沢。またも波瀾万丈。そして、自殺した父がすがった銀行員が専務であった。これからのストーリ展開に興味を持たせる。

(8月11日生まれの偉人)
◆木戸 孝允 / 桂 小五郎(きど たかよし / かつら こごろう、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。
 長州藩士で、明治初期における「長州閥」の長(おさ)と認識されることが多い。幕末期には、桂 小五郎として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩藩西郷隆盛http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130123/p1)・大久保利通とともに「維新の三傑」「維新の十傑」として並び称せられる。その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、大久保利通の遺族とともにただ二家のみであった。妻は、幕末動乱期の命の恩人かつ同志でもある京都の芸妓幾松(木戸松子)。吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、藩庁政務座の最高責任者として活躍する。特に志士時代には、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けた。
 維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を建言し続けていた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。海外視察も行い、帰朝後は、かねてから建言していた憲法三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主・毛利敬親明治天皇から厚く信頼された。木戸は開明的であったが、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治政府の中にあっては、心身を害するほど精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となったが、夢うつつの中でも西郷隆盛を叱責するほどに政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取った。
◆本多 静六(ほんだ せいろく、慶応2年7月2日(1866年8月11日) - 昭和27(1952年)1月29日)は、日本の林学博士、造園家。日本の「公園の父」といわれる。
<名言>
楽天主義。職業の道楽化。功は譲り責めを負う。善を称し悪を問わず。好機を逸せぬ。勤倹貯蓄。天命を待つ。
・職業の精進によって人格は磨かれる。学校教育はその準備に過ぎない。
・何でも寸法を測る。
・無欲と苦言
・順境もよし、逆境もよし
・人は死ぬものに非ずして、自殺するものなり(セネカ
・大きな感激、大きな事業、大きな研究
・永久に残りかつ年とともに成長してゆく仕事を楽しべきである
本多静六記念館> http://www.city.kuki.lg.jp/kanko/rekishi/honda/kinenkan_open.html
 本多静六記念館は、本年4月21日(日曜日)に本多静六博士没60年記念事業で整備した本多静六記念館がオープンしました。記念館には、博士の直筆の資料や遺品などの貴重な資料をはじめ、公園の模型や写真、博士が手がけた全国各地の公園や観光地のポスターを展示している。
◆吉川 英治(よしかわ えいじ、1892年(明治25年)8月11日 - 1962年(昭和37年)9月7日)は、日本の小説家。本名、英次(ひでつぐ)。神奈川県生まれ。様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は広範囲な読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層を獲得し、「国民文学作家」といわれる。
 国民文学作家と呼ばれるほど読者の多かった吉川英治記念館を青梅に訪ねことがある。この記念館のある場所は当時は西多摩郡吉野村といっていたそうである。野村という庄屋の家を自宅として使用した土地と家がそのまま記念館となっている。ここを吉川は草思堂と名付けた。吉川英治疎開先のこの梅の里を愛しており、2千坪にのぼる土地と家を気に入っていた。母屋は外からしか覗けないが、「吾以外皆師」という吉川英治座右の銘を見ることできる。
 母屋にくっついた形で建設された洋館を吉川は書斎として利用していた。戦後しばらく筆を折っていたが、「宮本武蔵」とともに代表作とされる「新・平家物語」を58歳からこの書斎で執筆している。方形の書斎は、中央に座卓が置いてあり、原稿用紙を押さえるぶんちん、眼鏡、虫眼鏡を載せた地図、日本医学史などの厚い書籍や辞書類が卓上に並んでいる。吉川は座卓を使っていたようで、執筆当時の様子がそのまま再現されれている。人物記念館には作家の仕事場である書斎をそのまま見せたり再現させたりするところが多いが、ここは司馬遼太郎記念館と同じくそのままである。
 32歳から本格的に作家の道を歩みだす。「剣難女難」、「鳴門秘帳」、「親鸞」、などを書き花形作家となる。昭和10年から4年にわたって朝日新聞に連載した「宮本武蔵」では、剣禅一如の道を歩む新しい武蔵を書いた。この連載と本は、求道、克己、そして絶え間ない向上心がテーマであり、人生の書として人気を博した。読売新聞に連載した新書太閤記三国志、戦中はペンの従軍として各地を訪問していたが戦後はしばらく絶筆。そしてこの地で7年間にわたり大作「新・平家物語」に没頭する。この大作を書き終えたとき、「あとかたもなきこそよけれ湊川」とその心境を記している。
「外国物を翻訳したり、江戸文学を焼き直すよりも、自分の考えのほうが、遥かに、すぐれていると、僕は、つよい自惚れを持っている」と吉川は語っている。「逆境に育ち、特に学問する時とか教養に暮らす年時などは持たなかった為に、常に、接する者から必ず何か一事学び取るということ忘れない習性を備えていた。---彼が学んだ人は、ひとり信長ばかりでない。どんな凡下な者でも、つまらなさそうな人間からでも---我れ以外みな我が師也。としているおだった」。これは新書太閤記にある秀吉を描いた部分だが、これは吉川英治自身でもあった。
「夫婦の成功は、人生の勝利です。人間の幸福なんていうものは、この辺の所が、最高なものではないでしょうか。、、、帰するとことは、平凡なものです」という感慨が吉川にはあった。仕事に恵まれ、よく伴侶に恵まれ、骨肉愛を確かめた吉川英治の人生は、本人にとって満足のゆくものだったに違いない。
◆古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年(明治42年)8月11日 - 1989年(平成元年)8月18日)は、作曲家。本名は古關 勇治。福島に住みながら仙台に通い、金須嘉之進に師事して、1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家。それを機会に山田耕筰http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130609/p1)の推挙で東京の楽壇に進出。クラシック畑からポピュラー畑に転身し、多数の軍歌、歌謡曲早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、東京農業大学応援歌「カレッジソング」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」、 全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの応援歌大阪(阪神)タイガースの歌(「六甲颪」)、読売ジャイアンツの応援歌「巨人軍の歌闘魂こめて)」、東京五輪のオリンピックマーチなどの、多くの応援歌、行進曲の作曲を手がけ]、和製スーザと呼ばれる。気品ある格式高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛されている。作曲した曲は五千曲に及ぶという。作曲の作業には楽器を一切使わずに頭の中だけで行ったといわれる。
古関裕而記念館は、福島市にあり、音楽堂が併設されている。戦時中は勇壮な軍歌、戦後は明るいスポーツ音楽を数多く作曲する。2階の展示室では書斎が展示されている。ピアノなどの楽器はいっさい使用せず、和室の静寂の中で楽想を練った。机が3つあって、仕事が立て込んできたときなどは、この3つを行き来しながら作曲をしていたらしい。床の間には「月落ちて鳥啼く、、」の寒山寺の詩が飾ってあった。20歳ではコロンビアの専属作曲家契約を結ぶなど、20歳から80歳まで5000曲を作曲した。1年100曲として3日に1曲つくっていたことになる。古関裕而は、美しい旋律と格調高い響きで日本人の心を魅了した。

<本の紹介>
木戸孝允 (幕末維新の個性 8)http://d.hatena.ne.jp/asin/4642062882
              http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4642062882/hatena-ud-22/ref=nosim
花神 (新潮文庫)http://d.hatena.ne.jp/asin/4101152179
        http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101152179/hatena-ud-22/ref=nosim