「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」

永守重信日本電産社長)氏に「ゼロからここまで会社を成長発展させることが出来たのは、なぜだとお考えですか」と尋ねると、永守氏は次のように答えた。
 『信じる通りになるのが人生であるということですね。僕はこの言葉を自分で色紙に書いて、目のつくところに置いています。分でこうなりたいと思っていることもなれないのに、思わないことが実現するわけは絶対にないですから。だから信じる通りになるのが人生ということですな。
 しかし世の中の人はみんな信じない。頭のいい人ほど先が見えるから信じませんね。できるわけがないと思ってしまう。だからむしろ鈍才のほうが教育しやすいですね。創業間もないころの日本電産は、私の家の一室で図面を引き、桂川の堤のそばにあった三〇坪ほどの染め物工場の一階を借りて、旋盤とボール盤、プレス機を一台ずつ入れて事を始めたんです。
どこへ行っても仕事はもらえず、やっと受注できた仕事といえば過酷な注文がつくためにほかのメーカーのどこもやらないような仕事ばかり。技術者みんなに言うと絶対無理だと言う。そういうときはみんなを立たせて、いから出来る出来る一〇〇回言おうというわけです。「出来ます。出米ます。出来ます……」。「どうや」と。「いや出来ません」。今度は一〇〇〇回言う。そうすると不思議なことにだんだん出来る気分になってくるんです。そういう気分になったところで一気に始める。すると、客先の要求する性能に及ばないまでもかなりレベルの高い製品が仕上がる。こうやって日本電産の技術力が蓄積されていったんです。
 このときに「とても無理だ」「不可能だ」とあきらめていたら、日本電産はとっくに倒産していたと思います。社員によく言うんです。「物事を実現するか否かは、まずそれをやろうとした人が“出来る”と信じることから始まる。自ら“出来る”と信じたときに その仕事の半分は完了している」とね。』

 **→→  確かに名言である。物事を実践で切るかの差は、まず、自らのやる気であり、やり遂げることができるかどうかは、「できる」とまず自らを信じることであろう。まさに、悩むより行動してみよう。自らの力を信じていきたいものである。

◆<『人間にとって成熟とは何か』曽野綾子著 ・幻冬舎  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4344983122
●ポイント
 若い頃に許されたことが、年を取ると許されなくなる。30代も後半になると、そんな空気を感じるが、急にできるはずがない。ベストセラー『老いの才覚』で、高齢者の生き方に苦言を呈した著者が、人はどうやって成熟していくべきか、成熟した大人とは何か、を述べている。
※参考:『老いの才覚』 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4584122954
・正しいことだけをして生きることはできない。
・一人前の大人は、必ず心に思ったことと、表現の間に意識的な落差を生じているもの。
・世間からどう思われてもいい。人間は、確実に他人を正しく評価などできないのだから、と思えることが、多分成熟の証。
・個人にとって大切でも、他人にとっては全く興味のない話というものも世間にはある。その筆頭が病気の話である。
・人間にとって大切な一つの知恵は、諦めることでもあるのだ。諦めがつけば、人の心にはしばしば思いもしなかった平安が訪れる。しかし現代は、諦めることを道徳的にも許さないおかしな時代になっってきた。
・人生は最後の一瞬までわからない。

(今日の出来事)
前橋育英高校野球初優勝。
イチロー日米通算4000安打達成。

(8月22日生まれの偉人)
◆幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1947年(昭和22年)7月30日)は、日本の小説家。本名は成行(しげゆき)。別号には、蝸牛庵(かぎゅうあん[1])、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都)下谷生れ。帝国学士院会員。帝国芸術院会員。第1回文化勲章受章。娘の幸田文も随筆家・小説家。『風流仏』で評価され、『五重塔』『運命』などの文語体作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。擬古典主義の代表的作家で、また漢文学・日本古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。
◆出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年8月22日 - 1981年3月7日)は、日本の実業家・石油エンジニア。石油元売会社出光興産の創業者である。44年門司で石油販売の出光商会を創立。昭和15年出光興産を設立し,社長。敗戦で海外資産をうしなうが,大型タンカーの建造,製油所の建設などをすすめ,原油の輸入から精製,販売まで一貫する民族系石油会社をきずきあげた。出光美術館を設立した。昭和56年3月7日死去。95歳。福岡県出身。神戸高商(現神戸大)卒。
【名言】出光の仕事は金儲けにあらず,人間を作ること,経営の原点は「人間尊重」です
 ●『海賊とよばれた男』は、近年にない思わず興奮する小説だ。
 主人公・国岡鐡造とは出光興産の創業者・出光佐三その人である。明治44年、門司で出光商店(小説では国岡商店)を立ち上げた出光佐三は、その後、数々の苦難を乗り越え、民族系石油会社の雄となるわけだが、まず、その創業時の話が如何にも明治という感じで面白い。国岡鐡造と親しくしていた人物で日田重太郎という人物がいた。この日田は明治時代によくいた(漱石の小説にも出てくるような)、いわるゆる高等遊民という人物で、淡路島の資産家で神戸に移り住んでおり、そこで神戸高商(今の神戸大学)に在学していた鐡造と知り合いになる。
 この日田が『今、ぼくは神戸の家のほかに京都に別宅がある。それを売れば八千円ほどの金になる。そのうちの六千円を国岡はんにあげる』といって、当時、神戸高商を卒業して町の小さな商店に勤めていた鐡造に、ポンと上げてしまうのだ。勿論、鐡造はそれを「融資」として受け止め、その後の国岡紹介の儲けから返していくのだろうけれども、その六千円がなかったら、今の出光興産もなかったわけだから、これはすごいことだったのだろう日田の慧眼が素晴らしかったのか、あるいは大博打が当たったのかどうかは知らないが。
 それで出来た国岡商店(出光興産)もすごい会社で、つい最近まで、「時間による従業員管理なし」「定年なし」「馘首なし」「株式公開なし」ついでに「労働組合なし」という、いわゆる明治の大家族主義経営を行っていたのである(最近、タイムカードとか定年制とか株式上場も行った)。たしかに、こうした社員管理をしないし、馘首なしという会社では労働組合なんかも、なかなかできないだろう。さらに、じゃあ「できない社員」はどうしたかというと、「できるようになるまで勉強させた」というのである。それは、創業期のエピソードとして;
『ある夜、十二時を回り、疲れ果てて寝床に入る鐡造をみて、(妻の:引用者注)ユキが言った。
「そこまですることはなかじゃありませんか」
「ぼくは若か店員たちば家族と思うとる。皆、優秀やけど貧しくて上の学校さ進めんやった子供たちたい。彼らば親御さんから預かったときから、兄であるぼくが彼らば立派な人間にする義務が生まれたとたい」
「でも、鐡造さんのやり方ば見とりますと、時間がかかります。子供たちが間違うたら、考えさせる前に、こうやるとよかと正しいやり方ば教えるほうがずっと早かじゃなかですか」
 ユキは鐡造が、年少の店員たちが自分で答えを導き出すまでずっと付き添い、同じ時間を過ごしていることを言っていた。
「それでは、自分で考える力が付かんたい。自分で工夫して答えば見つけることが大切たい。それでこそ、きっちりとした人間になるち思う。ユキはそげん思わんね」
「思います」
「ぼくの指示ば、ただ待っとるだけの店員にはしとうなか」鐡造は言った。「今の国岡商店は店舗ばひとつしか持っとらんばってんが、いずれいろんなところに支店ば出していきたいち思うとる。彼らはその店主になるわけやけん、大事な商いばいちいち本店に伺いば立てて決めるごたる店主にはしとうなか。自分で正しか決断ができる一国一城の主にしたか」
 ユキは目を細めて、「いつか、そんな日が来るとよかですね」と言った。
「その日が来るとば一緒に見届けてくるるか」
 ユキは力強く頷いた。』
 というのがある。まさにこれは教育者の言葉ですね。
 そして、これこそ創業者じゃないと出来ない態度として、「リスクをとる」という発想がある。関門海峡の門司側で商売をしていた国岡商店は、下関側の漁船に対して「洋上取引」でもって石油を売った。確かに、それは下関側の商圏には乗り入れないでの取引だし、下関側としても隔靴掻痒ではあるけれども、下関側が利権を守るためにそうしたリスクを犯さない商売しかやっていなかったのを見た、鐡造側の勝利である。
 この初期の成功に基づいて、国岡商店は基本的に「リスクをとることで成功していく」という方程式を作り上げたのだ。戦前に国策石油会社の圧力から満州に拠点を置かざるを得なかった国岡商会は、満鉄という国策会社相手に飛び込みセールスをしてみせて成功し、戦後も、他の石油会社が手を染めなかった廃油事業にあえて手を出してみたり、そして、何と言っても「日章丸事件」がその最大のリスクテイクである。
 イギリス海軍と対峙して、まさに拿捕の危険をおかしてのイランとの石油貿易を成功させた部分は、読んでいてもまさに「手に汗を握る」思いがした。セブンシスターズに首根っこを押さえられた他の石油会社では絶対にできないこの取引。下手をすればイギリス海軍によって撃沈されていたかもしれない危険を冒してでも、イランとの取引を成功させたかった国岡鐡造の思いは、当然、他の石油会社が手を出さないからという理由が最大の理由だろう。「イランを助けたい」という鐡造の思いは、まあ、多少割り引くとしても、まさに「挑戦者」ならではリスクテイクであり、そこでリスクを恐れていては、今の出光興産(国岡商店)はなかったのである。
 いまや、「就業規則」も「定年」もあるし、株も公開している出光興産である。この国岡鐡造(出光佐三)の思いはどこまで通用するのであろうか。ということで、私はこのノンフィクション・ノベルを敢えて「国岡商店=出光興産」として読んでいます。当然、細かい台詞とか、ストーリーは実際の出光興産の事実とは違うだろう。しかし、敢えてすべてを「事実」として読むことが、ノンフクション・ノベルの楽しみでもあるわけだから。
◆澤田 政廣(さわだ せいこう、1894年8月22日- 1988年5月1日)は、彫刻家。静岡県熱海市生まれ。本名は寅吉。山本瑞雲に師事。1918年東京美術学校彫刻科別科卒業。1931年帝展審査員。1941年三木宗策と正統木彫会を結成。1947年日展審査員、1950年日展運営会参事、1951年芸術選奨文部大臣賞、1953年日本芸術院賞受賞、58年日展評議員、1962年日本芸術院会員、日展理事、1965年日展常務理事、日本彫塑会会長、1970年同理事長、1971年日展顧問、1973年文化功労者、1979年文化勲章受章、日本彫塑会名誉会長。代表作は、『吉祥天』『大聖不動明王』など。仏像彫刻を行なう。静岡県熱海市にある澤田政廣記念美術館(http://www.city.atami.shizuoka.jp/atamimap/l-sawada.html)のエントランス・ホールには、1988年に作成したステンド・グラス「飛天」が天井を飾っている。

<昨年の今日>もまた空白である。