今映画「少年H」が話題?

◆今映画「少年H」が話題である。
 原作は「少年H(新潮文庫)」(妹尾河童著・新潮社)(http://www.amazon.co.jp/%E5%B0%91%E5%B9%B4H%E3%80%88%E4%B8%8A%E5%B7%BB%E3%80%89-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%A6%B9%E5%B0%BE-%E6%B2%B3%E7%AB%A5/dp/4101311064http://www.amazon.co.jp/%E5%B0%91%E5%B9%B4H%E3%80%88%E4%B8%8B%E5%B7%BB%E3%80%89-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%A6%B9%E5%B0%BE-%E6%B2%B3%E7%AB%A5/dp/4101311072)である。1997年に発売され今日まで340万部(上下)を超えるベストセラーとなっている。英語版、台湾版、韓国版、中国語版も出版されている。今年6月の第35回モスクワ国際映画祭(世界4大映画祭の一つ)で、この映画には特別作品賞が贈られている。
 洋服屋の少年Hの父が神戸でユダヤ人の服の修繕をする場面があった。このユダヤ人一行は、リトアニア領事・杉原千畝が外務省の命令をきかずに発行した日本通過ビザで日本に入国した人々だった。ポーランドからリトアニアに逃げて、シベリア鉄道ソ連を経由してウラジオストックに到着。船で敦賀に入港し、神戸に移動・滞在していた。その後、アフリカのケープタウンを経て、砂漠を越えてパレスティナに向かうユダヤ人だった。杉原は独断で6000人のビザを発行したのだ。少年Hはこの歴史的な場面に遭遇していた。原作の妹尾河童http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130623)は1930年(昭和5年)生まれ。監督の降旗康男は1934年生れで高倉健で有名な「網走番外地」「あ・うん」「鉄道員(ぽっぽや)」などの作品がある。
 戦争が背景にあるが、基本的には父と子の物語である。一直線の子と、自分の意見を持ちながら建前と妥協してしぶとく生きていく父親の物語だ。あらすじは、昭和初期の神戸。洋服の仕立て屋を営む妹尾という家族がいた。芯の通った広い視野を持つ職人「妹尾盛夫(水谷豊)」、熱心なキリスト教徒「妹尾敏子(伊藤蘭)」、絵を描くことが好きで素直な長男「妹尾肇(吉岡竜輝)」、その妹「妹尾好子(花田優里音)」の四人家族だった。一家は楽しく日々を過ごしていたが、戦争の色が濃くなるに連れて、徐々に生活は変わってゆくことなる。
仲の良かったうどん屋のお兄ちゃんが思想犯として捕まったり、優しかった元女形の芸人男姉ちゃんが戦争に行くことになったり……。さらには、妹尾家もキリスト教徒だという理由で、スパイ容疑を受けたり、イジメを受けたり……。中学に入学した肇も、軍事教練を受けることになる。しかし、やがて日本は敗戦を重ねてゆく。だが、一切負の結果を報道しない新聞や国に、肇は戸惑いを覚える。そして、国民は戦争の真実を知らないまま、日本の敗北と言う形で終戦を迎えることになった。破壊された町。死んでいった人々。残された人々。今まで戦争を賛美していた人々が、敵のはずの外国人(アメリカ人)相手に商売をする。思想犯の証だった共産主義を掲げる人々。肇は「なんだったんだ! この戦争は、なんだったんだ!」と、叫ぶ。しかし、盛夫の「これからが始まりだ」との励ましを受け、肇は絵描きとして、独り立ちすることを決意して、家を出るのだった。
 「おかしい」ことを「おかしい」と言えない世の中。弾圧、逮捕、拷問。直接的な地獄があったのでしょう。道徳の価値が薄れ、隣人愛が廃れてゆく。皆自分のことだけしか考えられなくなり、「絆」のつながりが消えてゆく。戦後、肇は、隣人や浮浪者に白米(非常に貴重だった)を譲ろうとする敏子に、「癖になる! 当たり前だと思うようになる! 俺たちはどうやって生きていくんだ!」と怒鳴ります。ですが、正しい言葉だと思います。当たり前だったことができなくなっている時点で、今までと同じことは望めません。しかし、敏子の行動もまた、正しいことなのでしょう。それが、たとえ自己満足であっても。多感な時期に、戦争を教えられ(押し付けられ)た肇にとって、アメリカ人相手に商売をしている元教官や、共産主義に走った元教官の姿は、自己が揺らぐほどの衝撃だったに違いありません。だから寄る辺を失ったのだと思います。しかし、そこで、芯の通った父親盛夫の言葉のおかげで、立ち直ることができました。おかしいことを、おかしいと。信じるものを、信じぬく。そういった心が、大切なんだと思う。流れに流されるままは、違うぞ、と、言いたかったのではないでしょうか。そういった点では、盛夫は、一時揺らいでも、優れた家長でした。戦争を知らない我々が改めて戦争を考えさせられる良い映画でした。
 余談であるが、主演の父・水谷豊と母・伊藤蘭が夫婦としての初共演であった。神戸大空襲で町が焼かれるシーンが真に迫っていた。セットを実際に燃やしたということらしい。その後の焼け野原のシーンも迫力があった。

◆午前中小雨の中、草とり。先週手を抜いた結果が草だらけ。何とか半分程度の草取りで終わる、今週中にもう一回草取りをしなければなるまい。また生えてしまう結果になるのではないかと不安。でもガンバって草取りに励んで行こう。
 またスイカができていた。これから大きくなるのであろうか。収穫できるのかが不安。なすとかきが大量に収穫。部屋の掃除・洗濯・食事の支度をして夕方帰宅。明日からまた仕事。8月もあと1週間。まだまだ残暑が続くのだろうか。

◆NHK「八重の桜」は、いよいよ新島襄が登場。新島は1964年に鎖国の禁をおかして函館港からアメリカへ密航。ちょうど南北戦争が終わった年(1865年)にボストンに到着。函館にて出航場所の記念碑を見たことがある。1875年に同志社英学校を設立する。これは明治8年のことになる。明治4年に新橋横浜間の鉄道が開通、明治5年に富岡製糸場。明治の近代化のスピードの速さ・凄まじさを痛感する。


(今日の出来事)
・前線や湿った空気の影響で大気の状態が不安定になり、西日本を中心にきょうも局地的に非常に激しい雨となり、各地で被害が出ている。長崎、島根、大阪など。
・東京 羽田空港 人文字でオリンピック招致にエール
・解体前の小学館ビル 人気漫画家の落書き公開 (http://d.hatena.ne.jp/kaitoster/20130827

(8月25日生まれの偉人)
◆渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896年(明治29年)8月25日 - 1963年(昭和38年)10月25日)は、日本の財界人、民俗学者、第16代日本銀行総裁、大蔵大臣(幣原内閣)、旧子爵。祖父は渋沢栄一http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130316)。
 東京帝国大学経済学部を卒業後、横浜正金銀行に入行してロンドン支店などに勤務。 その間、木内重四郎、磯路夫妻の次女登喜子と結婚(晩酌人は和田豊治)。重四郎は京都府知事等を務めた官僚で、母磯路は三菱財閥創始者岩崎弥太郎の次女。1926年(昭和元年)に第一銀行へ移り、副頭取などを経て1942年(昭和17年)に日本銀行副総裁、1944年(昭和19年)には第16代総裁に就いた。第二次世界大戦直後、姻戚の幣原喜重郎首相(幣原の妻・雅子と敬三の姑・磯路は姉妹)に乞われて大蔵大臣に就任。およそ半年の在任中に預金封鎖、新円切り替え、財産税導入など戦後の激しいインフレーションの処理に当たった。渋沢家はGHQ財閥解体の対象となり、1946年(昭和21年)に公職追放の指定を受ける。 自ら導入した財産税のため、三田の自邸を物納することになった。追放解除後は、経済団体連合会相談役、国際電信電話KDD。現KDDI)社長、文化放送社長、高松宮家財政顧問などを務めた。
 多くの民俗学者も育て、岡正雄宮本常一http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130801)、今西錦司江上波夫、中根千枝、梅棹忠夫http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130613)、網野善彦伊谷純一郎らが海外調査に際し、敬三の援助を受けている。他にも多くの研究者に給与や調査費用、出版費用など莫大な資金を注ぎ込んで援助し、自らも民俗学にいそしんだのは、幼い頃から動物学者になりたかったものの諦めざるを得なかった心を癒したものとみえる。敬三と、柳田をはじめ多くの研究者との交友の様子は、友人でもあった岡書院店主岡茂雄の随筆『本屋風情』に詳しい。

<昨年の今日>は空白である。