今日は没後80年を迎えた宮澤賢治生誕の日である。

◆『“道で稼ぐ”〜進化する「道の駅」と「サービスエリア」』(2013年8月27日放送 22:00 - 22:54 テレビ東京 「ガイアの夜明け」より。
 群馬県在住の黒川文雄さんは定年退職後に全国を車で回ってはカメラ撮影を満喫している。黒川さんが訪れた山梨県には17箇所の道の駅があり、黒川さんは道の駅かつやまで車中泊した。現在、全国に千以上ある道の駅は巨額の利益を出している。道の駅は全国に1003ヶ所存在し、24時間利用可能な駐車場やトイレ、地域振興につながる施設を備えている。漁師の入江誠さんは一本釣りで獲ったヤリイカを加工し、福岡・宗像市にある道の駅 むなかたの直売所で販売した。売り場では玄界灘の鮮魚が約30種並んでいる。道の駅 むなかたの直売所が午前8時30分にオープンするやいなや、多くの客が一目散に魚売り場へと向かった。客の6割は宗像市外からで、駐車場は満車状態。開店から30分で早くも空になったコーナーがあり、漁師は次々と商品を補充していった。漁師は道の駅に売上の10数%の手数料を納めれば売価を自由に決めることができ、年間2000万円を売り上げる人もいるという。そんな道の駅 むなかたでは5年前に公募で館長になった山崎宏幸さんが運営を担っている。道の駅 むなかたの山崎宏幸館長は地元漁師とタッグを組み、ベラやバリといった玄界灘の魚に着目した。また利益確保のために売れるための努力を勤しんでいる。道の駅 むなかたでは開店前から行列ができていて、中には5時に来た人もいる。九州No1の集客力を誇る道の駅 むなかたは漁師が直接持ち込む鮮魚で売上を伸ばしてきた。開店2時間前から地元の農家が道の駅に出品しようと訪れ、売り場の場所取り合戦を行うという。また開店と同時に多くの客が訪れ、早々に完売するコーナーもある。
 新潟・見附市は人口4万2000人の田舎町だが、地域活性化を狙って道の駅 パティオにいがたがオープンを控えていた。道の駅 パティオにいがたのオープン1ヵ月前、現場では急ピッチで準備が進められていた。小林久仁代さんは新潟県内で野菜直売所を4店舗展開する豊栄わくわく広場のエースで、道の駅の現場責任者を任された。道の駅 パティオにいがたの現場責任者を任された小林久仁代さんは目玉となる地元野菜の出品者が少ないことに悩んでいた。スタッフの築井和男さんは地元農家を訪ね、直売所に出荷してもらえないか呼びかけたが、断られ続けていた。
 愛知・刈谷市にある刈谷パーキングエリアでは観覧車やメリーゴーランド、温泉施設など一台レジャー施設となっていた。サービスエリアやパーキングエリアは全国に約380ヶ所あり、テーマパーク型の寄居PAや京都の町家をイメージした岸和田SAなどがある。海老名サービスエリアには年間2000万人以上が来場していて、成城石井伊勢丹などが出店している。こうした本格的な商業施設を持つサービスエリアは「道ナカ」と呼ばれている。清水パーキングエリアにはユナイテッドアローズBEAMSといったファッションブランド店が軒を連ねていて、おみやげ用に購入する人もいるという。女性アクセサリーブランドを扱うハートダンスではこれまで扱ってこなかった男性向け雑貨やドライブ用品などを販売し、男性客や子連れ客が多く呼び込んでいる。玉屋では夏休み中に高速道路を利用する客を掴むため、新商品の検討会を行った。清水パーキングエリアでは富士山グッズで勝負することになり、8月22日にグッズが店頭に並べられた。久保元嗣さんが見守るなか、グッズを気に入った外国人観光客らが購入していった。また現在リニューアル中の富士川サービスエリアは、これまでになかったサービスエリアを目指している。
 8月下旬にオープンを控えた道の駅 パティオにいがたでは、野菜直売所に70品目の野菜を取り揃えるプランが進行していた。協力してくれる農家が集まらないなか、家業を継いだばかりの松井秀明さんらがオファーを申し入れた。オープンを控える道の駅 パティオにいがたの現場責任者を任された小林久仁代さんは近隣に大型スーパーがあることに懸念を示していた。そこで小林さんは協力を申し入れた農家の野菜を持ち、ガトウ専科の松井秀明さんに野菜を使ったオリジナルスイーツを依頼した。道の駅 パティオにいがたが8月23日にオープンし、当日にはおよそ100人の農家が栽培した野菜を直売所に出品した。オープン前から多くの客が駆けつけ、開店と同時に店内は賑いを見せた。直売所では大口れんこんを使った「れんこんブラウニー」が販売され、100個が売れた。小林久仁代さんは「見附市の活性化の手助けができればと思います」とコメント。
・・・・まさに、道の駅やサービスエリアは旅の通過点ではなく、目的地と変わっている。人を呼び続ける魅力をどう磨くかは、地域との取り組みがますます重要となってくるであろう。

◆「海賊と呼ばれた男」(百田尚樹著・講談社)から 
 出光興産を創業した1885年(明治18年)生まれの出光佐三の95年の激動の人生を描いた小説。昨年出版されてこの小説は、本屋大賞を受賞した。これを読んでいて、「太平洋戦争後の日本人のこと」とか、「人が企業で働くということ」について、あれこれ考えずにはいられませんでした。太平洋戦争後、敗戦国となった日本は、すっかり「アメリカの言いなり」になっていて、それがずっと今まで続いていると思い込んでいたのですが、僕が生まれる前、昭和20〜30年代の日本人には、こんな「気骨のある人」がいたのだなあ、と。戦争によって、力差を見せつけられたあとでも、欧米から敵視されているイランから石油を輸入しようとした出光の行為に対して、快哉を叫ぶくらいの「意地」が、当時の日本人にはあったようだ。
いま、同じようなことを日本の会社がやったら、「国益に反する」と、日本中から大きなバッシングを受けるのではないでしょうか。日本人が骨抜きにされたのは「戦争に負けたから」だけではなくて、「戦争に負けたあと、自分たちで奴隷根性を植え付けていった」のではないか、と考えさせられた。
 出光は、戦後、石油を扱えない時期も「社員は家族だ」という佐三さんの考えのもとに、社員を「ひとりも会社側からはクビにすることなく」経営を続けてきた。もちろん、仕事もないのに社員を養っていくのは困難であり、ラジオの修理や「旧海軍の残油浚い」というような仕事を請負いながら、なんとか生き残りをはかっていくが、この「旧海軍のタンクの底にわずかに残っていた、泥混じりの残油さらい」という仕事などは、読んでいると、まさに「3K(きつい、きたない、きけん)労働」であった。きついわりには、儲かるわけでもないし、今後の確固たる保証があるわけでもない。イランへのタンカーの派遣は、この本のクライマックスだが、会社にとっても、タンカーを運航した人たちにとっても、かなり危険な賭けでしたし。結果によっては、「歴史的な愚行」として語り継がれていたかもしれない。
 ところが、出光の社員たちは、こういう「3K労働」を活き活きとやっていた。「仕事がない時代」であり、「食べさせてくれている会社」への恩返し、という気持ちはあるのでしょうが、それにしても、いまの時代との「働くことへのモチベーション」の違いには驚かされる。「この会社を、そして日本を復興していくのだ」という意思の強さにも驚かされる。
 もちろん、途中でイヤになってやめてしまった人たちも少なからずいたようである。ずっとこの会社に残り、会社を支えてきた人たちは、みんなキツイ仕事もしているだろうし、休みもそんなになかったようだが、すごく充実した人生を送ったようにみえる。仕事の内容とか労働条件を考えれば、いまの「ブラック企業」も裸足で逃げ出すくらいなのに、そこで働いている人たちは、幸せそうにみえる。出光佐三という、「異端の起業家」の物語であるのと同時に、「働く」ということについて、問いかけてくる物語でもある、まさに、「やりがい」があれば、どんなにキツイ仕事でも、人は喜んで働けるのではないか。今、失われてしまったのは、その「やりがい」ではないのか。「こういう人の元で、働いてみたい」
物語のなかでも、そういう人って、そんなに出会わないものだが、この小説には、そう感じさせる「店主」がいる。「ガソリンなんて、どこの会社も同じようなもんだろ」と考えていたけれど、これを読んだら、出光のスタンドで給油しようかなって思う。
 このように、出光佐三というカリスマがそう生きてきたのだろうか。様々な出会いがあり、リーダーとしてのすばらしさをみる、人との出会い(日田重太郎)、石油という魔物の商品に着目したこと、戦争など激動の歴史の中で翻弄される佐三、何度も訪れる危機で出会う僥倖、アメリカと日本官僚と同業者とのえんえんたる戦い、家族と呼ぶ社員たちの奮闘、企業よりも日本を優先する思想、お世話になった人たちへの義理堅さ、危機に際し原則と方針を明確に指し示すリーダーシップ、禅僧・仙がいの絵との遭遇と蒐集(月は悟り、指は経典)、そして、丁稚奉公の主人や神戸高商校長の影響。かつて、NHKの「プロジェクトX」を大きなスケールとして実行した男の物語であり、血湧き肉躍る書きっぷりは素晴らしい。このような真の日本人が様々な分野と業界にいたのだろう。その日本人が礎となって今日の日本がある。混迷する今日、時代を生きる指針を真の日本人に求めているのではないだろうか。
 (名言)•黄金の奴隷たる勿れ
     •愚痴をやめよ。ただちに建設にかかれ。
     •士魂商才
     •自分で工夫して答え見つけることが大切したい。それでこそ、きっちりとした人間になる。
     •誘惑に迷わず、妥協を排し、人間尊重の信念を貫きとおした五十年であった。
 また、出光佐三終戦を迎えた二日後ほとんど全ての日本人が茫然自失としている中、「玉音を拝して」と題した訓辞冒頭で「一、愚痴をやめよ。二、世界無比の三千年の歴史を見直せ。三、そして、いまから建設にかかれ」という発言をしている。彼は「敗戦という事実を前に今さら愚痴って何になるんだ」ということを戦後の第一声として発し、それに続けて「三千年の歴史を鑑み、如何に日本民族が過去幾多の試練に耐え抜き、そしてまた、様々な異民族文化を摂取して新たな物を創り上げてきたか」とか、あるいは「明治維新一つ取ってみても、若き志士達が日本の伝統を踏まえながら、あれだけ短期間に西洋列強にキャッチアップして行ったか」という偉大なメッセージを出した。歴史を寧ろ振り返って勇気を貰い、今一度前を向いて進んで行こうではないかと日本人を励ましたわけで、反省も良いが、常にそこには悔い改め今度はこうしようという前向きなものがなければ、本当の意味で過去の人になっていくのかもしれない。ここに素晴らしさを痛感せざる得ない。

(8月27日生まれの偉人)
◆宮沢 賢治(みやざわ けんじ、本名:宮澤 賢治、1896年(明治29年)8月27日 - 1933年(昭和8年)9月21日)は、日本の詩人、童話作家。郷土岩手に基づいた創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた。生前は無名に近い状態であったが、没後に草野心平http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130512/p1)らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家とされていった。
  三陸地震の年1896年に生まれた宮澤賢治の記念館は花巻市にある。賢治が生前に出版したのは意外なほど少ない。詩集「春と阿修羅」と童話「注文の多い料理店」の2つである。盛岡中学で10年先輩となる石川啄木の「一握の砂」に影響を受けた賢治が注目を浴びるのは、死後のことである。自費出版の「春と修羅」は辻潤が評価し、中国にいた友人の草野心平に知らせる。草野は賢治の書を「世界の驚異」と表現している。草野は友人の高村光太郎にみせたことが縁で、賢治より13歳年長の高村光太郎は賢治の詩を発表すべきだと考え、東京で宮澤賢治追悼会を開いている。そして宮澤賢治全集を10年かけて刊行する。
 戦争の暗雲たなびく時代にあって、有名な「雨にも負けず」の詩は死後、谷川徹三によって大政翼賛をあおる詩集として修身の副読本として取り上げられた。戦後は復興に励む人間像として国定教科書に載り、日本人の多くが知る詩となった。死への旅立ちに向かって、昭和6年9月21日の遺書、昭和6年11月3日の詩「雨にも負けず」、遺品の中から発見された短歌、そして昭和8年9月20日の絶筆と心境が綴られている。ここに「雨にも負けず」の最後に記された「南無妙法蓮華経」の7行の意味を解く鍵があるようだ。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ

南無無邊行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如來
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

 賢治は盛岡高等農林の教師として充実した日々を送っていたが、全体主義的教育方針に違和感を感じ「農民のために尽くす」という使命感に燃えて、職場を辞している。農民は奥州藤原時代以来イキイキと藝術を楽しみながら生きてきたとして農民藝術を提唱した。賢治によれば農作物は芸術作品である。
賢治は父との宗教的葛藤に苦悩する。父は個人の救済を主張する浄土真宗の有名な活動家であり、息子の賢治は世界の変革を説く日蓮宗に帰依する。そして父は賢治の死後、改宗という決断を下す。文学と科学と宗教が矛盾なくとけあった独自の世界を築いた宮澤賢治は、37歳の若さで世を去る。賢治は、1920年に田中智学が創設した日蓮主義の在家信仰団体・国柱会に入会する。そして「法華文学ノ創作」を志す。親鸞の他力本願と日蓮の法華信仰とは正反対の教えである。浄土は死後にあるとしひたすら南無阿弥陀仏を唱えよという真宗。この世を浄土にしようと願い南無妙法蓮華経を唱えながら現世の改革にあたろうとする日蓮宗。遺言として「国訳 妙法蓮華経を1000部作ってください」と父に頼み近親者に配る。賢治の死後、父・政次郎は日蓮宗に改宗する。宮澤賢治の生まれた年に明治三陸地震があり、没した1933年には昭和三陸地震があった。天災と凶作の37年間だった。
<本の紹介>
・新編宮沢賢治詩集 (新潮文庫http://d.hatena.ne.jp/asin/4101092079)
              http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101092079/hatena-ud-22/ref=nosim
宮澤賢治に聞く (文春文庫)http://d.hatena.ne.jp/asin/4167111241
◆丸谷 才一(まるや さいいち、1925年(大正14年)8月27日 - 2012年(平成24年)10月13日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家、随筆家。主な作品に『笹まくら』『年の残り』『たつた一人の反乱』『裏声で歌へ君が代』『女ざかり』など。文章は一貫して歴史的仮名遣いを使用。日本文学の暗い私小説的な風土を批判し、軽妙で知的な作品を書くことを目指した。小説の傍ら『忠臣蔵とは何か』『後鳥羽院』『文章読本』などの評論・随筆も多数発表しており、また英文学者としてジョイスの『ユリシーズ』の翻訳などにも携わった。

(今日の出来事)
・日本の首相 初めてジブチ自衛隊の拠点を訪問 
・猛暑 熱中症 5万3,000人搬送 過去最悪ペースに。
・高校無償化 所得制限910万円 
・学力テスト 秋田が連続1位 
・シリア 化学兵器使用問題 米 “軍事介入”も視野に。

<昨年の今日>は空白である。