グーグルからわかる『丹下健三』生誕100周年、そして『33年目の向田邦子』

◆「丹下健三 伝統と創造 瀬戸内から世界へ」展
 丹下健三は、今日9月4日に生まれ、「世界のタンゲ」と言われ、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がけた。瀬戸内国際芸術祭2013 丹下健三生誕100周年プロジェクト「丹下健三 伝統と創造 〜瀬戸内から世界へ〜」展が開催されている。「丹下健三」の名は知らなくとも、東京オリンピックの舞台となった国立代々木競技場や 東京都庁舎を知っている人々は多いはず。この設計者が丹下健三。丹下建築は、戦後日本の歩みと時代精神が象徴的に刻まれた建築として 世界から認められていると同時に、建築の枠を越え都市や国土のスケールまで俯瞰した建築としても評価されている。丹下の代表作である−広島ピースセンター(広島平和記念資料館平和記念公園)→香川県庁舎→国立代々木競技場→日本万国博覧会マスタープラン−は、戦後日本の歩みである−平和→民主主義→オリンピック→万博−と見事にシンクロしている。この歩みの中で、瀬戸内では、平和を祈念するための場を計算されつくした軸線により生み出した広島ピースセンター民主主義を象徴し市民に開放されたピロティやロビー、モダニズム建築と日本の伝統的木造建築との融合を結晶させた香川県庁舎、さらに、今治市役所、倉敷市立美術館、戦没学徒記念館(南あわじ市)などの丹下の代表作品を 数多く見ることができる。
 また、瀬戸内は、丹下の故郷の今治、学びの地の広島もあり、生涯に大きな影響を与え続けた地域でもある。展覧会では、丹下建築のみならず、丹下に学び、競った同時代の瀬戸内を代表する地域の建築も取り上げ、瀬戸内の現代建築の多様な可能性も紹介している。

◆ 『33年目の向田邦子』(2013年9月4日放送 19:30 - 19:56 NHK総合 クローズアップ現代より)
 黒柳徹子さんは、作家脚本家の向田邦子さんの才能が忘れられないという。先週東京で開かれた向田邦子の企画展は、向田邦子の死後30年以上たった今も高い人気を集めている。高度経済成長の時代に、脚本や小説で時代の先端を駆け抜けた向田邦子は、3世代同居の家族の日常を描いた代表作TBSの「寺内貫太郎一家」の平均視聴率は30%を超えた。7月には寺内貫太郎一家の小説が再び発売され大きな反響を読んでいる。人々を魅了し続ける向田邦子の色褪せぬ魅力に迫る。一般に33回忌の法要を行うころは個人を知る人が殆どいなくなっているとされているが、今年33回忌を迎えた作家・脚本家の向田邦子は逆に新しい読者が今も生まれている。向田邦子は家族を描いた傑作を次々とヒットさせホームドラマの地位を確かなものにした。その後エッセイや小説でもファンを獲得し50歳で直木賞を受賞した。向田邦子が残した作品は亡くなって30年以上たつがエッセイや小説で絶版になったものはない。さらに東日本大震災を経た今家族や日常を綴った作品が改めて注目され関連本も続々と出版されている。向田邦子の世界に現代の読者は何を感じているのか。向田邦子が33回忌を迎えた先月、妹の和子さんが姉の墓を訪れていた。毎年この時期多くのファンが墓に花を手向けるという。和子さんは、姉は新たな読者によって育てられ続けていると感じていると話した。昭和56年8月、向田邦子は台湾で飛行機事故に遭遇し51歳でこの夜を去った。28歳の時、始めてテレビの脚本を手掛けた向田邦子は以来、常に時代の第一戦に立ち続けた。
 親友だった黒柳徹子は、毎日のように向田邦子の家を訪れていたといい。向田邦子は生前に「徹子の部屋」にもゲスト出演していた。黒柳徹子は向田作品の根底には、彼女自身の人生観が流れていると感じている。家族というテーマにこだわり続けた向田邦子の代表作の1つで、一世を風靡したTBSのテレビドラマ「寺内貫太郎一家」は、ドラマの中で長女は父親の不注意が原因で足に一生の怪我を負っている。コメディータッチな作品でも一筋縄ではいかない家族の関係を描くのが向田邦子の特徴だった。生前の向田邦子を知る人は彼女の独特の視点に、はっとさせられることが多かったと話す。亡くなる直前まで向田邦子の担当だった編集者の関根徹さんは、自分には気づきえない指摘を向田邦子から受けることもあったという。生前の作品の中で貫かれているのは家族と人間への深い眼差しだった。エッセー「ねずみ花火」では、人を十把ひとからげに見てはいけないと自分にいいきかせている。と綴っている。
 向田邦子の死から30年以上がたった今でも人々が彼女の作品に引きつけられる理由は様々である。岩手県陸前高田市の菅野えり子さんは、今かつて呼んだ向田邦子の作品を読み返している。菅野さんが惹かれているのは家族の何気ない日常を細やかに描き出したエッセイ。「子どもたちの夜」では、えんぴつを削ってくれた母の話が綴られている。震災後は叔母と2人仮設住宅で暮らしている菅野さんは、向田邦子のエッセイを読むと、不自由な暮らしの中にも豊かな日常があると思えるようになったと話す。若い世代を中心に向田邦子の生き方に共感する人もいる。女性の多くが結婚し家庭に入るのが当たり前だった時代、向田邦子は仕事や趣味、自分の信じたことをやり通した。28歳で大学院生の山口みなみさんは、博士課程で現代文学を学んでいる。山口さんが最も好きだというエッセイ「手袋をさがす」は手袋を人生になぞらえ迷いながら生きていた20代の頃の心境を綴った作品。研究に打ち込み続けることが正しいのか不安に思うこともあるという山口さんは、このエッセイにいつも勇気づけられると話した。
 映画監督の是枝裕和さんは向田作品の全く別の側面に惹かれている。ホームドラマの中に人間の弱さや醜さを描いた向田作品を見返すようになっている。映画かもされたドラマ「阿修羅のごとく」は、父の不倫をきっかけに4人姉妹それぞれが抱えるドロドロとした人間関係が明らかになっていくこの話は、日常の裏に潜む人間のエゴや愛憎を赤裸々に描写している。是枝監督は、向田邦子が描いた綺麗事ではすまない関係こそが家族の本質だと考えているとし、信仰に基づかないリアルな家族描写があると話した。向田邦子と同じように家族をテーマに時代を切り取る作品を数多く手がけてきた是枝さんは、最新作「そして父になる」では、息子を取り違えられた夫婦を主人公に家族の葛藤を描いている。是枝さんは、東日本大震災後に広がった家族にまつわる価値観と向田作品とは相反するものだと感じていると話、先月16日のJ‐WAVEでも人と人とのつながりは血縁を越えてつながっていく方が豊かになると思っていると話していた。ステレオタイプの家族像がモテはやされる時代だからこそ是枝さんは向田作品に触れたくなるという。作家としての弁熟期に突然人々の前から姿を消した向田邦子。それから30年あまり向田邦子が紡ぎだした世界はより豊かな色彩で日本人の心を彩り続けている。
 最後に、今夜はノンフィクション作家で、向田邦子とは親友だった澤地久枝が語る。久枝は何か自分の中で思いあぐねることがあると、向田邦子に心の中で問うという。澤地久枝は向田作品の特徴は陰りだと話、作品の中には非常に美しい昭和のちゃんとした人たちが使っていた言葉が残っていて、家族関係が細やかで読んでいるとそうかと思う部分が今の若い人たちにも通じているのではないかと語った。
●向田 邦子(むこうだ くにこ、1929年(昭和4年)11月28日 - 1981年(昭和56年)8月22日)は、テレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家。第83回直木賞受賞。週刊誌のトップ屋時代は幸田 邦子名義で執筆していた。共同ペンネーム「葉村彰子」の一員でもある。


(今日の出来事)
・おとといに続き関東“急襲”また竜巻 今度は栃木で。矢板鹿沼塩谷町で被害 3人けが 
・”婚外子”相続格差は違憲 
伊勢神宮内宮新正殿を公開 
・西日本から岐阜・愛知で大雨。

(9月4日生まれの偉人)
◆二宮 尊徳(にのみや たかのり / にのみや そんとく、天明7年7月23日(1787年9月4日) - 安政3年10月20日(1856年11月17日))は、江戸時代後期の農政家・思想家。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓む。「報徳思想」を唱えて「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した。
二宮尊徳相模国足柄(神奈川県小田原市)の豊かな農家に生まれたが、父母を亡くし親戚に預けられるが24歳で一家を再興。その後、小田原藩家老服部家の家政を再建。藩主大久保忠真から命じられた分家宇津家の桜町領(栃木県二宮町)の財政再建では、開墾と水利事業を行い税収を倍増させる。その評判を聞いた600以上の大名旗本家の財政再建と農村の復興事業を推進した。尊徳の唱えた「勤倹・分度・推譲」の思想は戦前の日本の模範、倫理観となった。
 江戸幕府は日光神領89村の復興を命じ、尊徳は「復興開発方法論」を書く。今市市に報徳役所を設ける。その途上1856年に70歳で客死する。尊徳を祭った神社にある尊徳の墓の隣に、尊徳の遺言が記された石碑がある。
 「我が死応に近きあらん 我を葬るに分を超ゆること勿れ 墓を建つること勿れ 碑を建つること勿れ 只土を盛り上げその傍らに松か杉を一本植え置けばそれにて可なり 必ず我が言に違ふ勿れ」
内村鑑三「代表的日本人」http://d.hatena.ne.jp/asin/4569709524/hisatunenet-22
 今から百年前の1900年前後には、日本人による英文で書かれた名著が出現している。内村鑑三「代表的日本人」、新渡戸稲造http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130901/p1)「武士道」、岡倉天心http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130214)「茶の本」である。この書では代表的日本人として、西郷隆盛http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130123)、上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮を挙げている。彼らを西洋文化の基盤であるキリスト教になぞらえて紹介するという手法をとっているのが特色である。
二宮尊徳は、道徳の力によって経済を復興させるというやり方で多くのプロジェクトを成功させたとし、印旛沼手賀沼干拓をレセップスのスエズ運河の成功とパナマ運河の失敗と比している。

◆萩原 葉子(はぎわら ようこ、1920年9月4日 - 2005年7月1日)は、日本の小説家、エッセイスト。
詩人萩原朔太郎と最初の妻、稲子との長女として東京に生まれたが、8歳の時両親が離婚し、前橋の祖母(朔太郎の母)宅に預けられた。権勢を振るう祖母の圧迫で、2番目の妻と離婚させられた朔太郎が1942年、50代で死ぬという辛酸をなめ、このことがのち小説『蕁麻の家』に描かれることになる。戦時中に結婚して1子を儲けた。これが萩原朔美である。しかし戦後離婚した。
 葉子は、30代で作家になり、40代でダンス、60代ではオブジェというように活動的な女性だった。モットーは「出発に年齢はない」「人生は素面の仮面舞踏会である」という言葉も残している。「父・萩原朔太郎」を読みたい。
1959年、『父・萩原朔太郎』を上梓して日本エッセイストクラブ賞を受賞、作家活動に入り、1966年、三好達治の思い出を描いた『天上の花』で田村俊子賞、1976年に『蕁麻の家』で女流文学賞を受けるが、その内容を信じない批評家もあり、被害妄想と評する者もあった。1984年、第二部『閉ざされた庭』、1997年、第三部『輪廻の暦』を書き継いで『蕁麻の家』三部作が完成し、1999年、高橋元吉文化賞と毎日芸術賞を受賞した。80歳を過ぎてなおモダンダンスに熱中するなどその健在ぶりが伝えられたが、2005年に満84歳で没した。
朔太郎と別れた稲子の娘である葉子(1920-2005年)は、30代になって「父・萩原朔太郎」で第8回日本エッセイスト・クラブ賞をとり、「天上の花--三好達治抄」で新潮社文学賞田村俊子賞を受賞している。そして「いら草の家」では女流文学賞をとっている。
この葉子は、父のことを書いたエッセイを読んだ室生犀星から「千枚になるかも知れないが、毎々から事を前の日に決めて、それに一つあての場面と心の急所を抑えてかきなさい」「一生に一篇でも良いではないか。じりじりと書きなさい」と親身のアドバイスを受けて書いた。
◆丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日 - 2005年(平成17年)3月22日) は日本の建築家、都市計画家。一級建築士(登録番号第15182号)。 「世界のタンゲ」と言われ、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。また磯崎新http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130723)、黒川紀章http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130408)、槇文彦谷口吉生などの世界的建築家を育成した。
丹下健三の「縄文的なもの」の中で「伝統とは、過去と未来とを橋かけるという、もっとも創造的な、現代的な課題であるからである」と述べている。

<昨年の今日>もまた空白である。