「人を育てる」 そして「上杉 鷹山と山田方谷」

◆『育ての流儀スペシャル』(2013年9月9日放送 22:00 - 22:50 NHK総合プロフェッショナル 仕事の流儀」より)
ダルビッシュ有マー君を育てたスゴ腕投手コーチの育成術
 日本プロ野球の連勝記録を塗り替えた田中将大、メジャーで活躍するダルビッシュ有。その二人を育てたのが投手コーチの佐藤義則。選手達から絶大な信頼を集める佐藤は、投球フォーム指導を最も重要視している。投手にとって長年積み重ねてきたフォームを修正するのは容易ではない。しかし佐藤は投手の傍らに立ち、良いか悪いかをハッキリ伝えている。自分は肘や肩、膝の使い方をアドバイスすることには負けない自負を持っており、田中将大もかつて佐藤から指導を受けていた。当時の田中のフォームは上半身の力に頼り、肩に負担がかかっていた。佐藤は田中を鍛え抜き、一年間かけて無理のないフォームを身に付けさせることに成功。悪い所を直すんじゃなく、良いところを伸ばしながら悪い所を少しずつ修正するのがポイントだという。
北島康介を育てた名コーチ 世界が注目する指導法
 メダリストを次々育てる平井伯昌は、かつて中学生の北島康介を指導。平井は選手を必要以上に褒めないため、選手は平井からの言葉を信じられるという。5年前、北京オリンピックを目前に控えていた北島は、右肩と肘に違和感を得ていた。平井は直ぐに北島の泳ぎの変化を指摘。この変化が肩に負担をかけていたが、たった一つのワンポイントで泳ぎを正すことに成功した。力はあるが守りの姿勢が目立ってしまう中村礼子は、大会直前にライバルとの力の差を知らされる。平井はそんな中村のメンタルを支えるため、1時間かけてじっくりと話をした。重要なのは、ただ励ますのではなく、自分の意思で進ませること。メダルを取る決意を、誘導尋問で言わせるのだという。そして迎えた北京オリンピック決勝の舞台。大会に出場した中村は最後に追い上げを見せると、自己ベストを1秒以上縮めて銅メダルを獲得した。平井は3年後の大会に向けて、今も選手達を鍛え上げている。
③鬼の名工 西岡常一の教え 育ての流儀スペシャ
 かつて鬼と呼ばれた名工西岡常一」さんから指導を受けた菊池恭二が、彼はどんな人物だったかを語る。分からない箇所を質問すると、西岡は必ず「お前はどう思う」と反論。菊池は自分の考えがないことを恥じ、西岡の一挙手一投足を見ることで自分を高めていった。菊池は弟子入りしてから6年後に独立、池上本門寺などを棟梁として任された。菊池は棟梁として弟子と向き合う時、西岡と同じ流儀を貫いている。常に一つのことを弟子に問い続け、自分自身の答えを探させる。技術は教えれば伝わるが、良い意味のプレッシャーを与えることで人間は育つと語った。
④いじめ 学級崩壊に立ち向かう 心を支える教師の秘密
 学級崩壊したクラスを任された菊池省三は、前に出た生徒を全員で褒める、褒め言葉のシャワーを敢行。人は自信がないからつるみ、他からの評価が怖いから攻撃的になる。みんなに褒められて喜んでもらうことで、自分の成長に繋がるのだという。菊池は子供達に、考えていることを成長ノートに書かせた。生徒が書いた言葉は5分も経てば忘れてしまい、違うことをまた繰り返すかもしれない。しかし、少なくとも書いた瞬間はそういった思いでその子はいた筈。信じることが大前提であり、ノートを見ることで生徒が変わろうとする瞬間が垣間見えるという。番組の撮影時、菊池が成長を促そうとする生徒がいた。井上勢渚君は負けず嫌いな性格で、友達に対して威圧的になってしまう一面を自分でも気にしていた。彼の成長ノートには、クラスの皆と本当の友達になりたいと書かれていたが、友達と上手く接することが出来ない。学校の帰りの会、菊池はあえて皆の前で井上君のことを話し始めた。井上君が変わろうとしていることを伝え、みんなで支えることを提案。一人の自信は、学級という集団の中で成長できるという。その4日後、井上君は友達を助けるメモを書き、一生懸命応援。信じて背中を押し続ければ、きっと変わると語った。
⑤そして人生が変わった…少女と教師 2人の絆
 定時制高校には、複雑な経歴の若者もいる。そんな生徒の多くは岡田倫代教諭の元で立ち直ってきたという。生徒の中には学校への関心が低い子もいるが、それでも岡田は生徒に寄り添い続けてきた。学校の職員室に遊びに来る女子生徒・久保江里奈さんは、入学してから授業をサボることが多かった。岡田は彼女の他愛のない話に耳を傾けると、夜の街に遊びに行く彼女を止めようとしない。久保さんは3人兄妹の末っ子だったが、優しかった兄が交通事故で亡くなり、家族が離散。学校も休みがちになる久保さんは、タバコを吸い非行に走ったという。別の日も久保さんは、岡田の横で他愛のない話を始めた。久保さんが兄妹の話を自分から振ると、岡田はタイミングを逃さない。彼女に関わるべき会話を促すと、兄のためにもタバコを辞めるよう話した。それから4年の月日が経った。大学に進学した久保さんは、高校の定時制の先生を目指している。様々な理由を抱えて定時制に通う子供達の手助けをしてあげたいという。そのきっかけは岡田先生であり、岡田先生を信じながら、後は自分で努力をすれば岡田先生2号になれると語った。
 * スポーツの世界は何かと話題になるが、様々な分野に、人を育てるプロがいる。我々は本当に「人を育ててきた」だろうか。私は教師でもなければ、コーチでもない。でも自分の部下たちは本当にそだってきただろうか。人を育てることのむずかしさ。それは、人の性格や考え方をりかいしているのであろうか。それを踏まえた指導法であり、信念がなければなるまい。それを痛感させられた1時間である。

(9月9日生まれの偉人)
◆上杉 鷹山(うえすぎ ようざん) / 上杉 治憲(うえすぎ はるのり、1751年9月9日 - 1822年4月2日)は、江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は初め勝興、後に治憲であるが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名である。
 ・内村鑑三http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130323)「代表的日本人」より(http://d.hatena.ne.jp/asin/4569709524/hisatunenet-22
  内村の「代表的日本人」は、日清戦争のさなかに書かれたが、後のアメリカ大統領ケネディが尊敬する政治家として上杉鷹山をあげたのはこの書の影響である。「代表的日本人」と いう書物には、日本人の名前で訳がついている。
  この書では代表的日本人として、西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130904)、中江藤樹(http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130421/p1)、日蓮http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130406)を挙げている。彼らを西洋文化の基盤であるキリスト教になぞらえて紹介するという手法をとって いるのが特色である。上杉鷹山は、聖書にある約束された王国がすでに異教徒の日本において実現されていたとして、「死を恐れぬ勇者」として紹介している。
 ・もう一人の人物を紹介したい。山田方谷http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130321 http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121209/p1)である。『山田方谷行政改革
 1 方谷を生んだ地とその時代
 山田方谷は、約190年ほど前の江戸時代後期、文化2(1805)年2月21日、備中国松山藩阿賀郡西方村に生まれた。現在の岡山県高梁市中井町西方である。高梁市は、岡山駅から鳥取県米子駅に向かうJR伯備線に乗って各駅停車で1時間足らずのところにある。
 高梁市には、高梁川成羽川の合流地点の阿井の渡しに山中鹿之助の墓がある。山中鹿之助は。「われに七難八苦を与えよ」の名文句と忠臣ぶりで知られる戦国・安土桃山期の武将である。さらに市内を南北に貫き流れる高梁川は、かつては荷物運搬用の川船「高瀬舟」で知られ、現在は鮎で有名である。
 また、江戸所初期の遠州流の茶人で武将の小堀遠州が作庭したことで知られる庭園が、市内の「頼久寺」にある。桃山時代末期の禅院式枯山水の庭園として有名である。小堀遠州古田織部の門人であり、後に大名茶の完成者として崇められたが、かつては備中松山藩の大名であった。
 そしてもう一つ、高梁市にはもう一つ名所がある。国宝の「備中高梁城」である。天守閣のある城の中では、日本一高いところにある山城として、織田信長の時代からその名が全国に知れ渡っていた。四つの峰からなる臥牛山の最高峰の標高は478.3メートルで、天守閣は標高430メートルのところに築かれている。当時は、臥牛山の狭い山道を登りながら、毎日登城しているわけではなく、この城のふもとに「御根小屋」と呼ばれる藩主の館を中心とした集落があって、武士たちは、ふだんはこの「御根小屋」に登城し、戦時にのみ城に立てこもったそうである。山城には常駐しているのはごく少数の足軽たちで、警備と管理にあたっていた。
 方谷が生まれた文化年間、すなわち19世紀初頭は、日本のみならず、アジアの歴史は一つの転換期を迎えていた。イギリス、アメリカ、ロシアの外国船がアジアの外国船がアジア周辺に出没、時には通商を求めていた。通商といえば聞こえがいいが、当時は「帝国主義植民政策」の時代であった。ヨーロッパ列強は通商を口実にしてアジア諸国から富の収奪を目論んでいた。一方、日本でも蝦夷近海にロシア線が出没し、樺太、択捉、礼文島利尻島を襲撃しては、略奪行為を繰り返していた。当時の日本人たちの多くが、そんな外国人たちを夷と呼び、恐怖するとともにさげすみ、「攘夷(夷を払え)」を声高に主張したのは無理もない。方谷が生まれた頃、ヨーロッパでは、皇帝ナポレオンの軍が跋扈した。
2 方谷の生い立ちと歩み
方谷は、文化二年(1805)年、備中松山藩領の西方(にしがた)村に父五郎吉(菜種油の製造・販売を家業とする農商)、母梶の長男として生まれた。山田家は、清和源氏の流れを汲む武家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。父五郎吉は、いつも「我が家は農民だが、もとは武門の出である。学問によって身を立て、家運を興せ。」と、お家再興を方谷に言い聞かせていたが、母は必ず側で幼い方谷を励ましていた。
人は、人との巡り合いが、人生の転機を迎えさせてくれるきっかけを生むものである。5歳になると、新見藩の儒学者である少年時代から青年時代にかけての学問と人生の師である丸川松隠に学ぶ。松隠は、方谷の心に学問の道に進みたいという炎を燃え上がらす役割を方谷の人生で担った。20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命された。その後、 方谷は29歳のとき、京都遊学で陽明学と出会う。このとき、王陽明伝習録から朱子学陽明学のそれぞれの利点と欠点を理解し、正しい学び方を修得した。朱子学の利点は、初心者でも学問の順を追って学べば深く学ぶことができる。しかし、我が心の内を忘れて我が心が得心しているかは問わないという欠点があった。一方、陽明学の利点は、我が心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業においては成果を出すことができる。しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多いという欠点があった。よって、先人達の教訓や古典から真摯に学び、努力することが求められる。
 藩校の教授をしていた山田方谷は、29歳のとき、江戸に遊学して、佐藤一斎(安永元年10月20日(1772年11月14日)- 安政6年9月24日(1859年10月19日))は、美濃国岩村藩出身の著名な儒学者。)の塾に入る。魂が震える程の感動をもらしてくれた最大の師匠佐藤一斎との出会いがある。佐藤一斎は、のちに江戸の昌平坂学問所(いまの東京大学)の総長に任命される人で、当代随一の大教授である。弟子にはあの天才の佐久間象山や、絵画で有名な渡辺崋山、幕末に大活躍する横井小楠などがいた。その中で山田方谷は、毎日のように佐久間象山と激論を交わし、ことごとく象山を論破してした。一斎は、当時の江戸幕府最大の儒学者で、弟子は3000人と言われていた。方谷は、この一斎のもとで、学者としての実力と名声を確固たるものにした。さらに、32歳で帰国し、有終館という藩校の学頭となった。この後、45歳まで学者・教育者としての人生を送った。この後、方谷は弟子達から陽明学の教えを請われても安易に教えることはせず、朱子学を深く学ぶことを諭した。これは、己の心のままに行為に走ってしまいやすい陽明学の欠点を熟知していたことによる。
方谷の人生を決定付けた、松隠、一斎に、引続くのは、主君であり、学問の弟子である板倉勝静である。勝静が藩主に就任し、方谷に藩政改革を命じた。藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した。幕末の混乱期には苦渋の決断により、藩を滅亡から回避させることに成功した。方谷の「誠」の哲学が、まさに実学として開花した。この実績をもとに、藩主板倉勝静を老中として江戸幕府に送り出し、勝静の国政運営の知恵袋となった。しかし、明治維新後は多くの招聘の声をすべて断り、一民間教育者として亡くなった。
3 備中松山藩の藩政改革
藩主が交代し、新藩主の板倉勝清から、山田方谷は藩の元締役(もとじめやく)への就任を要請された。藩の元締めというのは、藩政の一切を仕切る者である。立場的には、実質藩主に相当する強権を持つ。その強権をもって、破綻寸前の備中松山藩を救ってくれ、と依頼された。元締めに就任した方谷は、そこで「理財論」を著した。そして「義を明らかにして利を計らず」という漢の董仲舒の言葉をひき、藩政の具体的改革方向を具体的に示した。
彼が最初に取り組んだのが、負債の整理である。彼は就任後すぐ、大阪の御用商人のもとに赴いた。そして、利子の全額免除と、元本についての50年間の借金返済の棚上げを要請した。これには、大名相手の貸金をしている両替商たちも、びっくりした。しかし、方谷は、ただ債務を免除しろというのではなく、具体的な藩の財政の再建計画を提示した。
今日、財政再建というと、政府・地方自治体や、多くの企業がそうなのだが、まず語られるのは、経費の削減である。人を切り、出費を抑え、人々のモラールも、ロイヤリティも委縮させ、それで一時的な経費削減によって、多少の利益が出たといって喜ぶ。ところがその翌年には、今度は景気が悪化し、売上が下がり、経費を抑えて利益が出るはずが、売上の低迷で、さらにもっと経費を抑えなければならなくなる。結果、縮小縮小へと向かい、企業なら潰れるし、国家や行政なら、財政が破たんする。すこし考えたら、誰にでもわかる。柄にかいたような動きです。ところが方谷は、莫大な藩の借金を返すのに、ただ経費削減とかを語るのではなかった。彼は、言うのです。
『政(まつりごと)で大切なことは、民を慈しみ、育てることです。それこそが大きな力である。厳しい節約や倹約だけでは、民は萎縮してしまう。』
 彼は、タバコや茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙といった備中の特産品に、どれも「備中」の名を冠して、江戸で大々的にこれを販売するといいます。その計画の内容も、実に緻密です。要するに「備中」をブランド化するわけです。いまでいったら「宮崎産品」みたいなものです。西国の藩は、藩の製品は、大阪で卸すのが常道だったのです。方谷は、これを船で江戸に持っていき、日本最大の消費地、江戸で、大々的にこれを行うという。しかも、売るのは、藩の江戸屋敷を中心とする。問屋や流通を経由しないから、中間マージンがありません。その分、安く、良いものを消費者に提供できる。商品はめずらしいものです。しかも、おいしい。その場で、食べることもできる。備中そーめんなんか、江戸で大ヒット商品になります。しかも直販です。藩はまる儲けです。さらに方谷は、これをさらに効率的に推進するため、藩内の体制組織を、従来の身分制にとらわれない、能力主義による会社的機構にするという。この時代、そもそも大名が、正直に実態の石高を商人に語ること自体が、まずなかった時代です。その時代に、正直に藩の財政の実態を明かしたのみならず、彼は藩の産業振興政策を大阪商人たちに、実に具体的に提示した。商いに厳しい目を持つ大阪商人たちは、方谷の財政再建計画書みて、完全に彼に賭けようという気になります。結果、大阪商人たちの、備中松山藩に対する、支払い50年棚上げ、利払いの免除が実現します。そして浮いたお金で、方谷は、上述の流通に手を染めるだけでなく、さらに備中にある砂鉄を使って、当時の日本人口の8割を占める農家を相手に、特殊なクワを開発し、販売したのです。これが「備中鍬」です。自らも農業を営む方谷ならではの発想です。この商品は、なんと全国で売れに売れます。備中鍬は、全国的な大ヒット商品となったのです。おかげで、50年棚上げしてもらったはず借金は、ほんの数年で、なんと元利金とも、全額返済できてしまいます。さらにわずか8年で、無借金状態の上に、さらに10万両の貯蓄までできてしまう。そして経済的には備中松山藩は、実質20万石の力を持つとまで言われるようになります。すごいものです。
これが実現できた背景には、方谷の、「義」があって、そのうえで「利」をはかるという考え方が根底にあります。
もうすこし具体的に言うと、日本をバカにし、命をかけて戦った先人たちを誹謗中傷するようなバカ者たちが、目先の「利」だけで政治をすれば、あっという間に「利」はなくなって、日本は超のつく貧乏国家になってしまう。あれほど世界に誇る高い技術力をもち、世界第二位の経済大国だった日本が、この20年、世界のGDPが2倍に成長する中で、完全に横ばいです。世界が二倍に成長して、日本が横ばいということは、日本経済の世界での地位は、この20年で、二分の一に縮小したということです。まずは人々が安心して働け、それこそ終身雇用が実現できるような社会体制を築き上げる。仕事も労働も、すべては「はたを楽にする」みんながよくなることが大原点です。会社利益のために、社員をリストラし、雇用を短期化したら、庶民の生活は不安定になり、個人消費は停滞し、企業はモノが売れなくなり、利益が上がらなくなり、金融機関は貸しはがしするから、会社はつぶれ、国民の生活はぐちゃぐちゃに崩れてしまう。要するに「利」が先で、「義」を忘れているからこういうことになる。方谷は、まったく逆に「義」優先したから、巨額の「利」が生まれたのです。簡単な話、「この国を守る」と、国が明確に決断しただけで、この国のあらゆる産業が活性化し、工業は息を吹き返し、企業秘密は厳守され、食糧自給もあがり、景気も良くなり、生産物の品質もあがり、教育レベルも向上する。まずは「義」をたてることが、先なのです。
・もうすこし具体的に言うと、日本をバカにし、命をかけて戦った先人たちを誹謗中傷するようなバカ者たちが、目先の「利」だけで政治をすれば、あっという間に「利」はなくなって、日本は超のつく貧乏国家になってしまう。あれほど世界に誇る高い技術力をもち、世界第二位の経済大国だった日本が、この20年、世界のGDPが2倍に成長する中で、完全に横ばいです。世界が二倍に成長して、日本が横ばいということは、日本経済の世界での地位は、この20年で、二分の一に縮小したということである。まずは人々が安心して働け、それこそ終身雇用が実現できるような社会体制を築き上げる。仕事も労働も、すべては「はたを楽にする」みんながよくなることが大原点である。会社利益のために、社員をリストラし、雇用を短期化したら、庶民の生活は不安定になり、個人消費は停滞し、企業はモノが売れなくなり、利益が上がらなくなり、金融機関は貸しはがしするから、会社はつぶれ、国民の生活はぐちゃぐちゃに崩れてしまう。要するに「利」が先で、「義」を忘れているからこういうことになる。これが今の日本の姿。
・方谷は、まったく逆に「義」優先したから、巨額の「利」が生まれた。簡単な話、「この国を守る」と、国が明確に決断しただけで、この国のあらゆる産業が活性化し、工業は息を吹き返し、企業秘密は厳守され、食糧自給もあがり、景気も良くなり、生産物の品質もあがり、教育レベルも向上する。まずは「義」をたてることが、先なのである。時代は、音をたてて変化していく。幕末、世の中が混沌としてくると、方谷は、藩内に、農民で組織する「里正隊」をつくる。「里正隊」の装備は、英国式で、銃も最新式である。方谷は、西洋の力を認め、藩政改革に積極的に組み入れた。教練も、西洋式である。農民兵を用いて、西洋式装備と教練を施し、新たな軍事力とする。後年、この方谷の「里正隊」を、高杉晋作が「奇兵隊」つくりのモデルにした。

◆石橋 信夫(いしばし のぶお、1921年9月9日 - 2003年2月21日)は、日本の実業家。大和ハウス工業創業者で元社長・会長。奈良県吉野郡川上村出身。大和ハウス工業元社長で、子会社・大和情報サービス代表取締役会長・ビルド・ア・ベア ワークショップ代表取締役社長を務める石橋伸康は子息。
◆小中 陽太郎(こなか ようたろう、1934年9月9日 - )は日本の作家、評論家、翻訳家。講演会(http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120314/p1

<昨年の今日>ニュース
・東北3県要介護認定、11万人超 震災後1万2千人増
 東日本大震災で大きな被害に遭った岩手、宮城、福島3県の沿岸部など42自治体で、要介護認定を受けた人が震災前の2010年3月末と比べ約1万2千人(12%)増え、今年6月末時点で11万39人となったことが8日、共同通信社による各自治体への調査で明らかになった。東京電力福島第1原発事故の影響が深刻な福島県では2万9808人(10年3月比で17%増)。最も増えたのが、全町避難が続く大熊町で50%増、次いで楢葉町の40%増だった。 認定増加は避難生活の長期化による高齢者の体調悪化が要因とみられ「震災で高齢化が加速した印象がある」(宮城県七ケ浜町)。仮設住宅での不自由な暮らしで心と体の機能が低下する「生活不活発病」の発症も目立つ。