一向に進まない東日本大震災・福島原発から2年6ヶ月を迎える。

(今日の出来事)
東日本大震災原発事故からきょうで2年半になる。関東でも住民の避難生活が続いている。福島から避難している人たちと支援団体はきょう会見し、長期化する避難生活を支えるため、借り上げ住宅の期限を来年3月から更に1年延長することなどを訴えた。
 一方、福島県から神奈川県などに避難している人たちは、きょう、東京電力と国に慰謝料などを求める訴えを起こした。原発事故の影響は漁業でも続いており、茨城県北部の沖合では5月にしらす漁が再開されたが、取引価格は震災前の水準に戻っていないという。こうした中、復興を支援しようという動きも。日本橋高島屋ではきょうから東北地方の物産展が始まった。被災地を支援しようと、埼玉県熊谷市の空き店舗では、テレビ電話を使った魚の購入が行なわれた。


2020年東京オリンピック実施で日本中が騒ぐが、今日で一向に進まない東日本大震災福島原発から2年6ヶ月を迎える。
 週刊東洋経済の最新号にインサイドライン編集長の歳川隆雄氏のコラムがある。〈「きょうは読売がいないので正直に言いますが、消費増税の先送りは100%ありません。いいですか、これは本当に完オフですよ」――安倍晋三首相は7月21日の参議院選挙直後の某日夜、少数のメディア関係者との夕食の際に「完全オフレコ」を繰り返したうえで、そう語ったという〉 いやはや、これが事実だとすれば、その後に開いた「集中点検会合」は何だったのか。有識者60人を集めて、消費増税の是非を問うたアレである。「もちろん、会合の日時、メンバーもわかっています。ただ、点検会合が茶番だったかというと、通過儀礼のような位置づけだと思う。消費増税を先送りする選択肢はないと思うが、税率を変えたり、実施時期を先送りする選択肢はまだ、排除すべきではないでしょう」微妙な言い方だったが、その一方で、9日、4―6月期のGDP2次速報が年率3.8%に上方修正され、甘利経済再生相は「消費増税判断にいい材料が加わった」と言った。安倍が10月1日に決断を下すことも明らかになり、野田自民税調会長は「増税変更の理由はない」とまで言い切った。やはり、2020年東京オリンピック実施で消費税はあがることが確定的である。オリンピック実施で日本中が沸いているが、消費税が値上げされた時、国際公約となった福島原発はどうなるのか。そして、東日本大震災はどうなるのか。
 世界が懸念している福島第1原発の汚染水問題。安倍首相は「国が前面に出て抜本的な措置を講じる。五輪招致に問題がないことを説明する」と言っているが、まったく説得力がない。なぜなら、安倍政権がやろうとしている抜本対策の目玉、「凍土方式」は、原発事故直後に却下された不適切工法なのである。新聞によれば、民主党政権は当時、汚染水対策を馬淵澄夫首相補佐官に委ねた。馬淵は横浜国大工学部卒、建設会社技術職研究員の経歴を持つ。土木に詳しく、当時から地下水が汚染されることを問題視、吉田所長と対策を練ったという。馬淵に改めて、当時の経緯や凍土方式の問題を聞いてみた。「凍土方式は完成まで2年間もかかるだけでなく、工法自体にも問題があります。首相補佐官時代の2011年5月、私は遮蔽プロジェクトチームの責任者として、4種類の工法を検討しました。その結果、『凍土方式』ではなく、チェルノブイリで実績がある『鉛直バリア方式』を選定しました。凍結管を入れて土を凍らせる『凍土方式』はそもそも永久構造物ではなく、地下水流出を抑えて工事をしやすくするために一時的に設置するものです。これによって、地下鉄工事でトンネルを掘削しやすくなるなどの効果はあります。しかし、大きな汚染区域を取り囲んで地下水を遮蔽できるかというと、そんな実績はなかった。しかも、真水を凍らせるわけではないのです。地中の水分量の分布はバラバラだし、不純物の混ざり具合など、ありとあらゆる自然界の条件の中で、大規模の凍土壁を造って、地下水を完璧に遮断できるのか。非常に怪しいと思います」だから、「鉛直バリア(ベントナイトスラリーウオール)方式」が採用されたのだ。「これは地下30メートルの難浸透層まで掘り下げて地下遮水壁を造り、原子炉建屋の四方を囲んで完全に遮断しようという案です。壁の材質は、クラック(ヒビ)などが入るコンクリートではなく、ベントナイトと呼ばれる鉱物が入った粘土を使うことになった。これで原子炉建屋の放射性物質を封じ込め、地下水流入も防げる。私は2011年6月11日、国会議員として初めて原発のサイトに入って、吉田所長とともにこの地下遮水壁の境界を確定する仕事をやりました。吉田所長は当初、『他の工事と干渉する』という理由で地下遮水壁建設に反対した。当時は、粉塵を封じ込める飛散防止剤散布や建屋を覆う工事などが並行して進んでいたからです。それでも吉田所長を説得して、地下遮水壁を進めようということになった。ところが、6月に記者発表をする段階で、東電からストップがかかった。『(地下遮水壁工事で)新たに1000億円の費用が発生すると、株主総会に影響を与えるから待ってくれ』というのです」結局、地下遮水壁のプランは、馬淵がその後、首相補佐官を外されたこともあって、立ち消えになっていく。「これからベントナイトスラリー方式をやっても完成まで時間がかかる。緊急対策として鋼鉄製の矢板を打ち込んで、山側の地下水の流入を止めるべきです。今後はそれを提案しています」東日本大震災福島原発ともに、地方自治体まかせ、東電まかせの結果である。確かに地元の以降は尊重するにしても、国が復興増税を昨年からスタートしているのであれば、責任を持って処理して行くことである。まして、福島は汚染水を封じ込めることができると、IOC総会で安倍首相が約束しており、急いで対応を取り組んで行くべきである。
また、国土交通省の2014年度概算要求のうち公共事業関係費は前年度比17%増の5兆1986億円となった。「真に必要な」公共事業予算の確保を図り、東日本大震災からの復興を加速させるとしている。政権交代の直後に組んだ12年度補正予算、続く13年度当初予算編成の中で公共事業費の削減傾向に歯止めが掛かり、14年度もこの傾向が続くと見られている。しかし、建設業界はこうした状況を享受しているのではなく、むしろ戸惑っているようにもみえる。その大きな要因が「技術者・技能者不足」だ。 長期にわたる公共事業費の抑制、景気低迷によって建設業は疲弊した。人材の育成もままならず、技術者の引退や転職を防ぐことができなかった。そこに降って湧いたように生まれてきた東日本大震災の復興・復旧需要。当然、この間に業界が失った技術者・技能者を急に手当てすることなど、できるはずもなかった。甚大な被害を被った岩手、宮城、福島の3県が12年度に発注した建設工事のうち、2割弱の案件は入札が不調だった。震災発生直後の11年度よりも増して、さらに復興・復旧工事の執行が難しい状況になっている。3県の中で最大の都市である仙台市でも「入札不調等発生率」が34%に上るという。入札不調の約74%が3000万円未満の小額工事に集中しているが、建設業者の技術者・技能者不足と決して無関係ではない。被災地の復旧・復興は緒に就いたばかり。本格的な復旧はこれからだ。これまで以上に技術者・技能者不足が進み、この傾向が被災地以外に波及することは必至だ。20年夏季五輪の東京開催を目指す東京都では、水道施設工事などで参加希望がないために入札中止となるケースが増えており、決定後の対応が早くも憂慮される。技術者不足は民間企業だけではなく、官庁でも深刻だ。全国建設業協会が、地方協会のある自治体における技術者の数を調査したところ、1993〜96年度に13万人超いた技術者が、10年度には約10万人に減っているという。インフラの点検にしても技術者のいない自治体は、点検しようにもどこを見て、どう判断していいのか分からない。現場に足を運んだとしても肝心な箇所のチェックができずにリスクを見落としてしまうことになりかねない。実際に「安全」と判断されたはずの橋梁で異常が発見されるケースも相次いでいる。特に小規模な自治体はインフラの安全を守る人も、おカネも、そして技術も間違いなく不足している。これを解決しない限り、復興はあり得ない。
(参考:阪神淡路大震災から18年http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130117/p1

 (9月11日生まれの偉人)
益田 喜頓(ますだ きいとん、本名木村 一、1909年9月11日 - 1993年12月1日)は、日本の俳優。昭和期を代表するコメディアンである。芸名の「ますだきいとん」は三大喜劇王の一人、「バスター・キートン」のもじり。
1923年(大正12年)、北海道庁立函館商業学校(旧制、現在の北海道函館商業高等学校)に入学する。トルストイを愛読し、小説家を志す一方、野球部に入り頭角を現し、三塁手として活躍し、北海中学校(旧制、現在の北海高等学校)に引き抜かれる。卒業後、「函館太洋倶楽部」に入り、野球を続けるが、鈍足のため野球の道をあきらめる(当時の久慈次郎主将から当時設立したばかりのプロ野球に誘われている)。1930年(昭和5年)、小樽の五十嵐財閥経営の貿易会社に入社し、同系列資本の札幌の「赤い風車レビュー団」を手伝っていたが、翌年解散したので、上京し、吉本興業(東京吉本)に入社し、「花月劇場」でショーに出演する。1936年(昭和11年)、川田義雄芝利英坊屋三郎と「あきれたぼういず」を結成し、クラシック、ジャズから流行歌まで様々な替え歌やナンセンスギャグ、パロディなどで一世を風靡する。なお、芝利英坊屋三郎の弟)とは中学の同級生。「あきれたぼういず」での益田の得意技はヨーデルであった。戦後、1946年(昭和21年)に、坊屋三郎山茶花究と「あきれたぼういず」を再結成するが、1951年に解散。その後、映画を中心に活躍する。1957年(昭和32年)に、東宝演劇部に入り、ミュージカルにも積極的に出演し、特に『マイ・フェア・レディ』(1963年)のピカリング大佐役が知られる。また、『屋根の上のヴァイオリン弾き』は、1967年の初演以来907公演に司祭役で出演し、代表作となった。1990年(平成2年)には半世紀以上住んでいた台東区西浅草を離れ、函館へ「永住帰郷」した。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120911

<となりの日記>
・2013-09-11 Chikirinの日記 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130911