二度あることは三度ある。またも政権転覆か?、Google生誕15周年

◆消費税率を来年度から8%に引き上げることが既に決まったように感じる。正式には10月に発表されるようだが。
 最近の新聞報道がものがかっている。誰かがこれらの記事を「書かせた」ということだ。読売・朝日がいかに偉くとも、根拠の全くない記事は書けない。財務省の官僚ないしは、関係者が、大新聞に情報を流して、記事を書かせていると考えれれる。もともと民主党の選挙公約に反する消費税率の引き上げを、与野党の3党合意という無理なスキームをアレンジしてまで決めた消費税率の引き上げだから、財務省としては、安倍首相を羽交い締めにしてでも、消費税率の引き上げを「今」決めたいのであろう。しかし、報道によると、消費税率の引き上げを決める一方で、公共事業などの補正予算(数兆円規模)、震災復興目的の法人税の上乗せの早期打ち切り、賃上げ企業の法人税軽減、住宅ローン減税−など、消費税率引き上げによって生じる景気回復やマイルドな物価上昇へのマイナス要因を相殺するための財政政策が並んでいる。また、金融緩和→円安・株高・土地高→景気拡大→失業減→賃金上昇→物価上昇の定着、という「アベノミクス」の波及経路を考えると、賃金上昇の遅れというよりも、勤労者の実質的な購買力低下をサポートして、消費を下支えすることが重要だ。消費税率引き上げのマイナス効果を最も的確に相殺する最善の政策は、皮肉なことに消費税率の引き下げなのだ。つまり、今、消費税率の引き上げは決めない方がいいということであろう。官僚に従って消費税率を上げる方が政権は長持ちするのかもしれない。しかし、消費税値上げで二度政権が転覆した事実がある。二度あることは三度ある。規制緩和小泉政権であっても、消費税には触れなった。復興法人税の前倒し廃止を考えるまえに、消費税増税を見送ることが先のようではないだろうか。
 今日のニュースから
 「消費者物価 3ヵ月連続↑ パソコンなど92年以来のプラス。総務省が発表した8月の全国消費者物価指数は1年前と比べて0.8%上昇し、3ヶ月連続でプラスとなった。電気代やガス代などエネルギー価格の値上がりが大きく寄与した。」でも、消費税が上がったらどうなるにでしゅうか。

◆今日のGoogleロゴはGoogle生誕15周年 Googleは、2013年9月27日のロゴをGoogle生誕15周年を記念したデザインに変更した。ケーキの中央にある再生ボタンを押すとゲーム開始。スペースキーやマウスクリックで中央の星飾りをタイミングよく叩くと、キャンディが落ちてくる。叩けるチャンスは10回で、残り回数は右上にある棒の数で確認可能だ。どれだけ多くのキャンディを集められるか挑戦してみよう。

(9月27日生まれの偉人)
◆高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日1839年9月27日)- 慶應3年4月14日(1867年5月17日))は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。
漢学塾を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。内藤作兵衛に柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝される。安政4年(1857年)には吉田松陰http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130920/p1)が主宰していた松下村塾に入り、安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。安政6年(1859年)には師の松陰が安政の大獄で捕らえられるとその獄を見舞うが、松陰は10月に処刑される。万延元年(1860年)11月に帰郷、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門(大組・250石)の次女・まさと結婚する。文久元年(1861年)3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡る。神道無念流練兵館道場で剣術稽古。8月には東北遊学を行い、佐久間象山http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130322横井小楠http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130922)とも交友する。文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。
文久2年(1862年)、高杉は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎)が相談した。しかし久坂が土佐藩武市半平太に話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。この過程で、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、専ら桂や久坂が担当することとなる。文久2年12月12日には、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では高杉を江戸から召還する。
 文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する(下関戦争)。高杉は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺赤間神宮の隣)を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。京都では薩摩藩会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変長州藩が追放され、文久4年(1864年)1月、高杉は脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害する。8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。時に高杉晋作、24歳であった。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した。これは清国の見聞を経た高杉が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。ただし、このエピソードは当時の記録にはなく、ずっと後年の伊藤の回想に依拠しているため、真実か否かは不明である。
 幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩では俗論派が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、再び下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔(博文・伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と有職読みすることもある)。のち吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処したことが特記できる。元老。)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。後に奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより、攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。慶応元年(1865年)1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年)3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる(明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名し現在に至る)。高杉本家は義兄の春棋が継いだ。晋作は再度の長州征討に備えて、防衛態勢の強化を進める。慶応2年(1866年)1月21日(一説には1月22日)、土佐藩坂本龍馬http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130103/p3)・中岡慎太郎・土方久元を仲介として、晋作も桂小五郎井上聞多伊藤俊輔たちと共に進めていた薩長盟約が京都薩摩藩邸で結ばれる。
 6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として「丙寅丸」に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還。小倉方面の戦闘指揮では、まず軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させた。その援護のもと奇兵隊・報国隊を上陸させ、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させた。その後さらに攻勢に出るも小倉城手前で肥後藩細川家の猛反撃に合い、一時小康状態となる。細川家は元の小倉城主であった。しかし、幕府軍総督・小笠原長行の臆病な日和見ぶりに激怒した肥後藩細川家をはじめとする幕府軍諸藩が随時撤兵し、7月には将軍・徳川家茂の死去の報を受けた小笠原がこれ幸いと小倉城に放火し戦線を離脱したため幕府敗北は決定的となり、この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)11月の大政奉還への大きな転換点となった。
 墓所山口県下関市。なお、木戸孝允大村益次郎らによって、現在の靖国神社に、東京招魂社時代の始めから吉田松陰久坂玄瑞坂本龍馬中岡慎太郎たちと共に表彰・鎮魂され、祀られている。