9月も明日で終わる。いよいよラスト6カ月を迎える。

◆明日で9月も終わる。あと6カ月である。有終の美を飾るよう頑張って行きたいという気持ちはある。でも、それ以上にこれからの自分の人生をどうするのかが課題である。少なくてもこれからの10年、20年の自分の人生計画を策定しなければなるまい。ます、当面の仕事に全力投球しながら、これからのステップなのかジャンプなのか分からないが、考えていこう。
 これからの自分の充実に向けて努力して行きたい。よく社会貢献ということばをきくが、それも自分自身の充実にほかならない。

◆『超豪華寝台列車ななつ星」』(2013年9月29日放送 22:14 - 23:08 テレビ東京ソロモン流」より)
 9月13日、北九州市・小倉の車両センターで寝台列車の発表が行われた。今回は、超豪華寝台列車の怒涛の100日間に密着した。7月、川崎重工業 兵庫工場では鉄道ファンが列車の見学に詰めかけた。去年5発、JR九州ホールではJR九州は豪華列車の計画を発表。特急「指宿のたまて箱」や「あそぼーい!」は車内デザインや演出にこだわっている。「ななつ星」は10月より運行する。福岡県のJR九州本社のクルーズトレイン本部・仲義雄次長を取材。「ななつ星」の予約は9ヵ月先まで埋まっており、応募が殺到している。仲は、博多駅にある「ななつ星」の乗客専用待合室であるラウンジ「金星」を紹介した。
 ななつ星の乗務クルーを紹介。元客室乗務員のリーダーの小川さん、元フランス料理店のソムリエの鶴田さん、元ホテルマンの黒木さんら多才なメンバーが揃う。クルーは1年前から湯布院や長崎県ホテルオークラなどで一流のサービスを学んできた。7月2日、博多駅から大分駅まで、「ななつ星」の事前確認列車乗車訓練が行われた。天拝山や慈恩の滝などの車内アナウンス練習や飲食サービス訓練も行われた。
 「ななつ星」の事前確認列車の乗車訓練を取材。飲食サービス訓練では、クルー達は列車の揺れに苦労した。仲さんはその様子を見て、叱責した。山口県防府市に生まれた仲は、幼い頃鉄道が嫌いだったが、駅ビル開発に憧れ、九州大学卒業後にJR九州に入社。その後、観光列車の立ち上げに携わり、特急「指宿のたまて箱」や「あそぼーい!」などで列車の魅力に気づく。2012年にクルーズトレイン本部の次長に抜擢された。仲は食事選びも全て行なっており、3泊コースの最後を飾る熊本・阿蘇では黒川温泉旅館「山みず木」をプランに入れた。最終試食会ではJR九州の唐池社長も満足だと話した。この日、仲は鹿児島の仙巌園に向かった。薩摩切子ギャラリーショップ「磯工芸館」や沈壽官窯での絵付け体験もプランに入れた。「天空の森」では客室「ヴィラ 天空」も紹介した。ななつ星をあらゆる面で最高にしたいと話す仲は、東京の吉田カバン本社のショールームを訪れてクルー用のオリジナルバッグを依頼。さらに、ななつ星のクルーである黒木貴裕さんが実践練習しているというホテル日航福岡「レ・セレブリテ」を訪問。
 ななつ星の車体を見学。傷がつかないように黒いシールでラッピングしてあり、安全確認の動作を教わってななつ星の車体を間近で見学した。車体の特徴として、客車の方には揺れを防止する装置を設置してあり、窓の形も正方形と長方形の2種類あって、椅子に座って車窓を眺めたりベッドに横になりながら車窓を眺めるのに適しているという。2013年9月13日、運行開始まであと32日となり、JR九州の唐池恒二らがななつ星in九州をお披露目した。車内は和のテイストなデザインで、ゆったりとしたひと時を提供するために、生演奏なども行われる。またスイートルームにはシャワーとトイレが完備しているなど、おもてなしを提供する最高の舞台が完成していた。9月14日、運行開始まで31日。実際のななつ星の車両を使った訓練が開始された。JRの職員がお客さん役となる中、やま中の寿司が握られ、黒木貴裕さんはお客さん役の職員にお寿司を運んだ。10月15日の「ななつ星」運行開始まであと16日。密着した仲義雄さんは、『99%で終わらない。100%の仕事をする』と語った。

(9月29日生まれの偉人)
◆鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年(明治15年)9月29日 - 1936年(昭和11年)6月27日)は、広島県広島市出身の小説家・児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。
 1901年(明治34年)、第三高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文学科に入学。夏目漱石http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130209)の講義を受ける。1905年(明治38年)23歳の時、神経衰弱を煩い、静養のため大学を休学し、広島県佐伯郡能美島(現・広島県江田島市)で過ごす。この間に『千鳥』の題材を得る。1906年明治39年)3月に『千鳥』を完成させ、夏目漱石に原稿を送ったところ、推薦を得て高浜虚子http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130222)に原稿が送られ、雑誌「ホトトギス」5月号に掲載された。以降、漱石門下の一員として中心的な活動をおこなう。1906年明治39年)4月から7月頃まで、広島市内の私立中学の講師となる。同年、親友の加計正文を訪ねて加計町(現・広島県安芸太田町)で夏を過ごし、この間に『山彦』の題材を得る。同年9月、上京して大学に復学し、漱石門下となり、漱石宅での「木曜会」に参加する。これを機に、高浜虚子森田草平寺田寅彦小宮豊隆らと親しくなる。1907年(明治40年)1月に、『山彦』が「ホトトギス」1月号に掲載される。同年4月には、『千代紙』を俳書堂より出版。
 1911年(明治44年)三重吉29歳の時、成田中学校を退職し上京、海城中学校の講師となる。1912年(明治45年)活発な創作活動により、雑誌への作品掲載や、『返らぬ日』『お三津さん』などを出版。1913年(大正2年)4月、中央大学の講師となる。同年7月より、「国民新聞」に『桑の実』を連載。1915年(大正4年)3月より、『三重吉全作集』の刊行を始める(全13巻まで刊行)。同年4月、「中央公論」へ『八の馬鹿』を発表。これまで、数々の作品を執筆して小説家としての評価を上げたが、自身の小説家としての行き詰まりを自覚し、これ以降、小説の筆を折る。
 1917年(大正6年)4月より、『世界童話集』の刊行を開始。清水良雄が装丁・挿絵を担当し、児童文芸誌『赤い鳥』へ続く親交が始まる。 1918年(大正7年)1月、長男珊吉が生まれる。同年6月、『赤い鳥』(7月号)を創刊。同年9月、海城中学を辞職、中央大学を休職し、本格的に児童文学誌『赤い鳥』に力を入れ始める。『赤い鳥』では、文壇の著名作家に執筆を依頼。芥川龍之介http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130301/p1)「蜘蛛の糸」や有島武郎一房の葡萄」などの童話、北原白秋http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130127)らの童謡、小山内薫久保田万太郎らの児童劇など、大正期児童文学関係の名作が本誌から誕生し、教訓色に塗り潰されていた従来の児童読み物が、芸術的にも高められていく気運を作り出した。1931年(昭和6年)1月に、『赤い鳥』は復刊した。
 三重吉が肺がんで亡くなるまで、『赤い鳥』は18年間(計196冊)刊行を続け、最盛期には発行部数3万部を超えたと言われる。しかも学校や地方の村の青年会などで買われたものが回し読みされたという。この間、坪田譲治新美南吉http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130730)ら童話作家、巽聖歌ら童謡作家、成田為三、草川信ら童謡作曲家、清水良雄らの童画家も世に出した。また紙面に児童の投稿欄も設けられ三重吉や白秋、山本鼎が選評にあたり児童尊重の教育運動が高まっていた教育界に大きな反響を起こした。三重吉の13回忌にあたる1948年(昭和23年)から、「鈴木三重吉賞」が創設され、現在も全国の子供の優秀な作文や詩に賞が贈られている。古事記を子供にもわかりやすいよう物語風に現代語化して『赤い鳥』に連載した「古事記物語」の作者としても知られる。