雨模様の週末。

◆最近は台風の影響や気圧配置の影響で雨模様が多い。週末の今日は一日雨模様である。今日は天気もあり、無理せず、畑作業を行わず、部屋の掃除と洗濯で介護する。夕食時は忙しく、疲れるものである。

(10月5日生まれの偉人)
◆榎本 武揚(えのもと たけあき、天保7年8月25日(1836年10月5日) - 明治41年(1908年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、外交官、政治家。海軍中将。ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ。万次郎の私塾では後に箱館戦争を共に戦い抜く大鳥圭介と出会っている。 19歳の時、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加する。 安政3年(1856年)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学んだ。文久2年(1862年)9月、内田恒次郎・赤松則良・沢太郎左衛門・西周助らと共に長崎を出航してオランダ留学へ向かう。文久3年(1863年)4月、オランダ・ロッテルダムに到着。 当地では長崎海軍伝習所で教官を務めていたカッテンディーケ海軍大佐とメーデルフォールト軍医の世話になった。 元治元年(1864年)2月、赤松則良とともにシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦武官として経験する。 戦争を見聞した後、エッセンのクルップ本社を訪れ、アルフレート・クルップと面会する。 当時建造中の軍艦「開陽」に搭載する大砲を注文し、最終的に開陽には18門のクルップ施条砲が搭載された。 オランダでは国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学んだ。慶応3年(1867年)3月、幕府が発注した軍艦「開陽」と共に帰国する。
 慶応3年(1867年)10月14日、徳川慶喜大政奉還を行うと、榎本の率いる幕府艦隊は兵庫沖に結集し、同じく兵庫沖に停泊していた薩摩藩ら他藩海軍に圧力をかけていた。 翌慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まった。幕府艦隊は大阪湾に停泊、1月4日には阿波沖海戦薩摩藩海軍に勝利した。 鳥羽・伏見の戦い旧幕府軍が敗北すると、榎本は1月6日午後、幕府陸軍と連絡を取るため大坂城へ入城した。そのご、 江戸へ撤退後、榎本は小栗忠順と共には主戦論を主張したが、すでに恭順の意思を固めつつあった慶喜の容れるところとならなかった。同年4月11日、新政府軍は江戸城無血開城すると、幕府海軍艦隊を引渡すことを要求するが、榎本は拒否し、悪天候を理由に7隻を連れて品川沖から安房国館山に退去する。 勝海舟の説得により4隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)だけを新政府軍に引渡したが、開陽等主力艦の温存に成功した。 5月、徳川家は駿河遠江70万石に減封になり、艦隊は徳川家臣団の駿府移封の作業に従事する。 徳川家が約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた榎本は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策し、朝廷に対して「蝦夷地殖民認可の嘆願書」を提出した。
 10月19日、蝦夷箱館北方の鷲ノ木に上陸。10月26日に箱館五稜郭を占領し、11月1日、榎本は五稜郭に入城した。 12月、蝦夷全島平定が宣言され、「蝦夷共和国」を樹立する。12月15日、入札(選挙)の実施により総裁となった。「開陽」を失い、新政府軍が甲鉄を手中に収めるにいたり、最大最強を誇った旧幕府海軍の劣勢は決定的となり、事実上制海権を失った。同年5月17日、戦費の枯渇、相次ぐ自軍兵士の逃亡、新政府軍工作員による弁天台場の火砲破壊、箱館湾海戦による全艦喪失と、蝦夷方の劣勢は決定的となり、榎本は降伏した。 明治5年(1872年)1月6日、榎本は特赦出獄、その才能を買われて新政府に登用された。同年3月8日、黒田清隆が次官を務める開拓使に四等出仕として仕官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。明治7年(1874年)1月、駐露特命全権公使となり、同年6月、サンクトペテルブルクに着任。 翌明治8年(1875年)8月、樺太・千島交換条約を締結した。マリア・ルス号事件でペルー政府が国際法廷に対し日本を提訴した件で、ロシア皇帝アレクサンドル2世が調停に乗り出したことから、同年6月、サンクトペテルブルクでの裁判に臨んで勝訴を得た。 駐露公使就任にあたって、榎本は海軍中将に任官されたが、これは当時の外交慣例で武官公使の方が交渉上有利と判断されたためで、伊藤博文らの建言で実現したものである。旧幕時代の経歴と直接の関係はない。 駐露大使時代はサンクトペテルブルク地学協会に加盟していた。 明治11年1878年)、シベリア経由で帰国。榎本はシベリアに対し無限の興味を持って非常に精細な科学的な視察を行い、「西伯利亜日記」を記す。帰国後は外務省二等出仕、外務大輔、議定官、海軍卿、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務副総裁、駐清特命全権公使、条約改正取調御用掛等を歴任した。 明治18年(1885年)の内閣制度の成立後は能力を買われ6つの内閣で逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任した(文相・外相の前後に枢密顧問官就任)。特に日清戦争只中の戦時内内閣時の農相在任は3年余に及び、歴代農相の中で最長を記録していることからも薩長藩閥にあってその緩衝として重用された榎本の才が窺い知れる。農商務大臣時代には、懸案の足尾鉱毒事件について初めて予防工事命令を出し、私的ながら大臣自ら初めて現地視察を行った。また、企業と地元民の間の私的な事件とみなしてきたそれまでの政府の見解を覆し、国が対応すべき公害であるとの立場を明確にして帰郷後、大隈重信らにその重要性を説諭、鉱毒調査委員会を設置し、後の抜本的な対策に向けて先鞭をつけ、自身は「知らずにいたことに責任をとって」引責辞任した。また大日本帝国憲法発布式では儀典掛長を務めた。
◆平木 信二(ひらき しんじ、1910年10月5日 - 1971年12月30日)は、日本の経営者で、元リッカーミシン社長。京都府出身。京都帝大卒。リッカーミシン創業者。昭和14年に理化学工業創立。昭和24年にリッカーミシンと改称。一代でリッカーミシンを上場企業に育てた。また、実業団スポーツにも力を入れ、陸上部(監督に吉岡隆徳を迎えた)、野球部などを設立し、有力チームに成長させた浮世絵のコレクターとしても知られる。戦前、浮世絵の三大コレクションとして「松方コレクション(現在東京国立博物館所蔵)」、「斎藤コレクション」、「三原コレクション」が著名であり、斎藤・三原コレクションは海外流出の危機に瀕したが、平木の所有を経て「平木浮世絵財団」により公開されている。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121005