今日は体育の日です。そして正岡子規の誕生日。

◆今日は、1964年の東京オリンピックの開会式から、10月10日を体育の日として、祝日化されたが、連休を促進するために、10日前後の月曜日を体育の日としている。また、今日は正岡子規の誕生日である。
 5年前になるが、正岡子規記念館(http://sikihaku.lesp.co.jp/)、そして「坂の上の雲」ミュジアム(http://www.sakanouenokumomuseum.jp/)、そして晩年、秋山兄弟の兄好古が松山中学の校長として住んだ、兄弟の生誕の地跡(http://www.shikoku.gr.jp/feature6/akiyama/http://www.akiyama-kyodai.gr.jp/)を訪ねたこともある。松山は「温泉と俳句のまち」というキャッチフレーズでのまちづくりに成功している。また、松山には伺いたいものである。そういえば、「坂の上の雲」ミュジアムは建築家安藤忠雄が設計しており、東大阪にある司馬遼太郎記念館と似ていることが印象的であった。
坂の上の雲
 日本騎兵を育成し、中国大陸でロシアのコサック騎兵と死闘をくりひろげた秋山好古東郷平八郎の参謀として作戦を立案し、日本海海戦バルチック艦隊を破った秋山真之。病床で筆をとり続け、近代俳諧の基礎を築いた正岡子規。この三人を中心に、維新を経て近代国家の仲間入りをしたばかりの「明治日本」と、その明治という時代を生きた「楽天家達」の生涯を描いた司馬遼太郎歴史小説。1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)までの約4年間、産経新聞夕刊に連載された。また、2009年から3年間、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放映された。原作は、 司馬遼太郎であり、彼は、大正12年、大阪府生まれ。大阪外語学校卒業。昭和34年に「梟の城」で直木賞を、平成5年には文化勲章を受賞。平成8年死去。主な著作は、「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「翔ぶが如く」「項羽と劉邦」「花神」など。
 あらすじを紹介すると、 松山の下級武士の家に生まれた秋山好古。「貧乏がいやなら、勉強をおし」と父から言われ、学費が無料である大阪の師範学校に入学する。その後、やはり無料で学べるというだけの理由で陸軍士官学校騎兵科に転じた。しかし、当時の日本には騎兵どころか馬すら十分に存在していない。彼は一から「日本騎兵」を育てていくことになる。好古の弟 秋山真之も上京して友人の正岡子規と共に文学の道を志す。しかし、兄に学費を頼る生活に引け目を感じた真之は、大学予備門を中退し自らも無料で学べる海軍兵学校へ入学した。そして兵学校を首席で卒業し、渡米して海軍戦術の研究に没頭する。日露戦争における日本海軍の戦術はこの時に生まれたと言っても過言ではなかった。
『春や昔十五万石の城下かな』 明治二十八年、松山に戻った正岡子規は故郷の人情や風景ののびやかさを、のびやかなまま詠いあげた。立身出世を志して上京した子規。やがて文学の道へ進むことを決意するが、肺結核に冒されて病床での生活を余儀なくされてしまう。しかし、彼は死と向かい合いながらも筆を執り続け、旧弊と戦い続けて俳句・短歌の革新を成し遂げていく。明治三十五年、子規は志半ばで息を引き取る。その夜は十七夜の月が輝いていた。
明治三十七年二月、日露戦争が勃発。好古は自ら育て上げた騎兵を率いて各地でロシア軍のコサック騎兵と死闘を繰り広げた。そして翌三十八年一月、日本軍左翼を守る秋山旅団の前に十万を超えるロシア軍が襲いかかる。「一歩も逃げない」その信念だけで戦い続けた好古は日本軍を壊滅の危機から救い、決戦の地 奉天へ向かった。明治三十八年五月二十七日、霧が立ちこめる日本海にロシアのバルチック艦隊が姿を現した。連合艦隊の参謀に抜擢された真之は、連合艦隊の旗艦三笠に乗艦し迎撃に向かう。午後一時五十分、三笠にZ旗が掲げられた。「皇国の荒廃、此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」― 国家の命運を賭けた大海戦の火蓋が切って落とされた。
・「坂の上の雲」という題名の意味とは、欧米諸国に追いつこうとして近代化を推し進める明治日本。その近代化の原動力となった明治人たちは、未完成の国家と自らの姿とを重ね合わせ、国創りの一部を担う気概をもってそれぞれの専門分野の確立を目指した。日本騎兵を育て上げた好古、日本海軍の戦術を確立した真之、そして俳句・短歌の革新を成し遂げた子規、主人公はそんな明治人たちの一例である。そして、本文で「この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれない」とも述べられているように、国全体が、そこに生きる人々すべてが、目の前に浮かぶ雲(夢、目標)を見つめながら近代化への坂を上り、その実現に向けて突き進んでいった。

(10月14日生まれの偉人)
◆岩崎 久弥(いわさき ひさや、1865年10月14日〈慶応元年8月25日〉 - 1955年12月2日)は、日本の実業家。三菱財閥3代目総帥。1893年男爵を授けられた。久弥は岩崎弥太郎http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130109)・喜勢夫妻の長男として土佐国に生まれた。父・弥太郎は三菱財閥の創設者。福澤諭吉http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130110)の慶應義塾に幼稚舎から入塾。3年後に父が開設した三菱商業学校(明治義塾)に転じ、英語や簿記、法律、経済を学んだ。慶應義塾普通部を卒業後、1886年明治24年)にアメリカのペンシルベニア大学に留学。1891年に帰国後、副社長として三菱社に入り、1893年、三菱社の合資会社転換と共に、叔父・岩崎弥之助に代わって社長に就任。以後、1916年にいとこの岩崎小弥太に社長を譲るまで、三菱財閥三代目として長崎造船所の近代化や東京・丸の内地区の開発など事業の拡充を図り、麒麟麦酒などの創業にも関わった。また、現在でいう事業部制を三菱合資会社に導入し、グループの活性化をもたらした。
 久弥は、1924年、アジア学研究のための図書館・東洋文庫(東京都文京区本駒込)を設立するなど、さまざまな社会貢献をした。東京都江東区清澄の清澄庭園、文京区本駒込六義園(りくぎえん)(http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index031.html)は、それぞれ1924年と1938年に久弥が東京市に寄付したものである。東京市下谷区茅町にあった岩崎家本宅は、1896年に久弥が建てたものである。現在、洋館、撞球室(ビリヤード場)、和館の一部が残り、宅地とともに重要文化財に指定されている。洋館と撞球室はジョサイア・コンドルの設計である。岩崎久弥邸は、第二次世界大戦後は最高裁判所司法研修所などとして使用されていたが、2001年より東京都の管理で「旧岩崎邸庭園」(http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index035.html)として一般公開されている。
◆正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日(慶応3年9月17日) - 1902年(明治35年)9月19日)は、日本の俳人歌人国語学研究家である。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人である。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。
 伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)に松山藩士正岡常尚と八重の間に長男として生まれた。母は、藩の儒者大原観山の長女。1872年(明治5年)、幼くして父が没したために家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外祖父・観山の私塾に通って漢書素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、後に勝山学校に転校。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また自由民権運動の影響を受け、政談にも関心を熱中したという。
 1880年明治13年)、旧制愛媛一中(現・松山東高)に入学。1883年(明治16年)、同校を中退して上京し、受験勉強のために共立学校(現・開成高)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。1890年(明治23年)、帝国大学哲学科に進学したものの、後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行う。愛媛一中、共立学校で同級だった秋山真之http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130412)とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として勝田主計がいた。東大予備門では夏目漱石http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130209)・南方熊楠http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130518)・山田美妙らと同窓。大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で1892年(明治25年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。1893年明治26年)に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。1894年(明治27年)夏に日清戦争が勃発すると、翌1895年(明治28年)4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた。 その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。1897年(明治30年)に俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。短歌においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。古今集を否定し万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新につとめた。根岸短歌会は後に伊藤左千夫http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130918)・長塚節・岡麓らにより短歌結社『アララギ』へと発展していく。やがて病いに臥せつつ『病牀六尺』を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録と、現在まで読まれている。

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121014