朝から雨模様。そして、『賢人のかたあきこ』を知る。

◆朝から、雨の中、畑の草取り。掃除・洗濯・食事と一日母親の世話に追われる。

◆『賢人:のかたあきこ』(2013年10月20日放送 21:54 - 22:48 テレビ東京ソロモン流 」より)
 のかたあきこは旅ジャーナリストで、メディアだけでなくリゾート会社の社長であるあの星野佳路さんも注目している。のかたさんは温泉に関する造詣が深く、突然の飛び込み取材を行うこともあるという。のかたさんにとって旅の仕事は人生そのもので、いい湯を求めて東奔西走している。旅ジャーナリストののかたあきこさんは昨年オープンした星野リゾート 界 箱根を訪れた。到着するなり部屋の内装や景色を撮影し、のかたさんは女性目線にこだわった取材を行った。そして風呂では、お湯を揺らすことで外の自然と調和したかのような撮影を行った。のかたあきこは星野リゾート社長の星野佳路さんと対面し、インタビューを開始。星野さんは他の媒体では扱っていない日本の地方にある魅力的な場所、ものを紹介するのかたさんに注目している。
 旅ジャーナリストののかたあきこさんは旅の魅力を伝えようと、雑誌づくりには一切の余念がない。雑誌を手がける中文子さんはのかたさんについて、「女性らしい思いやりのある文章を書き、すっと入ってくる」とコメント。旅ジャーナリストののかたあきこさんは宮城県蔵王町にある温泉地を目指す途中、日本滝100選に選ばれている三階の滝を撮影した。そして目的地の「峩々温泉」に到着し、のかたさんならではの視点からスタッフへのインタビューや、部屋の撮影を開始した。温泉は明治時代に湯治場として栄え、胃腸病の名湯として知られている。
 のかたあきこさんは「峩々温泉」で100年以上愛され続ける名湯に浸かり、古い角質を落としてくれるなど美肌の湯と評した。さらに内風呂は胃腸病の名湯とされていて、45度のあつ湯を自分が弱いと思う体の部分にかけていくことで内蔵に染みていくような感じがすると述べた。そして宿泊所では調理に温泉水を使用し、「温泉せいろ蒸し」や「芋煮汁」といった地元で採れた野菜を使った料理は色艶やモチモチ感が増すという。のかたさんは寝る暇を惜しんで、朝焼けや昼間よって変化する景観や温泉も撮影している。旅ジャーナリストとして活動するのかたあきこさんは星野リゾート 奥入瀬渓流ホテルを訪れた。ホテルでは奥入瀬渓流に自生する苔にフォーカスを当て、ガイドと共にルーペで苔散策をするといったプランを展開している。
 のかたあきこさんは七戸十和田駅から都内までの新幹線を待つ間、東八甲田温泉で一風呂を浴びた。のかたあきこさんは早稲田大学を卒業後に旅行読売出版社に入社するも、旅行に関する豊富な知識を持つ先輩方についてきくことができなかったという。それい以来、見たもの、感じたものを記事にするため年間200日は地方を訪れるという現場主義を貫いている。旅ジャーナリストとして活動するのかたあきこさんは京都市にある葵・鴨川邸を訪れた。築100年の町家だが、古き良き京都を感じさせつつホテルの快適さを追求した部屋がある。のかたさんは夕食に町家で仕出し弁当「洛中弁当」を堪能した。旅ジャーナリストののかたさんは取材で訪れた宿泊所の翌朝にはランニングをして、周辺の事を更に知ろうと心がけている。立ち寄った「汎洛」では朝食を購入しつつ、店員さんにインタビューを行った。
 船越英一郎は旅ジャーナリストののかたあきこと対面し、「東京オーブン」を訪れた。お店では温泉を使った料理を堪能でき、船越は「温泉もやしのヴィシソワーズ」、「カマンベールの温泉醸造醤油漬け」などを堪能した。さらに店では源泉そのものの美肌成分を活かした「温泉ミスト」が販売されている。
旅ジャーナリストののかたあきこさんは温泉通の船越英一郎に対して、青森県蔦温泉旅館をオススメした。辺り一帯は群林に囲まれ、大正時代に建てられた旅館。温泉は木の温もりに溢れている。船越英一郎もよく知る「よしが浦温泉ランプの宿」では絶景を見渡せる展望台や海を一望できるスモールヴィラが完成した。旅ジャーナリストとして活動するのかたあきこは山形・野沢市にある、歩いてしかいけない秘湯を目指した。旅ジャーナリストののかたあきこがオススメする宿は歩いてしかいけず、荷物はケーブルで運搬してくれる。到着した目的地「大平温泉 滝見屋」は山間の一軒宿で、電力は自家発電。また露天風呂は川沿いにあり、秋には紅葉を眺めながら浸かることができる。のかたさんは「女将さんが守らなければいけないと思っている大自然の秘湯の素晴らしさを伝えてきたいと思います」とコメント。
 旅ジャーナリストののかたあきこさんは個々の宿だけでなく、温泉街全体を盛り上げる必要性を感じている。有馬温泉にある陶泉 御所坊は歴史的に重要な品々が残され、温泉は湯冷めしにくいのが特徴。また「御所坊 山家料理」は自家栽培した食材を使用している。のかたさんは有馬温泉街を盛り上げるため、風呂あがりに歩きたくなるような抗菌性や快適性を追求した下駄を提案した。旅ジャーナリストとして活動するのかたあきこさんは、地域活性化のために子どもたちが参加した北海道・東北B-1グランプリを訪れた。のかたさんはまちおこしイベントをライフワークにしていて、旅の良さを伝え続けていきたいと述べた。

(10月20日生まれの偉人)
◆杉田 玄白(すぎた げんぱく、享保18年9月13日(1733年10月20日) - 文化14年4月17日(1817年6月1日))は、江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩医。私塾天真楼を主催。
 杉田氏は近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系。後北条氏に仕えた真野信安のときに間宮姓に改め、子の長安の代に復姓。医家としては、玄白で3代目にあたる。同時代に活躍し、間宮海峡にその名を残す探検家である間宮林蔵(*①)は同族である。
明和8年(1771年)、自身の回想録である『蘭学事始』によれば、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れる。玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する。偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢(*②)や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。玄白、良沢、淳庵らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行するに至る。
明和8年(1771年)、自身の回想録である『蘭学事始』によれば、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れる。玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する。偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。玄白、良沢、淳庵らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行するに至る。
*①間宮 林蔵(まみや りんぞう、安永9年(1780年) - 天保15年2月26日(1844年4月13日))は江戸時代後期の隠密、探検家である。近藤重蔵平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。名は倫宗(ともむね)。農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人であった。
*②前野 良沢(まえの りょうたく、享保8年(1723年) - 享和3年10月17日(1803年11月30日))は、豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医蘭学者。『解体新書』の主幹翻訳者の一人。良沢は通称で、名は熹(よみす)、字は子悦、号は楽山、のちに蘭化。
◆渡辺 崋山(わたなべ かざん、寛政5年9月16日(1793年10月20日) - 天保12年10月11日(1841年11月23日))は、江戸時代後期の武士、画家。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。通称は登(のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮毫)、諱は定静(さだやす)。号ははじめ華山で、35歳ころに崋山と改めた。
 少年時代から家計の窮迫を救うため得意の画筆で内職に努め,文化6(1809)年花鳥画家金子金陵 に入門,次いで谷文晁 に師事。同8年佐藤一斎に入門して儒学を学ぶ。文政7(1824)年父の死によって家督相続。若いころから代々の藩主の身辺に仕えたが,同11年以後は世嗣からはずされた三宅友信の側近を兼ねながら,天保3(1832)年の年寄役兼海防事務掛,同7年の江戸留守居役にいたるまで,1万2000石の小藩の藩務とその改革に尽力した。 その間種々の画法を研究しながら「一掃百態」(1818)などの風俗写生に才をみせ,洋風画法をも摂取して特に佐藤一斎,松崎慊堂,鷹見泉石,市河米庵などの学者,武士の肖像画に洞察の深さと筆鋒の鋭さを発揮した。文政8年の鹿島,銚子への旅の写生集『四州真景図巻』,天保2年の厚木旅行の『游相日記』,また桐生行きの『毛武游記』,天保4年に海防掛として田原領内から神島をめぐった折の『参海雑志』など写生入りの旅日記の類も,武人画家崋山の民衆生活への観察と共感のこまやかさを伝えて比類ない。洋風画研究は天保年間に入ると洋学研究へと進み,天保のなかばごろシーボルト門下の小関三英,高野長英らと尚歯会に加わり,蘭書によって西洋の地歴と海外情勢を探索。同9年蘭館長ニーマンとの問答を「鴃舌或問」にまとめ,前年の米船モリソン号打ち払いの事件に刺激されて日本の危機を告発する「慎機論」を執筆。翌10年5月目付鳥居耀蔵の讒訴により幕政誹謗のかどで入牢(蛮社の獄),11年田原に蟄居を命ぜられ,「黄梁一炊図」『虫魚帖』などの画作に心事を託して翌年10月11日夜自刃した。
 ・渡辺崋山 田原市博物館 http://www.taharamuseum.gr.jp/kazan/

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121020