今日は文化の日です。高倉健、そして手塚治虫。

◆ 一日畑作業。畝づくり。とりあえず、何の種をまこうかな>季節は秋から冬にかけて中間地ではあまり蒔くものがない。少し勉強せねばなるまい。

◆『辛抱ばい…母の言葉を支えに 高倉健の壮絶58年俳優人生』(2013年11月3日放送 22:00 - 23:15 フジテレビ「Mr.サンデー」より)
 高倉健 よろこびの受賞会見 文化勲章で愛する母親に感謝。きょう行われた文化勲章親授式、映画俳優・高倉健(82)が出席した。母・タカノさんの口癖「心房ばい」を会見で語り、母親への深い思いを話した。福岡県中間市で元軍人の高倉健さんの父敏郎さんは炭鉱夫たちを束ねる役職にあった。一方でかつて教師だったという母タカノさんは4人の子どもと家庭を守りぬいた明治の女だった。高倉健さんは自身のエッセイ「高倉健 想 俳優生活」(集英社)の中で、「辛抱せんといかんとよ」という母の言葉が幼少期の心に刻まれたと綴っている。高倉健さんは24歳で東映の第2期ニューフェイスとして映画界入りしたが、父敏郎さんは激怒したという。高倉健さんは自身のエッセイ「高倉健 想〜sou〜 俳優生活五〇年」の中で、俳優を仕事にする高倉健さんは父敏郎さんに勘当されたと綴った。その後高倉健さんは映画「八甲田山」「南極物語」などで過酷な撮影に挑戦した。高倉健さんの故郷福岡県東峰村にある「いぶき館」に残されていた資料によると、高倉健さんは「あ、うん」(東宝)という映画の撮影中だったため、葬儀に間に合わなかった。「南極のペンギン」(集英社)によると、母の遺骨をかじったと綴った。

(今日の出来事)
高倉健さんをはじめ5名が文化勲章受賞。映画俳優は初めて。
東北楽天日本シリーズを制覇。球団創設9年目にして初優勝。

(11月3日生まれの偉人)
◆手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治、1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日)は、日本の漫画家、アニメーター、アニメーション監督、医学博士。血液型A型。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、現代にまでにつながる日本の漫画表現の基礎を作った。大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新宝島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。
 1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。藤子不二雄藤子・F・不二雄藤子不二雄A)(*)、石ノ森章太郎http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130125)、赤塚不二夫http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130914)、横山光輝http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130618)などをはじめ数多くの人間が彼に影響を受け漫画家を志した。
 昨年、5月に世田谷文学館で「地上最大の手塚治虫」展を見学した。このネーミングは「地上最大のロボット(『鉄腕アトム』)に由来している。手塚青年は1945年の春に「桃太郎 海の神兵」というマンガ映画を見て、17歳で志を立てる。「一生に一度でもいい。どんなに苦労したって、おれの漫画映画をつくって、この感激を子供たちに伝えてやる」と誓った。敗戦を聞いて「ぼくは、とっさに、こりゃ、もしかしたら漫画家になれるかもしれんぞ、と思った」。この志を充分に果たした人生だった。
 私たちが子供の頃に感動して観ていた「鉄腕アトム」は、1952年から漫画の連載が始まって、その11年後の1963年にフジテレビで放映され、平均30%という高い視聴率を取った。この作品はアメリカでは「アストロ・ボーイ」として放映された。1966年にはプロ野球球団「サンケイアトムズ」のシンボルマークに採用されている。鉄腕アトムは10万馬力だったのだが、エネルギーは小型原子炉(後に核融合)だった。確かにアトムは、原子だ。そして妹はウランちゃんだった。1957年に東海村原子力の灯がともり、1966年に東海発電所が営業運転を開始している。原子力の平和利用という空気の中で、喝采を得たキャラクターだったのだ。
 手塚治虫は、マンガに映画的手法を取り入れた革命児だった。お手本はドイツ映画とフランス映画で、クローズアップ(寄り)とロングショット(引き)などの手法を用いた。1年で365本の映画を観ておりこれが10数年続いた。「マンガ仲間が、飲んだくれたり、マージャンをやったりするなかでも、ひたすら映画に通い続けた」のだ。
無免許の医師を描いたブラックジャック。「死ぬまでの人生を医者の立場からサジェスチョンしてくれないかということは、つまり、一種の精神的な援助をしてほしい。それが今後の医者の大きな務めになるのではないか」手塚治虫の一貫したテーマ「生と死」、その集大成のライフワークが「火の鳥」だ。古代から35世紀の未来までを描いた未完の巨編。
宝塚市手塚治虫記念館http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/tezuka/
<参考>
(*)藤子 不二雄(ふじこ ふじお)は日本の漫画家ユニットで、本名 藤本弘(のちのペンネーム 藤子・F・不二雄)と安孫子素雄(同 藤子不二雄Ⓐ)の共同ペンネームである。1951年にコンビを結成。足塚不二雄などの名義を経て、1954年から、コンビを解消する1987年まで使用。コンビ結成時から長らく、2人で話を考え2人で絵を描いてきたが、互いの作風に変化が出てきた後は別々に作品を執筆し、それぞれが藤子不二雄名義で発表していた。コンビ解消後、藤本は藤子・F・不二雄、安孫子藤子不二雄Ⓐと名乗り、コンビ解消前の作品の多くがそれぞれの名義に改められた。代表作は『オバケのQ太郎』(共作)、『ドラえもん』(藤本)、『パーマン』(藤本)、『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)など多数。川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム http://fujiko-museum.com/pc.php

<昨年の今日>http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20121103